歌舞伎町の裏稼業であるゲーム屋から足を洗った僕は、母さんの残してくれたマンションを売り払い、その金で喫茶店を始める事にした。
失敗したらあとはない。それでも良かった。孤独をもう感じたくないのだ。
住居つきの店舗を不動産の紹介で借り、店の準備を開始する。この空間を気に入ってくれる人たちがたくさんできたらいいな。
幼馴染の直樹君にこの事を話すと、休みの日に来てくれ、色々な準備を手伝ってくれた。彼の行動は、素直にありがたいものである。共に一人の女を愛したという共通点を持つ男同士。今じゃもう、彼女の思い出を語り合う事しかできない。
「あれ、次郎…、ピンボールの台なんて置くんだ?」
直樹君は店の片隅に置いてある一台のピンボールを見ながら言った。
「うん、昔よく一緒にゲームセンター行ったでしょ? 小遣いでよくピンボールやったじゃない。お菓子も買わないでさ」
「懐かしいなあ」
「やってみたら? 今やってもそこそこ楽しめるよ」
「へー、じゃあお言葉に甘えて」
彼がピンボールに集中している間、僕は隼人兄ちゃんと遊んだ頃を思い出していた。兄ちゃんはよくこれをやっていたっけな。そもそもこの台を置こうと思ったのだって、いつか兄ちゃんが噂を聞いて、来てくれるんじゃないかって思ったからだ。
また隼人兄ちゃんに会いたい。直樹君、兄ちゃんの事は覚えているのかな? 聞いてみるか。
「ねえ、直樹君」
「何? あ~、ボールが落ちちゃったじゃん」
「何回だってタダでできるんだからいいでしょ。あのさ、昔よく行ったゲームセンターでさ、年上の隼人兄ちゃんって覚えている? ほら、不良に絡まれた時助けてくれた」
「う~ん、分からねえ…。その人がどうかしたの?」
「ううん、特に。声掛けちゃってごめんね。続き、どうぞ」
僕は彼が夢中になってピンボールをやる姿を笑顔で見つめた。
一ヶ月ほどの準備期間を掛け、とうとう僕のお店が完成する。大したものは出せないけど、来てくれた客には誠心誠意接しよう。ここが僕の求める居場所となるように……。
開店初日。来てくれた客の数は二人。一人は直樹君で、もう一人は幸子のおばさん。現実的な厳しさを痛感する。でもまだ初日だ。挫けちゃいけない。
それでも一ヶ月ほど閑古鳥が鳴くような日々が続いた。この状態が続くと、僕は破滅してしまうかも……。
そう考えるとゾッとする。家賃だって毎月掛かるのだ。それに電気代や水道代だって。でも僕にはジッと待つしか方法がない。あとできる事といったら、定休日を無くす事ぐらいだ。別に休みなんていらない。一人でも多くの客を癒したいから。
その甲斐あってか二ヶ月目に入ると徐々にではあるが、客足が増えていく。うん、この調子でお客さんが途切れなければ、何とかやっていけるかも。
少し希望の光が見えてきたような気がした。
雨の降る日は本当に暇だった。外を歩く人間が極端に減る為、平行してうちに来る客も少なくなる。それでも僕は決まった時間に店を開け、客がいない状態だってここにいなきゃいけない。
「お会計四百五十円です。はい、ちょうどお預かりします。ありがとうございました。またよろしくお願いします」
客を見送るとシーンとなる店内。また一人になっちゃった……。
グラスを磨きながら客を待つ時間がやってくる。窓の外を眺めると、大粒の雨が激しい音を立てて降っていた。これじゃ今日はもう来ないかもな。
ガラン……。
ドアの鐘が鳴り、一人のメガネを掛けた中年女性が入ってきた。珍しいなこんな大雨の中。でもありがたい客だ。
「いらっしゃいませ」
精一杯の笑顔で出迎え、温かいおしぼりを手渡す。
その中年女性は静かにカウンター席へ腰掛けた。
「温かいコーヒーもらえるかしら」
「はい、かしこまりました」
こんな雨の日なんだから、コーヒーぐらい家で飲めばいいのに。全身濡れてまで来てくれてありがたいものだ。
