岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド
とりあえず過去執筆した作品、未完成も含めてここへ残しておく

08 擬似母

2023年03月01日 00時17分36秒 | 擬似母

 いつも夜の二時ぐらいになると、店に顔を出すオーナー側の人間である浅田さん。

 僕が働く一円ゲーム屋『ポッカ』は、歌舞伎町内に全部で六店舗の系列店があった。浅田さんは各店の見回り役であり、とても面倒見のいい人だ。

 見掛けはパンチパーマで身長百八十五センチの大男。年齢は四十二、三であるが、貫禄というものがあり、もっと年齢を重ねているように見える。分かり易くいえばコテコテのヤクザ者にしか見えない人だ。

 いつも『ポッカ』に顔を出す際、右手に持っているビニール袋。浅田さんは気さくに話し掛けてくれるので、打ち解けるのに時間は掛からなかった。それでタイミングを見計らい、「浅田さん、いつも持っているビニール袋って何が入っているんですか?」と聞いた。すると彼は「猫の缶詰だよ」と、外見に似合わないデレッとした声で答える。

 家で猫を飼っているのかと思ったが、どうやら歌舞伎町の野良猫たちに毎晩、缶詰を与えているらしい。

 何て外見と似合わない事をするのだろうとおかしかったが、同時にこの人は本当に優しい人なんだなと感じる。

 その優しい浅田さんが店の金を抜いていた葛西の件で、いつもより早い時間にやってきた。

 僕たちがホールで黙々と業務をこなす中、横沢と浅田さんは奥の休憩室で葛西と話しているようである。何て話しているのか非常に気になるが、仕事を放棄する訳にいかない。

 こんな時に限って皮肉にも客が店内に入りきらないぐらいやってくる。新規の客が来れば、まずおしぼりを渡しドリンクの注文を聞く。客は空いている卓に座り、新規伝票を書いてもらう。初回のみ二千円をもらって、クレジット五千点分の『IN』をする。

 ドリンクは奥の休憩室手前へ作りに行くので、葛西をどうしているか様子をチェックできるかもしれない。僕はワクワクしながらドリンクを作り、奥で行われている話し合いに聞き耳を立てた。

 ボソボソ小声で話しているようで何を言っているのか分からないが、葛西はどっちにしろ今日でクビだろう。

 ホールで動き回りながら時計を確認すると、夜中の三時を回っていた。こんな真夜中に地下一階のゲーム屋でポーカーをする連中。他にする事は何もないのだろうか? いつも見ていて不思議に思う事だ。まあ、こういった客が来てくれるから僕も給料をもらい生活が成り立っている訳であるが……。

