岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド
とりあえず過去執筆した作品、未完成も含めてここへ残しておく

02 擬似母

2023年03月01日 00時12分01秒 | 擬似母

 廊下掃除をしていると、貴子と知子が話し掛けてくる。

「次郎君のお母さんとお父さんは、何で次郎ちゃんを捨てたの?」

「べ、別にいいじゃねえかよ……」

 父さんは捨てたじゃなく、病気で亡くなったんだけどな。いちいち言い訳するのも面倒臭い。

「私のお母さんはね。学校から帰ってきたら、台所で首を吊って死んでいたの……」

 貴子は悲しそうな瞳で呟いた。自分の親が目の前で死んだ姿を目の当たりにした貴子は、一体、どう思ったのだろう。僕よりも一つ歳年下の貴子。ひょっとしたら、僕なんかよりも深い悲しみに覆いつくされているのかもしれない。

「貴子の父さんはどうしたの?」

「うん、お母さんが自殺したのを知って、半狂乱状態になってね…。外に飛び出したら、車に跳ねられて、そのまま死んじゃった……」

「そっか……」

 他にどう言葉を掛けていいのか分からない。横で知子は黙って聞いていた。

「次郎君は?」

 貴子の経緯を聞いて、自分の事も語ろうと思った。

「僕が三歳の時に、父さんは癌で亡くなった。母さんは風呂場で亡くなってたらしいんだ」

「次郎君も大変だったんだね……」

「そうでもないよ」

 だって母さんは、僕が殺してしまったのだから……。

「知子ちゃんなんて、もっと可哀相なんだよ。ねえ、知子ちゃん」

 それまで黙っていた知子が、小さく頷く。

「知子ちゃんは、お父さんとお母さんが知子ちゃんの妹と一緒に、自殺しようとしたんだってさ」

 知子は、僕と同じ年の小学校六年生。

「みんなで自殺?」

「うん、知子ちゃん、詳しく話していい?」

「ううん……。私が自分で言うわ…。できれば思い出したくないけど……」

 廊下の窓を一瞬だけ、ジッと見た知子。過去の嫌な記憶を噛み締めながら、思い出しているようだった。

「私の妹はね…。私が小学校三年生の時、幼稚園の年長さんだったの。ほんと可愛い妹でさ…。ある日、私が学校から帰ると、妹がテレビの前で寝てたの。冬だったし、こんなところで寝てたら風邪引いちゃうなと思って、起こそうとしたら……」

 ここまで話し、知子は口を閉ざした。溢れ出てくる涙を懸命に堪えているように見える。

「知子ちゃん、辛いなら無理しなくても……」

 見るに見兼ねた貴子が助け舟を出そうとした。

「ううん、ごめんね…。ちゃんと話すわ…。で、妹を起こそうとしたら、グッタリなっていたの。あれ、変だなと思って顔を見たら……」

「……」

「舌を出して物凄い表情のまま、泡を吹いていたの……」

「……」

「何度も大声で妹に呼びかけたわ。何度も揺さぶって…。でも、妹は死んでいたの…。お父さんに首を締められてね……」

 僕の場合、母さんが風呂場で剃刀を使い、手首を切られるところだった。嫌がって抵抗し、たまたま突き飛ばすような形になったから、僕は助かったのだ。あの時母さんが死んでいなかったら、僕はここにいない。

「妹を抱きかかえていると、後ろから不意に首をつかまれたの…。すごい力で…。振り返ると、それはお父さんだった…。私、無我夢中で暴れて、その時、妹の事なんか頭に全然なくて…。一瞬だけ、お父さんの横で、悲しそうな顔で泣いているお母さんの顔が見えたの…。多分、暴れてる途中、偶然にお父さんの目玉を引っかいたと思うの。私の首を絞める力が緩み、必死に振りほどいて家から逃げ出したんだ…。お父さんを見ると、目を押さえて床で転がって大騒ぎしていた…。私、何か怖くなっちゃって、その場から何も考えないで逃げ出したの…。妹の事なんて何も考えずに……」