コーヒーを出すと、中年女性は店内を見回してからゆっくりと飲む。
「あら、あそこにあるのってピンボール?」
「ええ、そうです。今の時代じゃ珍しいかなと思いまして」
「そうね…、うちの直樹が子供の頃、よくねだられたわ」
「え、直樹君って……」
「ああ、挨拶遅れちゃってごめんね。私、直樹の母親の敏子って言います」
「直樹君のお母さんですか……」
「電話でぐらいしか話した事なかったものね」
「今日はどうしたんです?」
「うちの直樹からあんたがここで店を出してって、興奮して言っていたからね。だから帰り道に寄ってみたの」
「そうでしたか…、こんな雨の中わざわざありがとうございます」
「本当はもっと早く来ようと思ったんだけどね。遅くなってごめんね」
「何をおっしゃるんですか。こうして来ていただき、それだけで嬉しいです」
「あ、そうだ。あんた、漬物食べないかい? ぬか漬けのキュウリ持ってきたんだけど、良かったら食べて」
そう言ってバックから、ビニール袋に入ったキュウリをカウンターの上に置く。
「ぬか漬けですか? 僕…、ぬか漬けのキュウリって大好きなんです。最近そういうの出してくれるお店って減ったじゃないですか。素直に嬉しいです」
「じゃあさ、今度あんたに私が三代続いて継承しているぬか床を分けてあげるよ。お店なんだし、そういうものがあったっていいでしょ」
「そんな…、そこまでしてもらったら申し訳ないですよ」
随分と面倒見のいい人だなと思った。直樹君のお母さんか…。いい人とこうして出会えただけでも、この店を開いた価値があるな。
僕は心の底から感謝を込めて頭を下げた。
それからというもの直樹君のお母さんは、最低週に一度は僕の店に顔を出してくれる。二回目の時は、約束通り本当にぬか床を作って持ってきてくれたからビックリだ。僕がぬか漬けを自分で作るなんて、夢にも思わなかった。
この日より日課としてぬか味噌をかき回す作業が加わる。
まだ数回しか会っていないのに、直樹君のお母さんとは相性がいいのか非常に話が進んだ。我が息子の直樹君を見るような感覚で僕の事を思ってくれたのか、様々なアドバイスをしてくれる。その内容は僕にとってとても興味があり、また勉強になった。僕らの倍以上生きてきた知恵と経験。伊達に年を重ねた訳じゃないんだなと素直に感心する。
また直樹君のお母さんは周囲に気配りをできる人で、店が込み始めるとすぐ自分の荷物を持って席を立ち上がる。
「あ、もっとゆっくりしていけばいいじゃないですか」
気を使っているのが明らかなので僕がそう言うと、「お客さんがこうやって来た時は平等にしなきゃ駄目よ。ほら、あっちで呼んでいるよ。頑張ってね」と笑顔で帰ろうとした。自分だってちゃんと金を払う客で来ているのになあ。
「ではお会計、三百円になります」
いつも気に掛けてもらっているので、料金を安くして提示する。すると直樹君のお母さんは千円札を置いて、「少ないけど取っておきなよ」と返されてしまう。僕は彼女の後ろ姿を見送りながら、深々とお辞儀をするしかない。素晴らしい心の持ち主を母親に持った直樹君が羨ましかった。
頑張ってこの店を盛り立て、いつかこの恩を返せるようにしないと……。
ある日、直樹君のお母さんはこんな話をしてくれた。
とある老人が電車の車両に乗ると、そこは偶然女性専用車両だったらしく、一人の女性が睨みつけながら「あの~、ここは女性専用だから、隣に行ってもらえます?」と言ったらしい。その老人は普通の歩くのもひと苦労で、立っているのすらやっとの状況。
「次郎君、あんたはこの話を聞いて、どう思うかい?」
「僕が…、ですか……。そうですね、まず女性専用車両って言いたい気持ちは分からないでもないですが、物事にはケースバイケースと言うものがあり、そんなこだわりよりもまず、目上の人間を敬う精神をその女性には知ってほしいですね」