 ちょうど奥から葛西の両腕を支えるような形で、浅田さんと横沢が出てきた。

 僕は目を合わせないよう、さり気なくホールへ戻る。視界の片隅に見えた葛西の顔。あきらかにさっきよりも、顔が腫れていた……。

 客の『IN』をしつつ、小声で久保山と話す。

「葛西、クビですよね?」

「そりゃそうでしょ」

「はい、一卓さん!」

 リストでホール全体を見ている小林が大きな声を出す。見ると客が札を片手に斜め上に腕を伸ばしていた。僕は猛ダッシュで一卓まで駆け寄り『IN』を入れる。

「一卓さん、三本です!」

「はいっ!」

 リストのところに置いてある灰皿を持って、店内の灰皿交換をする。客に気を遣うのがうちらの仕事でもあるので、吸殻が二本溜まったらすぐ換えるようにしてはいた。

「多分、葛西はケツ持ちのところに連れてかれんじゃないかな」

「ケツ持ちって?」

「バックについているヤクザだよ」

 今までにいくら抜いたのか知らないけど、そんな場所へ葛西は連れて行かれるのか。そう思うと少し同情してしまう。

 いや、あんな礼儀知らずのクソガキ。痛い目に遭って当然だ。

 五分ほどして、横沢はホールに戻ってきた。

「悪かったね。時田君からとりあえず一服してきなよ」

「はい、すみません」

「あ、そうだ。久保山君も一緒にいいよ。ホールは俺が見てるから」

「すみません」

 横沢の気遣いを素直に聞いておく事にした僕と久保山は、奥の休憩室へ向かった。

 久保山はキャビンマイルドに火をつける。

「葛西、クビになってますよね?」

「それはそうでしょ。でも、良かったじゃない、時田君」

「え、何でです?」

「これで新人また一人入るから、部下が一人増えるよ」

 この業界は完全な縦社会。一番下の人間がごみ捨て、トイレ掃除等、雑用仕事は何でもこなさなければならない。今までは僕の仕事だが、新人が入れば少しは楽ができる。

「それは楽しみですね」

「変なの来なければいいけどね」

 久保山の話ではこの業界、金を抜く目的で来るタイプが非常に多いらしく、気が抜けないようだ。

 確かに隼人兄ちゃんの話でも『ダークネス』では、従業員全員がオーナーに秘密で、抜きをしていた。

 それを考えると、比較的この店は真面目なほうになるのだろう。

 一体、葛西の奴は、いくらぐらいの金額をこれまで抜いていたのだろうか。今となってはもう分からない。

 僕はあまり深い事を考えず、この店に来た客のINをし、出来る限り精一杯働くだけだ。

 

 朝方になると、『ポッカ』に来ていた客も少なくなり、半分眠りつつも何とかゲームを続けようとする変わり者の客一人になった。気がつくと、その客は座ったままの状態で鼾を掻き始める。たまに首が左に傾き、そのままだと倒れてしまうのではないかと思うぐらいのところで、ビクッと体を震わせ目覚めた。そしてまたゲームを始める。その繰り返しだった。

 ほとんど仕事らしい仕事もないので従業員一同はリスト付近に集まり、小声で無駄話をしていた。

「おい、小林……」

「な、何すか?」

「人の見ているところで、チンチン堂々と掻くのやめろよ」

「いや、これは直にチンコを掻いている訳ではなくてですね……」

「どっちにしても一緒だよ。見苦しい」

「自分、ちょっとトイレへ行ってくるであります」

 横沢に注意され、小林はトイレに駆け込む。もの凄い勢いで股の部分をボリボリと掻いているのだろう。インキンに掛かった事はないが、彼の様子を毎日のように見る度、清潔って一番だなと実感する。

「まったくあいつは……」

 呆れ顔で小林の後ろ姿を見つめる横沢。

「そういえば店長……」

「ん?」

「葛西さんってどうなったんですか?」

 久保山が本題を切り出した。

「あいつはさ、小林君、久保山君、時田崎君の伝票にするサインあるでしょ? そのサインを似せて書き、偽造伝票を作り、毎日のように金を抜いていたんだよ」

「いつぐらいから、それに気づいたんですか?」

「俺が休みの日になると、いつも入客数が普通よりも多いんだよね。最初は気のせいかと思ったよ。確かに新規目当てで来るドケンチャンも多いしね。あいつの馬鹿なところはさ、バレていないと味を占め、だいたい二十から三十近くの伝票を毎日偽造したとこだね」

 二十から三十…。純粋にその数掛ける三千円だから、一日で六万から九万ぐらいの金を抜いていた計算になる。横沢さん自身一ヶ月で五、六回休むので、最低六万だとしても三十万以上の金を抜いていた訳か。

「じゃあ、当然、葛西さんはクビですか?」

 いちいち聞かなくても分かっているくせに、あえて僕は尋ねた。

「当たり前だよ。俺が出勤してる時だって、数枚、今日みたいにちょろまかしてるぐらいなんだから。さっきあの馬鹿に今まででいくら抜いたんだって聞いたらさ、『多過ぎて分かりません』って言ってさ。そしたら浅田さん、いきなり殴りだしたからなぁ……」