 そこまで言うと、嗚咽を漏らしながら知子は泣き出した。横で貴子が肩に手を置き、何か小声でボソボソ話し掛けている。

 もし、母さんがあの時、僕の手首を剃刀でなく首を絞めてきたら、今、この場にはいなかったろうな……。

「知子ちゃんは酷くなんかないよ。しょうがなかったんだよ。妹さんの事まで気を使ってる場合じゃなかったんでしょ?」

 施設の廊下は、貴子の慰めの言葉だけがこだましていた。

 

 今日は待望のお小遣いをもらえる日だ。

 一人五百円ずつもらえる小遣い。僕はずっと我慢していたお菓子を買いに行きたい衝動に駆られる。

「次郎君、お小遣い、何に遣うの?」

 上機嫌な様子で話し掛けてくる知子。前に彼女と貴子の過去を聞き、僕たちはお互い親密感が湧いたようである。

 知子の過去は凄まじい。実の父親に妹を殺され、自分まで殺されかけられたのだから。抵抗し、家から飛び出した知子。彼女が再び家に戻ろうとすると、火事で家が燃えているところだったらしい。両親が、家に火をつけ心中をしたみたいだと聞いた。

 僕の父さんは癌で亡くなり、母さんは殺してしまった。

 貴子の母さんは首吊り自殺で、父さんは交通事故死。

 知子の両親は、妹を殺したあと、家に火をつけ心中。

 施設の他の子たちは、普通に捨てられただけみたいで、僕ら三人だけどこか違っているような気がする。

 乱暴者の努君は、幼い頃、虐待を父親から受けていたらしい。虐待とは言い方を代えれば理不尽な暴力だ。僕も受けたから分かる。だけど、努君はその嫌だった暴力を他の子にチラつかせながら、言う事を利かせるので僕は嫌いだった。

 中学校から帰って来ると、努君は僕らに当り散らす。たまたま留美子先生がそれを見つけると、努君に注意し、僕らは助かる。でも、あとでまたネチネチと努君は苛めを始めた。

 貴子が苛められたら、僕と知子で助けに入る。知子が苛めに遭うと、僕と貴子で止めに入る。僕がやられていると、貴子と知子は留美子先生をすぐ呼びに行ってくれた。

 気付けば、僕、貴子、知子の三人でいつも一緒にいるのが当たり前になっていた。

 お小遣いの日は、いつも三人で何か決めて買いに行く。

「次郎君、今日はアイスにしようよ」

「え~、僕、新製品のスナック菓子がいいんだけどなぁ~」

「次郎君はスナックばっかりじゃない。たまには私や、知子ちゃんに合わせてよ」

「両方スナックもアイスも買っちゃえばいいじゃん」

「そんな無駄遣いしたら、次のお小遣いまで持たないよ~」

「じゃあ、別々に好きなもの買えばいいじゃんか」

「駄目だよ。この間、三人で決めたでしょ? みんなで同じもの買うって」

 一度、約束をすると頑固にそれを守る貴子。

「次郎君、たまには私たちの好みに合わせてよ」

 まだ小六なのに、知子は自分が女というのを自覚しているのか、甘えた素振りを見せながら話す。どこか幼馴染の幸子ちゃんに似た面影のある知子。僕は、彼女に何か言われると、つい甘くなってしまう。