「そうかいそうかい」
「だっておそらくその老人の方は、最近できたばかりの女性専用車両なんてシステムすら理解していない可能性もありますし、痴漢とかそういった類の心配もありません。つまりそんな台詞を偉そうに言ったその女性は、現代の女性が強くなったとよく言われますが、ただ自分の主張を言っている馬鹿だと思いますね。自分のエゴを押し通そうとするだけの」
「私はそういう意見を若い人から聞けて嬉しいよ。駅のキヨスクってあるだろ? そこで働いているんだけどさ、あんたの言った言葉を聞かせてやりたいぐらいだよ」
そう微笑みながら言った直樹君のお母さんの顔は、とても優しかった。
もう幸子はいない、そして隼人兄ちゃんも連絡がつかない僕にとって、この店がすべてだった。
客がいなくなると、ぬか味噌をかき回す僕。よく来る常連さんの中で、このぬか漬けのファンもできつつあった。野菜が安い時などは多めにキュウリなどを購入し、たまにサービスで配るようにする。喫茶店に来てキュウリのぬか漬けをプレゼントするなんて変な店だけど、それでも気に入ってくれる人はいた。
まだ少ない人数ではあるが、時間経てばもっと増えていくだろう。
徐々に僕の求めた居場所が完成に近づく。
質素でもいい。金なんてそんなにあっても使い道などないから。
人々の思いやりと優しさがたくさんあれば、僕はそれだけで幸せを感じられる。
そんな風に考えられるようになれたのも、直樹君のお母さんのおかげかもしれない。あの人の影響は僕にとって、とても大きい。
幸子のいない寂しさを少しずつ埋めていきながら、店に没頭する日々。
毎月の家賃の支払いになると、いつも頭を抱えていた。まだ月単位で見れば、毎月赤字経営である。どうしても必要経費で掛かる分まで、売上が届かない。これまで貯めた貯金を切り崩しながら節約し、店を維持するほかないだろう。
客がいない時間をただ待つのは、とても苦痛だった。でも、それを顔に出してはいけない。いつだって僕の作り上げた空間へようこそと、客を笑顔で迎え入れたい。
理想と現実の間に立ち、頭を抱えながらも毎日を過ごす。頑張っていれば、いつか報われる時は必ず来るさ。それを信じて前向きに頑張ろうじゃないか。
そんな事を考えていると、直樹君のお母さんがやってくる。今日は客がいないから、ゆっくり話せそうだ。
「はい、良かったらこれ」
「え?」
「あんた、お肉が好きだってこの間言ってたでしょ? だから仕事帰りデパート寄ったら、肉が特売で安く売っていたから買ってきたんだよ。あとで食べなよ」
「いくらですか? ちゃんと代金払いますよ」
「そんなのいらないよ。私が勝手に食べてもらいたいって買ってきただけなんだからさ」
「……」
本当にこの人は温かいなあ……。
「そうそう次郎君、聞いておくれよ。先日ね、うちの直樹が私を招待してくれたんだよ」
話を詳しく聞くと、直樹君は年に二度のボーナスが入る度、母親の好きな寿司屋へ連れて行くらしい。嬉しそうに話すお母さん。その表情を見ていると、僕まで自然と笑顔になってしまう。
「へえ、案外いいところあるじゃないですか」
「あの子も家を出て今一人暮らしをしているから、気を使ってくれているんだろうね」
「こんなにいいお母さんなんですから…、本当ならもっと気を使わないと、直樹君は罰が当たりますよ」
「あの子が小学生の時に、うちの主人は病気で亡くなってしまって…。女手一つで必死に頑張らなきゃって思ってね。随分と寂しい思いさせちゃったから」
「……」
そう…、僕も直樹君も幼い内に父親を病気で亡くしている。
僕の母さんは育てようじゃなく、一緒に死のうとした……。
直樹君のお母さんは自分の体に鞭を打ち、ここまで頑張ってきた。