 あの巨漢、そしてグローブのような手で殴られたら、さぞかし痛いだろう。

「葛西の奴、一ヶ月で、どのくらい抜いてたんでしょうね?」と、久保山。

「少なく見積もって、五十万から百万は抜いてたろうね」

 普通に働いて一日の日払いが一万二千円。月に三十万の給料だとしても、葛西は別途で、その金額を稼いでいた計算になる。

 店長の横沢が休みの日、葛西はリストのところから一切ホールへ出ようとしなかった。僕たちが必死に汗水垂らしながらINをしている最中、あいつはセコセコと新規伝票を偽造し金を抜いていたのだ。

 その光景を思い出すと、無性に腹が立ってくる。先ほど殴りつけてやったが、手加減せず、思い切りやってやればよかったな。

「まあ今頃は浅田さんと一緒に事務所にいるか、もしくはサラ金で金を借りさせ返済させているだろうね」

 浅田さんが出入りしている事務所。行った事はなかったが、恐ろしい雰囲気に包まれた怖い場所という想像しか働かない。

 隼人兄ちゃんのいた店『ダークネス』の岩崎といい、ここの葛西といい、抜きがバレたらとんでもない目に遭う。

「まあ、葛西が抜けたから、これから求人出さなきゃ。新人が入ったら時田君、やっと先輩になるね」

「そ、そうですね」

 一番下っ端から、四番手に昇格……。

 ゲーム屋の場合、上が何らかの形で抜けない限り、この序列は変わらない。

「今度はいい新人、入ってくれればいいけどなぁ」

 横沢は、ボソッと呟くように口を開いた。確かにこの『ポッカ』は、先ほどクビになった葛西を除けば、そこそこいい人間関係ができていると思う。僕自身、ガードマンの仕事よりも働きやすいのは事実である。

 この業界で言ういい新人とは、ゲーム屋慣れしていない真面目な従業員を差しているのだろう。

 僕はある程度金を貯めていたので、知子の働くキャバクラへ行く事に決める。彼女の顔を久しぶりに見たかったのと、積もる話をしてみたかった。

 しかし時すでに遅く、知子…、いや、源氏名の真珠は店を辞めてしまったそうだ。連絡先も知らない僕は、他に手立てもなく諦めて帰るしかなかった。

 

 歌舞伎町で働くようになってから初めて幸子が家に来た。いきなり来たからビックリしたけど、嬉しい驚きではある。彼女が高校生の時にした料理を作る約束。それを律儀にこうして今でも作りに来てくれるなんて、ありがたいものだ。

 僕は前もって幸子へプレゼントを買っておいた。中身はネックレス。喜んでくれるかどうか分からないけど、歌舞伎町で多少の金を稼げるようになったのだ。せめてものお礼のつりだった。

「今日は次郎ちゃんの好きなオムライスと、大根サラダを作るからね」

 明るい声で幸子は張り切って台所へ立つ。

 オムライス…、母さんと最後に行ったドイツ食堂を思い出した。

 いつ、プレゼントを渡そうかな……。

 とりあえず彼女の後姿をボーっと眺めていた。

「あ、次郎君。大根サラダ、冷やしておいたほうがおいしいから、冷蔵庫に入れておいてくれる?」

「はいはい」

 まだ歌舞伎町で働いている事は彼女に内緒だった。別段隠しているつもりはなかったが、どう現状を説明していいのか分からないでいる。変に心配させたり不安がらせたりするのも嫌なので、あえて口にしていない。

 幸子と一緒に食べる食事は、いつだってうまい。でも、いつまでこんな状態が続くのだろう?

 少なくても彼女が結婚してしまったら、もうこういう機会は二度と訪れないんじゃないか。その相手が誰なのか…、僕はその候補に入る資格なんてない。これまでに二人の人間を殺してしまったのだから。

 食べながら以前隼人兄ちゃんとの会話を思い出していた。

「次郎さ…、ひょっとしてその子、おまえに気があるだろ」

「それはないよ。だってただの幼馴染だもん」

「ただの幼馴染が社会人になっても、おまえの家まで料理を定期的に作りに来てくれるのか? 好意がなければできないし、女って好きな男には何かしてあげたいって奴、多いぜ」