「ちぇっ…。分かったよ……」

 この二人に揃って言われると、何も言い返せやしない。大人しく従い、アイスを買いに行く事になった。

 近所にある駄菓子屋でアイスを買い、公園へ向かう。赤いベンチに腰掛けて、アイスを口に頬張った。

「私、このオレンジのアイス大好きなの」

「そう? 私はシンプルにバニラアイスが一番好き」

「みんな、違う種類のアイス買うんだったら、僕はスナック菓子にすればよかったなぁ~」

「男なんだからブツブツ言わないの」

 順番にシーソーで遊んでいると、公園の外を勉君が通り掛かった。楽しそうにしている僕らを見ると、努君は公園に入り、近づいてくる。

「おい、おまえら。ちょっと相談があるんだけどよ」

 僕ら三人の楽しかった空間が、一転して重苦しいものに変わる。

「な、な~に?」

「まだ、おまえら小遣い残ってんだろ? ちょっとずつでいいから少し貸してくれよ」

「え~、そんなの嫌だよ。だって努君だって、お小遣いもらったんでしょ?」

 顔を真っ赤にして怒る貴子。

「うるせぇんだよ! おい、次郎。おまえ、二百円出せよ」

「え、嫌だよ……」

「留美子先生に言いつけるわよ、いいの?」

 勝気な貴子は、努君を睨みつけながら言った。

「言いつけてみろよ、あっ?」

「痛いっ!」

 努君は、貴子の足を蹴っ飛ばした。

「やめろよ、努君!」

 間に入ると、努君は僕の胸倉をつかみ、威嚇してくる。

 知子はその場に立ちすくみ、ただ泣きじゃくっていた。

 

 僕たちの貴重なお小遣いを毟り取ろうとする努君。

 まだ五十円しか遣ってないから、残りは四百五十円もある。でも、次のお小遣いまで先は長いのだ。知子や貴子なら、困っていれば少しぐらい分けてあげられるだろう。でも、嫌いな努君だけには、一円だってあげたくない。

「一人、二百円ずつでいいんだよ」と、凄む努君。

「嫌だよ、大事なお小遣いを……」

 頭に痛みが走る。努君に叩かれたのだ。

「素直じゃねえな。次郎、おまえだけ三百円にすんぞ?」

「何でだよ」

「何だ、その口の利き方は!」

 再び頭を叩かれ、悔しさと痛みで僕の目に涙が溜まる。拳をギュッと握り締めた。しかし、一つ年上の努君に、僕が敵う訳がない。

 その時、公園に誰かが入ってくるのが見えた。

 努君は、その存在に気がつくと、僕の胸倉をつかんでいた手を離し、呆然としている。

「何だよ、西崎。おまえ、小学生相手に粋がっちゃってよ~」

「学校じゃ、すげー大人しいのに、ガキ相手じゃ、反対にエバってんのか?」

「情けねえ野郎だな~、え、西崎」

 学生服を着た三人組が、僕たちに近づく。努君の事を知っているみたいだ。多分、同じ学校の中学生なんだろう。

「藤岡……」

 努君の体が、小刻みに震えているのが分かる。この人たちは、学校で努君を苛めているグループなんだろう。

「おいおい、俺様を藤岡って呼びつけにするとは、おまえも随分と偉くなったもんだな?」

 藤岡と呼ばれた人物が、目を剥き出しにして怒声を発する。

「ご、ごめん…、ふ、藤岡君……」

「今さら遅せ~んだよっ!」

「げっ…」

 地面にうずくまる努君。藤岡という男の蹴りを腹にもらったみたいだ。

 いつも態度がデカいはずの勉君が、目の前でこんなに弱々しく見えるなんて……。

「す、すいません……」

「うるせんだよ、西崎」

 僕ら三人はその場で固まって、その光景を見ていた。気の強いはずの貴子が、僕の服をギュッと握ってくる。知子は、僕の左手につかまりながら震えていた。

「も、もう勘弁して下さい、藤岡さん……」

「うっせんだよ、この親なしが!」

 藤岡の言った言葉「親なし」。それは僕らにとっても同じ事だった。いつも嫌いなはずの努君が哀れに思え、そして仲間がやられているような感覚を覚える。不思議と苛立っている自分がいた。