同じ子供を生んだ母親同士だけど、この違いは大きい。
もしも、この人が僕のお母さんだったら、どんな人生になっていたんだろうな……。
僕は直樹君のお母さんと話しながら、そんな事を考えていた。
明日は僕の誕生日。あと一日経てば、僕は二十四歳になる。二十二歳で自殺し、それから年を取る事がなくなった幸子。また来年になれば、こうして一歳ずつ年が離れていく。
彼女の写真を取り出し、しばらく眺めた。頬を伝う涙。時間が経ってもまだこの悲しみは癒えていない。写真に写る幸子の表情は、とても明るく綺麗だった。誰が見たって、こんな表情をする子が自殺したなんて思わないだろうな……。
「あ、いらっしゃいませ」
ドアが開いたので、慌ててタオルで顔を拭う。入ってきたのは直樹君のお母さんだった。ここ最近本当に時間を作ってよく来てくれる。ちょっと顔色が優れないように感じたが、仕事が忙しいのだろうか。
「またコーヒーを飲みに来たよ」
「ありがとうございます」
本当に感謝してもしきれない。彼女の存在は、僕の中で精神的ウエイトを大きく占めている。でも、こんなに金を使わせてしまっていいのだろうか?
どう切り出していいか分からず、僕たちはいつものように世間話をして時間を過ごす。
「うちの直樹がまだ小学生だった頃さ…、幼馴染で幸子ちゃんって可愛い子がいたろ?」
「え…、あ、はい……」
急に幸子の名前が出たからビックリした。お母さんは幸子が自殺した原因を知らない。
「いつもあんたの事を引き合いに出していてね。『幸子ちゃんは次郎君よりも、僕のほうが絶対好きなんだよ』って何度も私に言うんだよ」
「そうでしたか…。でも、これはハッキリ言えますが、彼女は僕のほうがきっと好きだったと思いますよ」
「あはは、本当に綺麗で可愛い子だったからね~。直樹もあんたも夢中だったんだ」
「……」
夢中どころか今でもずっと愛している。未だ忘れられない……。
お母さんの前だというのに、僕は気付けば泣いていた。
「ごめんよ、辛い事思い出せちゃったようだね……」
「いえ、そんな事ないです……」
「一つ…、私の話を聞いてくれるかい?」
「はい……」
僕は涙を拭うと、お母さんの顔をジッと見つめる。
「私はね、あんたが小さい時からお母さんが亡くなったっていうのを近所の人たちから聞いてね。それで知ったんだけど、うちの直樹と昔から一緒で、しかも同じクラスで心配していたんだ。でも、私が口を挟める問題じゃないしね。気にはなっていたけど、何一つしてやれなかった」
「そんな事ないですって」
「そんなあんたがお店を開いたって聞いてさ。だから私は頑張ってほしいなって、素直に思ったの」
「……」
「自分でやっていたら色々辛い事だってあるだろう。でも、あんたには本当にこれからも頑張ってほしいなって今でも思っているんだ」
だからこうして常に気に掛けてくれ、多分無理をしてまで通ってくれていたんだな……。
「あ…、ありがとうございます……」
思わずジーンとしてしまったけど、あえて僕は笑顔で心の底から言った。さっき幸子の話で泣いてしまったのにここでは涙を見せたくないなんて、偏屈な性格をしているな、僕って。ずっと寒かった心の中が、今は温かい……。
そこでお互い話は中断して無言になる。僕はさり気なくお母さんの顔を見た。
額や目尻に深く刻み込まれた皺。その分だけ苦労しながら、懸命に直樹君を育てあげた。しかも僕なんかの事を昔から気に掛けてくれていた。
以前幸子のお母さんにカーネーションをあげた時を思い出す。あの時の表情がまだ忘れられない。僕はそこまで甘えちゃいけないのだ。
でも、言わせて下さい。
母さん……。
僕には、母さんと呼べる人間がいません。
だから、あなたの事を心の中だけでいいので、「母さん」と呼ばせてもらっていいでしょうか?