「……」

 一緒に酒を飲んで、兄ちゃんがここへ泊まった日の会話。僕はその件について、これ以上何か口にする事はできなかった。

「おいしい?」

 優しい笑みを浮かべながら僕に聞いてくる幸子。

「うん、最高においしい」

 僕も微笑み返す。兄ちゃんがあんな事言い出すから、今日は何だか変に意識してしまうな……。

 あ、そうだ。プレゼント渡しておこう。

「ねえ、幸子ちゃん」

「なあに?」

「これ…、良かったら」

「ん? 何よ、これ?」

「いつもご馳走になっているからさ、プレゼント」

「へえ、中身は何?」

「開けてみていいよ」

 思ったよりも幸子は嬉しそうな表情をしているのでホッとする。彼女はまるで子供がはしゃぐかのように包装紙を取り、中身を確認した。

「ねえ…、これ…、結構高かったんじゃないの?」

「そんなでもないって。これでも一応働いているんだしさ」

 現金にして五万円のネックレス。それがどのぐらい高価なものかは僕に分からない。

「そんな無理しないで」

「め、迷惑だった?」

「ううん…、嬉しいに決まってんでしょ、もう」

「良かった」

「あ、あのさ、私もプレゼントあったんだ」

「え? プレゼント?」

「ビックリさせたいからさ、ちょっとの間、目を閉じていて」

「え、何で?」

「いいから早く」

 仕方なく目を閉じる。幸子の奴、料理を作る材料以外に何か持ってきていたっけ?

「……っ!」

 不意に唇へ何かが触れる。目を閉じていても分かった。幸子の唇だ……。

 何故? 思っていた通り、幸子も僕を?

 幼少期からずっと抑え込んでいた想いが一気に爆発した。気付けば僕は幸子を強く抱き締め、そのまま床へ押し倒していた。

 

 長年想い続けた幼馴染を抱く。

 この日、僕はこれまでの人生で最良と思えた。

 セックスに没頭する間、幸子は喘ぎ声以外何も話さなかった。僕は無我夢中で何度も彼女を求め、幸子はそれに受け応えてくれる。

 もはや僕たちに言葉は必要なかった。貪欲に相手の体を求め、何度も射精した。

 ずっと抱きたいと思い、何度も幸子の裸を想像し、マスターベーションで自分を慰めてきた。想像が今、こうして現実に……。

 夢の中にいるかのような錯覚さえ感じる。

 たまたま買ったネックレス。それがこうなったきっかけ? 多分幸子も僕とこうなるきっかけをずっと同じように待っていたのかもしれない。

 貴子を抱いた以来のセックス。細身で抱き心地は全然違うけど、あの時以上に気持ちよかった。

 もう幼馴染じゃない。では何? どんな関係? 恋人同士? まだ確認し合った訳じゃないし……。

 体力の限界まで腰を動かし続けた。

 僕は放心したような状態で、そのまま幸子の体へ被さる。暖かい…、そして心地いい。

「私ね……」

 そこで幸子は初めて口を開いた。

「ん?」

「ずっと小さい頃から次郎君が大好きだったの……」

 全身に電流が流れたような痺れを感じ、そっと宝物を包み込むように抱き締める。

「僕も……」

 今まで我慢していた。本当はもっと早くこうなりたかった。

「ちゃんと言って…。僕もじゃ分からない……」

「僕もずっと君が好きだった…。ずっとこんな風にしたかった……」

「ありがとう……。嬉しい……」

 顔を上げる。幸子の声質が変わっていたからだ。

「……」

 彼女は手で顔を隠し、静かに泣いていた。嬉しさからくる涙? その姿を見ていると、とても愛おしくなってくる。またできるだけ丁重に抱き締めた。

 このままずっとこうしていたい。時間が許してくれるのなら。

 生まれてから今まで不幸だと思い続けていた。

 でも、違う。

 多分今日のこの時の為に…、感動できるよう神様が設定していたのかもしれない。

 傷だらけだった心。大きな風穴が開いていたけど、たった今、それはすべて埋まった。幸子のおかげで……。

 朝まで僕たちは一緒に過ごした。特に話をする訳でもなく、ただ寄り添って体をくっつけていた。

「エヘへ…、明るくなると恥ずかしさが出てきちゃった」

 目覚めると幸子が目の前にいる現実。

「おはよう」

 満面の笑みで挨拶をした。

「おはよう。ずっとこうしていたいなあ…。今日大学なんてなければなあ……」

「いつでもまたおいでよ、ここに」

「うん、ありがとう」

 これが最後に交わした幸子のとの会話だった。何故ならこの日の夕方、幸子は自分の部屋で首を吊って自殺してしまったから……。

 