「知子、貴子…。おまえら、僕が飛び掛るから、すぐ逃げろ……」

 小声で二人に囁く。

「え、次郎君……」

「いいから、僕が飛び掛るから、すぐ逃げて。分かった?」

 二人とも小さく頷いてくれる。

「うわ~っ!」

 僕は目をつぶりながら、藤岡に向かって突進した。親がいないのは、別に僕たちの責任じゃない。勝手に出て行ったり、いなくなったり、殺されたりしただけだ……。

 不意をつかれ、藤岡は倒れた。僕は、知子と貴子が走って逃げていくのを確認すると、努君のほうを見て叫ぶ。

「努君、今だ! やっちゃえ!」

 しかし、努君は体を大きく震わせているだけで、微塵も動こうとしてくれなかった。下から強い力で押され、僕は地面に転がる。

「いきなり何をしやがんだ、このガキ!」

 藤岡以外の二人も、僕に殴りかかってくる。

 小学生と中学生……。

 一人対三人……。

 敵う訳がない……。

 僕は必死に体を丸めて、両腕でかばいながら地面に突っ伏した。

 

 口の中で血の匂いがする。

 ここまで酷く殴られたのは生まれて初めてだった。

 母さんに手首を切られた時よりも、痛いや……。

 ゆっくりと目を開け、辺りの様子を見渡す。先ほどの中学生三人組は、どこかへ行ったようだ。水道のところで水を飲んでいる努君の後ろ姿が見えた。

「お、次郎。気付いたのか」

 努君は、僕のほうへ近づいてくる。

「うん」

「悪かったな…。おまえまでとばっちり受けた形になっちまってよ……」

「ううん…。同じ学校の人?」

「あ、ああ…。あいつら、いつも三人一緒にいるから、多勢に無勢でな……」

 学校で苛められていたという現実を目の前でリアルに見せつけられた努君の心境。情けないという感情と、悲しい気持ちが入り混じったような複雑な表情を浮かべている。

「いつもああなの?」

「ん?」

「あの三人組」

「ああ……」

 短く返事をすると、努君は遠くを見つめ、何かを思い詰めているようだった。

 とりあえず知子と貴子を逃げさせる事ができて良かった。あの三人組なら、平気で女でも叩くだろう。

「次郎…、お願いがあるんだ……」

「なに?」

「俺さ、情けないけど、藤岡らに持っている金を全部盗られちゃったんだ。二百円でいい、おまえの小遣いから貸してくれないか?」

「えー、だってそんなに貸しちゃったら、僕、次のお小遣いまで……」

「次の小遣いまでじゃない。すぐに返すから……」

「え、どういう事?」

「あいつらから金を取り返す……」

「……」

 鬼気迫る表情とは、こういう事をいうのだろうか?

 努君の顔を見て、僕は黙ったまま、ポケットから二百円を出し、手渡す。

「ありがとよ、次郎」

「努君、どうするつもりなの?」

「復讐だっ!」

 そう言うなり、努君は駆け足で公園から出て行った。

「あ、努君……」

 今まで大事なお小遣いまで、あの三人組に巻き上げられていたのだろう。施設では空威張りして、そんな様子は微塵も見せなかったが、努君の心の中はあの三人組に対する憎しみでいっぱいに違いない。

 ずっと我慢していたものが今、爆発した。そんな感じに見える。

 嫌いな奴だったけど、少しだけ努君に親近感を覚えた。彼も可哀相な人間だったんだ。

 しばらく公園のベンチでボーっとしていると、知子と貴子が留美子先生を連れて戻ってきた。

「じ、次郎ちゃん…。だ、大丈夫なの?」

 すっかり腫れあがった僕の顔を見て、留美子先生は心配そうに声を掛ける。

「次郎君、私だけ逃げちゃってごめんね……」

「何を言ってんだよ、貴子は……」

 傍で知子は、僕の顔を見ながら泣きじゃくっていた。

「まったく泣き虫だな、知子は……」

「だって心配だったんだもん……」

「次郎ちゃん、努ちゃんはどこにいるの?」

 留美子先生が、辺りをキョロキョロしながら聞いてくる。彼が何をしに行ったのかまでは、僕だって分からない。あの三人組に仕返しに行って事だけしか知らない。でも、ここで努君の事を先生に言うのは、少し違うような気がした。