駄目だったら、しょうがないです。
だって嫌な思いなど、させたくないから……。
絶対に口には出せない台詞。だから僕は、そっと心の中で呟いた。
こういう人が僕の母さんだったら、本当に良かったのに……。
とうとう僕の誕生日がやってくる。これで二十四歳になった。でも、いつもと変わらない日常を送る。
時間になれば外へ看板を出し、店内の明かりをつける。掃除をして隅々まで綺麗にした。今日は何人ぐらいの客が来てくれるのだろう。
「おっす、次郎。久しぶりだな」
「あ、直樹君!」
数ヶ月ぶりの再会。数少ない友人でもあり、僕の幼馴染。彼はカウンター席に座ると、「アイスコーヒーちょうだい」と元気よく注文する。
「仕事は忙しいのかい?」
「ああ、死にそうなぐらい忙しい。じゃなかったら、もっとおまえのところに顔を出しているよ」
「それもそうか」
「そうそう…、次郎にお礼を言いたかったんだ」
「え、何で?」
「まずは最初に言わせてくれ…、本当にありがとう」
「ど、どうしちゃったの、急にさ……」
妙にかしこまった直樹君を見て、僕は戸惑いを隠せない。
「うちのお袋いるじゃん」
「うん、本当にこちらこそ頭が上がらないほどお世話になっているよ」
「今朝…、亡くなったんだ……」
「えっ……」
目の前が真っ暗になった。
「昨日来たんだろ、ここへ」
「ねえ…、冗談でしょ? 冗談だって言ってよっ!」
「本来なら出掛けられる状態じゃなかったのによ……」
そう言いながら彼は大粒の涙を流した。
「直樹君っ! 冗談だよね?」
「お袋さ…、実は癌が転移しててさ…、もう助からない状態だったんだ…。家にいる時は一人で苦しんでいたらしい。俺さ、一人暮らしだったから、そんな事すら知らなかったんだ…、亡くなるまで……」
「……」
「お袋とさ、食事に行くと、決まって次郎の話をしてくるんだ。ここに来るの本当に楽しみにしていたんだろうな…。実の息子を差し置いて、まるで自分の子供の事のように、次郎の事を俺に話してくるんだ」
「……」
昨日のお母さんの顔色は確かに悪いなと感じた。まさかそんな状態だったなんて……。
僕に言ってくれたあの言葉。あれは自分の死期を感じ取ったからこそ、わざわざここへ来て伝えたかったのか……。
早過ぎるよ…、僕はお母さんに何一つ恩を返せていない。
「そんなあんたがお店を開いたって聞いてさ。だから私は頑張ってほしいなって、素直に思ったの」
気力を振り絞って言ってくれたあの言葉…。生涯僕は、これをずっと胸に刻み続けるだろう。幸子への気持ちと同じように。
あの時心の中で呟いた言葉。「母さん」って口に出して言えばよかった……。
僕たちはカウンターに突っ伏したまま大泣きした。
親しい人の死。
何度僕はこれを経験してきたのだろうか。
おそらく何度経験したところで、これに慣れる事はないだろう。
人によって、その思い出はそれぞれ違うから。
亡くなってからああしたかったじゃ、遅過ぎるのだ。
感謝があるなら、生きている内に動かなきゃいけない。
じゃないと僕のように、ずっと後悔の念を背負わなきゃいけなくなる。
直樹君のお母さんの葬儀の帰り道、僕はそんな事を考えていた。
辛いなあ…。胸の奥にまた大きな空洞ができたような感覚。どんなに涙を流したところで、それを癒す事はできない現実。
母さんに分けてもらったぬか床。あれを僕はずっと毎日かき回すだろう。身内でもない僕がもらえた唯一の形見だ。
もう、母さんのあの笑顔をこの目で見る事はできない。
せつないなあ。