 幸子の意味不明の自殺から数日経つ。

 僕はずっと仕事も休み、泣くだけだった。何故彼女は自殺などしてしまったのか? あの日お互いを求め合い、これからずっと一緒にって思っていたのに……。

 家に閉じこもり、何もする気になれなかった。そんな最中、幸子のおばさんは僕に手紙を届けてくれた。

 渡そうかどうか散々迷ったらしいが、幸子自身の意思がそう書いてあったらしく、苦渋の決断をしたそうだ。

 おばさんの顔はゲッソリと痩せこけている。当たり前だ。最愛の一人娘だった幸子が、命を自ら絶ってしまったのだから。でも僕は気の利いた台詞一つも掛けてあげられない。今、どんな言葉を言ったところで、おばさんの心へ届くとは思えなかった。

「ありがとう…。そう、あの子はあなたに伝えてほしいと……」

「……」

 それだけ言うと、おばさんは帰ってしまう。

 一人になると、僕は自分宛に書いたという幸子の遺書を読んでみた。

【次郎ちゃん…、本当にありがとう。おそらくこの手紙を読んでいる時、私はもうこの世にいないと思います。とても心配させちゃって、辛い思いさせちゃってごめんね。あなたに抱かれた前日の話をします。私が大学でサークルに入っていたのは知っているよね? 結構楽しくやってきたつもりだったんだ。それでサークルの飲み会がその日あって、私は参加したの。その時かなりお酒を飲まされてダウンしたんだ。目が覚めると、サークルの男子生徒数名が裸で私を取り囲むようにいて、私自身も裸だった。懸命に抵抗したんだけど、数名の男の力になんて敵う訳がないんだよね…。私は何度も犯され続け、気がついたら次郎ちゃんの家に向かっていた。生きているのも辛くてどうしていいか分からなかったの。訳も分からず汚れてしまった私。だからせめて次郎ちゃんにおいしいものでも作ってあげようって。まさかあんな風に優しく抱かれるなんて思わなかったけど、本当に幸せを感じた。実はずっとあの時寝ないで、あなたの寝顔を眺めていたんだ。この人とこうしてずっと一緒にいたいって思いながら……】

 僕はここまで読むと、床に突っ伏して思い切り泣いた。じゃあ何故、幸子は自殺なんてした? 僕とこうなってこれからって思いながら、何で僕を残して死んだんだよ……。

 遺書の続きを読む。何故彼女は死んでしまったのか? それを知りたい。

【…ずっと一緒にいたいって思いながら、次郎ちゃんを見ている内に、こんな汚れてしまった私がそばになんて図々しいんじゃないかって。サークルの人たちに犯されてしまった事を食事中、言おうか迷っていたんだ。でも、それを話してもし、次郎君が私に冷たい視線を向けられたらどうしようって…。自分の中に閉じ込めておくしかないのかな。そんな事を考えている内に、生きているのが嫌になっちゃって。だけど残された次郎ちゃんには、こうして文字を書く事で事実を伝えたい。そう思って今、この文章を書いています。多分お母さん、これを見るだろうから、言っておきます。本当に大事に育ててくれてありがとう。この手紙は、次郎ちゃんにも見せてほしい。そしてありがとうって伝えて下さい。わがままで親不孝な私を許して下さい。 幸子】