「分からない……」

「あんな奴、放っておけばいいのよ!」

 足を蹴られた事を根に持っているのか、貴子は怒った声で言った。

「留美子先生、早く次郎君の治療をしてあげて!」

 知子がヒステリックに叫ぶ。

「そうね。とりあえず次郎ちゃん、施設に帰るわよ」

 帰り道、手を引かれながらで恥ずかしかったが、留美子先生の右手はとても柔らかかった。途中、通り掛かる河川敷。川のほとりでは、どこかの家族が楽しそうにバーベキューをやっていた。

 

 塗り薬が傷口に沁みる。

「痛てて……」

「ほら、男の子でしょ? そのくらい我慢する」

 留美子先生の髪のいい匂いがした。椅子に座っている僕は、自然と先生を見下ろすような形になっているので、時たま様子を伺ってはジーっと眺める。母さんは死んじゃったけど、こんな人が母さんだったら良かったかもな……。

「あ、次郎君、留美子先生見てデレッとしてる!」

「う、うるせーぞ、貴子! おまえなんかあっち行け」

 女っていうのは、どこまで見ているのかまったく分からないもんだ。思わず図星をつかれ、怒鳴りつけていた。

「何さ、やっぱり今時の男って、年上の女に無我夢中なんだわ。行こう、知子ちゃん」

「う、うん」

「何が無我夢中だ。バーカ、バーカ」

「ほらほら、動かないの」

「は~い」

「まったく君たちぐらいの時っていうのは、本当にいいもんね」

「え、何で?」

「う~ん、例えばさ、悩み事とかってある?」

「そりゃあるさ」

「へえ、どんな?」

「お小遣い五百円でしょ。今日、アイス買っちゃったけど、今度のお小遣いまでどうやってやり繰りしようかなとか…。本当は僕、スナック菓子食べたかったんだ。でも、あの二人に付き合わされてアイスにしたんだよ? だからさー……」

 途中まで聞いて、留美子先生はクスクス笑っていた。

「先生、どうしたの?」

「だから、君たちぐらいの時はいいなあって素直に思ったの」

「変なの、先生って」

 留美子先生の顔を盗み見てみる。その瞳の奥で今、何を考えているのだろう?

「実はさ、先生もここの施設出身だったんだ……」

「え、先生も?」

「うん、もう二十年以上も前だけどね。ここに来たのは……」

 確か留美子先生は、今年で二十八歳。という事は、八歳の頃にはすでにここにいたんだ。

「先生も両親いないの?」

「そうね…。私の時は生まれた時から、捨てられてたみたいなの。親戚が仕方なしにといった感じで私を育て、でも小学校に入ってから、毎日のように苛めにあってね。親戚のおばさんやいおじさんから…。気付けば、ここにいたって感じかな」

「先生も大変だったんだね」

「今はへっちゃらだけどね。でも、最初は泣いてばかりだったなぁ…。大きくなるにつれて、よし私はここで、同じような境遇の子を育てようって決めたの」

「夢だったの?」

「そうね、まあ夢と現実は必ずしも一緒ではないけど、私はここで働けて幸せだと思うわ」

「ふ~ん」

「誰だって愛情って必要だと思うの。ここにいる子たちは、産んでくれた両親から見放されたり、病気や事故で亡くなったりした子たちが集まった場所でしょ?」

「うん」

 いや、先生。僕の母さんは僕が殺しちゃったんだよ……。

「だからみんなで仲良く寄り添い合い、誰よりも幸せにならなきゃいけないと思うんだ」

「僕も?」

「そうよ。次郎ちゃんだって、もちろん幸せにならなきゃいけないのよ」

 僕は夕食の時間になっても、留美子先生の言葉の意味をずっと考えていた。

 幸せ……。

 人殺しの僕でも、幸せになる権利なんてあるのだろうか?