僕は道端だというのに、また涙をこぼしていた。
「次郎……」
背後から肩を叩かれる。振り向くと隼人兄ちゃんが立っていた。
「どうしたんだよ、こんな道端で?」
「隼人兄ちゃんこそ、今までどこに?」
「悪かったな…、仕事で関西のほうへ行っていたんだ。携帯電話におまえの家の電話番号入れていたんだけどさ、どこかで盗まれちゃってさ。どうやって連絡を取るかって思ったけど、方法がなくてね。こっちに帰ってきたから、これからおまえの家まで顔を出そうと思ったんだ。次郎は何故こんなところで泣いていたんだ?」
「……」
これまでの半生を誰かにすべて話したかった。
母さんを殺してしまった事。
藤岡を殺した事。
幸子が自殺をした事。
母さんと心の中で思っていた人が、先日亡くなった事……。
隼人兄ちゃんなら、分かってくれるかもしれない。そんな思いがあった。
僕は自分の店まで兄ちゃんを連れて行き、これまでの業の深さを包み隠さず話す。黙りつつも時折頷きながら、兄ちゃんは話を聞いてくれた。
「笑っちゃうでしょ…、僕が人を二人も殺していたなんてさ……」
「……」
「全部話せて初めてスッキリできたような気がするよ」
「ちょっと来い、次郎……」
「え、どこへ?」
「いいから来い」
「うん……」
まさか警察へ連れて行こうっていうんじゃ……。
隼人兄ちゃんがそう判断したのなら、それはそれでもいいか。もう僕には希望も何もない。半分投げやりな気分であとをついていく。
二人も殺したんだ…、下手したらずっと牢屋の中かもしれないな。
「着いたぞ、中へ入れ」
「え、ここって……」
「ドイツ食堂だ。早く中へ入れって」
殺してしまった母さんと最期に入った店…、ドイツ食堂……。
先に隼人兄ちゃんが入ったので、慌てて僕も続く。中は昔と変わらず、ドイツの国旗が飾ってあるぐらいだ。
「おい、姉ちゃん」
テーブルに座ると、兄ちゃんは大声でウエイトレスを呼んだ。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
「お子さまランチ二つ」
「え…、あのですね…。これは小学生以下のお子さま用メニューでして……」
「いいから早く、お子さまランチ二つ持って来い」
「は、はあ……」
ムチャクチャな要望をしている兄ちゃん。それでも店側は暴れられては困ると思ったのか、素直にお子さまランチを二つ持ってきた。
「早く食え」
「隼人兄ちゃん……」
「冷めちまうぞ。早く食えって」
「でも……」
「おまえの話を聞いて俺が感じた事はだな…。次郎に子供の頃、それを奢る約束したのを思い出したんだ。嘘つきになるのは嫌だからな」
「僕は人をこ……」
「次郎っ! 料理が冷める。早く食え」
「う、うん……」
「色々大変だったな。でもあまり一人で抱え込むな。おまえは孤独じゃない。少なくても俺がこう言っているんだからな」
僕は震えた手でスプーンを取り、チキンライスを一口食べる。
生まれて初めて食べたお子さまランチは、ちょっとしょっぱかった。
―了―
題名『擬似母』
作者 岩上智一郎
原稿用紙409枚
執筆期間2007年8月27日~2010年9月9日
【内訳】
2007年8月27日~執筆中断
再執筆 2009年5月19日~2009年7月8日執筆中断
再執筆 20108月31日~2010年9月9日 完成
※尚当作品を岩上智一郎最終作品として執筆する
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