 嗚咽を漏らしながら泣いたのは、これが初めてだった。

「馬鹿野郎…、何で僕が君の事を汚いなんて思うんだよ……。そんな風に思うはずないだろ? 馬鹿……」

 涙が止まらなかった。

 何度だってこの手で抱き締めたいって、思っていたのに……。

 初めて食べた彼女の手料理は、塩辛いおにぎりだった。それから彼女は陰でひたすら努力してきたのだろう。抜群な味付けの料理をいつだって振舞ってくれたのだ。

 もう二度とそれらを食べる事は叶わない。

 自分だけこうして生きているのが辛かった。

 枯れるまで泣き続けると、僕はもう一度遺書を読み直した。

 最愛の人を失った。

 その原因を作った連中…。こいつらだけは僕がこの手で殺してやる。

 

 やるせない怒り。これを静めるには幸子を弄んだ奴らの命を消す必要があった。

 しかし、そんな思いすら世の中は叶えてくれない。幸子のおばさんが娘の自殺の起因を話したので、サークルの連中は警察に捕まってしまったのだ。刑務所の中じゃ、僕がどんな事をしようと手の出しようがない。

 再び目標を失った僕。仕事もこの数日間行かなかったので、クビになる。そんな事どうでもよかった。

 ピンポーン……。

 玄関のインターホンが鳴る。誰だ?

 急いで玄関へ向かうと、幸子のおばさんだった。

「おばさん……」

「ごめんね、次郎君…。うちの娘のせいで気苦労させちゃって……」

「そんな事ないです! だって僕は幸子ちゃんを……」

 そこまで言い掛けて言葉が詰まる。また流れ出す涙。どれだけ泣いてもどこからか溢れ出てきた。

 おばさんは黙ったまま、袋を手渡してくる。受け取ると中身は温かかった。

「これって……」

「次郎君をおばさん、よく家に招いたでしょ? あれって私ももちろんそうなんだけど、幸子がいつも言っていた事なんだ。お父さんもお母さんも次郎君はいない。だから家庭の味が分からない。お母さんの料理で次郎君を喜ばせてあげてって……」

「う……」

 言いたい事が声にならない。ずっと幸子は僕の事を気に掛けてくれて……。

「あの子、あなたに再会するまで、本当に料理駄目な子でね……」

「は…、はい……」

「急に『お母さん、料理を教えて』なんて言い出すからさ、本当にビックリしちゃった」

「……」

 もっと早く彼女をこの手で抱いていたら…、そしたらサークルなんて入らず、ずっと僕と一緒にいてくれたかもしれない。そしたらこんな風な展開になんて、ならなかったのに。

 やっと幸せになれると思った。でも、一瞬でそれは消し飛んでしまった。

「だからね、あの子の意思もあるけど、おばさん、たまにこうやって料理を作ってあげる。次郎君にいい人ができるまで」

 僕はおばさんに抱きつき、号泣していた。そして母さんのぬくもりって、こんな感じなのかなと考えていた。

 優しく髪の毛を撫でてくれたおばさん。二十二歳にもなって幼馴染の母親に甘える僕。

 本当は僕なんかよりも、実の親であるおばさんのほうが悲しみは深い。それなのにこうして気遣ってくれる。

 幸子の分まで僕は幸せにならなきゃ駄目だ。そんな感じがした。

 夜になって直樹君が久しぶりに連絡をくれる。用件は幸子の事だった。僕たちは予定を合わせ久しぶりに会い、初めて一緒に酒を飲んだ。

 この場では僕も直樹君も涙は流さず、楽しかった当時を振り返るよう昔話に花を咲かせた。

 

 最愛の人を失った悲しみは、なかなか癒えない。それでも僕はまだこうして生きている。生きている限り、人間は金を稼がなくちゃならない。腹だって減るし、電気代だってタダじゃないのだ。

 特にこれといったスキルもない僕は、再び歌舞伎町へと旅立つ。

 孤独はもう嫌だった。だから人が多く賑やかなあの街を彷徨うのかもしれない。

 クビになった『ポッカ』とは別のゲーム屋で働く事が決まる。

 ただ金を稼ぎ、それを無駄遣いせず貯金する生活。そんな中、自分は接客業が向いている事を自覚した。

 もちろんゲーム屋のような裏稼業などは自分でしたくないが、小さな店でいいから喫茶店のようなものをしたかった。常に客がいて、僕は孤独さを感じない素晴らしい職業。毎日コーヒーを入れてあげ、簡単な軽食を出すような素朴な店でいい。

 ぼんやりと目標が見えてきた。自分で店を……。

 もし幸子が生きていたら、張り切って色々なメニュー作りに協力してくれそうだな。いや、もしなんてないか。もう幸子はこの世に存在しないのだ。

 心の底から愛し求めた存在。こんなに早く失うなんてな……。

 何ヶ月も経ったというのに、僕は昨日の事のように彼女の感触を思い出す。

 いつになったら、この傷は癒えるのだろう?

 歌舞伎町の賑やかさだけが、僕の心を誤魔化してくれた。

 幸子の実家である化粧品の『加賀屋』には、たまに時間を作って顔を出すよう心掛ける。僕なんかじゃ彼女の代わりにならない事ぐらいは承知。しかしそれでも急に老け込んでしまった幸子のおばさんを元気付けたかった。

 おばさんは無理をして僕の前では笑顔になる。今は作り笑顔でも構わない。いつか、それが本当の笑顔になれるのなら……。

 擬似の親子関係。本当はこういう人の子供で生まれたかったな。

 家に戻るとやる事は何もなくなり、ただテレビをつけてボーっとするぐらいしかない。暇って苦痛だな。常に脳裏にちらつく幸子。左手を心臓の上に当て、静かにこの苦しむを堪える。

 もう孤独は嫌だ……。

 誰かに会いたかった。でも誰に?

 直樹君は仕事が忙しい。もう幸子はいない。

 あ、隼人兄ちゃんは……。

 歌舞伎町に行ってから兄ちゃんとは一度も会っていない。今頃どうしているのかな。元気でやっているのだろうか?

 僕から電話を掛けてみる事にした。

「はい……」

「あ、隼人兄ちゃん? 僕、次郎だけど……」

「はあ? 誰?」

「え…、あの…、赤崎隼人さんの携帯電話ですよね?」

「違いますよ」

 ガチャン……。

 電話を切られ、しばらく受話器を持ったまま立っていた。兄ちゃんの携帯電話番号が変わっている。何故僕に連絡をくれないのだろう?

 何もなければいいんだけど……。

 

 こんな調子で一年以上経ち、時間だけが無情に過ぎていった。

 僕はもう二十三歳になっている。無駄に年数だけこうして重ねていく。幸子を失った悲しみは徐々にだけど、本当に少しずつ薄れているような気がした。時間が経つと、人間はこうして過去の事を忘れていくのだろうか?

 そういえば最近母さんや藤岡を殺した事なんて思い出した事もないや。

 罪深き僕の人生。

 母さんを殺し、藤岡を殺し、最愛の幸子は自殺。兄と慕った隼人兄ちゃんとは連絡すらつかない現状。

 生きている価値なんてあるのかな……。

 つい、そんな事を自問自答してしまう。

 家の中で考えてもキリがない。空気を吸いに出よう。

 街の中をブラブラ歩いていると、『母の日』と書かれたポスターが色々な店に貼ってあるのに気付く。

 母の日……。

 この手で殺してしまった母さんの顔を思い出す。

 次に思い浮かんだのは、幸子のおばさんだった。

 花屋の前を通ると、カーネーションがたくさん置いてあった。これ、僕がプレゼントしたら、おばさん…、喜んでくれるかな……。

「いらっしゃいませ」

 花屋の店員が立ち止まってカーネーションを見る僕に声を掛けてきた。

「カーネーションをお求めですか?」

「あ、あの…、母の日って花をみんなが贈るとしたら、どの花を贈りますか?」

「やっぱりカーネーションが断トツで人気ですね。当店もこうして母の日近辺になると、たくさん仕入れますから」

 これをおばさんに買ってあげよう。幸子が生きていたら、多分こんな風にプレゼントしたかもしれない。

「これ、一つ下さい」

「はい、分かりました」

 僕はピンクのカーネーションを購入すると、幸子のおばさんが経営する『加賀屋』へ向かった。自然と早歩きになってしまう。一刻も早く、おばさんの喜ぶ顔が見たかった。

 到着すると、まずガラス越しに店内の様子を確認する。他にお客さんがいる状態なら、僕が行っても商売の邪魔になるだけ。運が良かったのか、『加賀屋』にはおばさんの姿しか見えない。

 少し照れ臭いけど、これを渡そう。

 自動ドアを開けて中へ入る。

「あら、次郎君、どうしたの?」

「いえ、あの…、これ…、良かったら」

「え?」

「街をブラブラしてて、たまたま花屋の前を通ったら、強引に買わされてしまいまして」

「……」

「良かったらどうぞ」

「……」

 おばさんは複雑な表情をしながら受け取る。もう少し喜んでくれると思ったんだけどな。

「おばさんは…、次郎君のお母さんじゃないぞ」

 そう言いながら笑顔を見せるおばさん。

「え、ええ…、分かってますよ。ただ花をこのまま捨てちゃうのもったいない気がして」

 それだけ言うと、僕は店を飛び出した。街の景色が滲む。僕は歩きながら人目もはばからず泣いていた。

 そう…、本当のお母さんだったらいいなって思っただけで、どうしたって親子じゃないんだ……。

 もう、あまりあそこへ顔を出すのはやめよう。おばさんの仕事の邪魔になるだけ。僕は自分に言い聞かせ、家に戻った。そして膝を抱えて静かに泣いた。

 

 人生とは孤独との戦い。これはあくまでも僕自身の人生についてだが、そんな風に最近捉えるようになった。

 他の人とのコミュニケーション能力が欠けているからかな。大人数の中へ紛れるのは昔から苦手だった。何故かよく分からないけど、妙に息苦しさを感じるのだ。

 気の合う人間と一対一。これが理想に近い。その理想に一番近かった幸子。いくら願っても、もうそばにはいない。

 このまま歌舞伎町で働き続け、母さんを殺したあの場所へ戻るだけの生活がずっと続くのだろうか? そう思うと溜まらなく叫びたくなる。

 誰も僕を助けてくれない。

 誰も僕を癒しちゃくれない。

 誰も僕のそばにいてくれない。

 言いようのない孤独感が全身を覆う。

 幸子と共に食事をしたテーブルに座る。

 目を閉じると、目の前に幸子が笑顔で座っている。

 目を開けると、目の前には無機質な壁が見えるだけ。

 温かい居場所がほしかった。ここじゃ、僕には寒過ぎる……。

 ゆっくりと立ち上がり、居間を出る。

 母さんが死んでしばらく放置していた寝室へ向かう。

 ここまで母さんを運んだ幼かった僕。母さんの死体は腐るまで、ここにあったのだ。

 そっと床へ手を添えるように置き、目を閉じた。

「次郎、手を出してごらん」

「あらあら、何をしてんの、次郎。駄目でしょ、動いちゃ……」

「お、お母さん!」

「ほら、いい子だから動かないで」

「や、やめて……」

「大丈夫。大丈夫だから…。母さんもすぐあとを追うから」

「嫌だよ! やめて、お母さん」

「次郎! お願いだから言う事を聞いて!」

「や、やめてよ。お母さん……」

「もうこれ以上はたくさんなの…。何人の男に騙され続けられたんだろ。もう母さんね。生きる気力なくなっちゃったの。次郎、お願いだから動かないで」

「お母さん、どうしちゃったんだよー?」

「二人で楽しいところへ行こう、ね?」

「嫌だっ!」

 ガラン……。

「お母さん!」

「お母さ~んっ!」

「お、お母さん……」

 今でも鮮明に蘇る最後のシーン。この手で親を殺した瞬間から、僕の業は始まった。

 温かい居場所がほしいなら、自分で作るしかない。

 そろそろ自分の居場所を作ってもいいよね、母さん……。

 前から考えていた喫茶店…。働いた金を貯めていても、なかなか先の話になってしまう。それなら、このマンションを売ればどうだろうか? 店を始める軍資金ぐらいにはなるはず。僕はタウンページで不動産の会社を調べ始めた。

 

 

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