 みんなが食べ終わっても、努君はまだ施設に帰ってこなかった。留美子先生を始め、他の先生たちも慌てて近所を探し回っている。

 そんな時、パトカーが施設の前に到着し、警察官の人が三人、玄関の前で立っていた。

 

 努君の少年院行きが決定した。

 僕から二百円を借りた努君は、文房具屋でカッターを買ったらしい。学校で苛めに遭っていた藤岡たち三人組に、仕返しをと思いながらの購入。

 藤岡の家まで行った努君は、本人を呼び出し、カッターで数箇所、体を切り刻んだらしい。

 死には至らなかったものの、藤岡は重症。

 努君は、駆けつけた警察に逮捕された。

 事の経緯を聞いた留美子先生は、その場で泣き崩れてしまった。

 無理もない。自分の人生を懸けて、この施設にいる子たちに、愛情を注いできたのだから……。

 美人だった留美子先生には、たくさんのお見合い話が来ていたらしいが、先生はすべてそれらを断り、この施設の事だけを思って生きていた。

 努君が施設からいなくなり、変わった事といえば、留美子先生が次の日からまったく来なくなった事だろう。

 他の先生に聞いても、ちゃんとした理由は誰も答えてくれない。誰もが口をそろえて、「留美子先生は疲れて休んでいる」とだけ言った。

 どれだけ首を長くして待っていても、留美子先生が施設に来る事はなかった。

 僕と知子は中学生になり、貴子は小学六年生になる。

 風の噂で努君は、別の施設に送られたようだと聞いた。

 以前、努君がカッターで切り刻んだ藤岡。そのグループは、入学した僕にすぐ目をつけ、毎日のように苛められた。

 知子は陰で見守り、藤岡らが去ると、すぐ駆け寄り介抱してくれる。本当に知子は泣き虫だった。いつも目に涙を浮かべながら、「次郎君、大丈夫?」と繰り返し言う。

 上級生に目をつけられているのは、すっかりクラスで知られ、誰一人僕に近づくクラスメイトはいなかった。

「おい、親なし! ちょっと面貸せよ」

 また藤岡の呼び出しが掛かる。努君にやられた腹いせに僕をいたぶっているのだろうけど、それにしてはしつこ過ぎるような気がした。

 ただ殴られるだけでなく、時には使いパシリ。そして藤岡らがタバコを吸う際の見張りなど、色々な事までやらされる。

「親なし」と呼ばれる度に、僕の心の奥底に憎悪が蓄積されていく。好きで親がいない訳じゃない。無神経に「親なし」と呼びながら笑う藤岡の顔を見る度、こいつも、母さんと同じように殺してやろうかと思う自分がいた。

 

 中学に入ってから一年が過ぎ、僕は中学二年生になる。一つ下の貴子もとうとう中学生だ。制服を着られたのがそんな嬉しいのか、施設に帰ってからも寝る前まで着たままでニコニコしていると知子が言っていた。

 あの藤岡とはまだ一年間の一緒の学校で過ごさなくてはいけない。

 僕は、奴の通り道から溜まり場までをすべてチェックしていた。

 知子は、常に僕の事を心配しているみたいで、金魚の糞みたいにあとをつけてくる。

「おまえ、邪魔なんだよ。頼むから一人にしてくれ」

「だって次郎君、ここ最近、ちょっと変だもん」

「気にし過ぎだ」

「絶対におかしいよ。あの藤岡って人に、仕返ししようと思っているんでしょ?」

「……」

「相手は大人数なんだよ? 藤岡って人だけやっつけても、次々と別の人が仕返しに来んだよ?」

 ゆっくりと深呼吸し、落ち着かせようとしてみた。駄目だ……。

「知子、いいか? あいつは僕らを『親なし』って何度も馬鹿にしたんだ…。いなくなった努君だって、本当に悔しかったんだと思う。あいつを刺すぐらいね…。それでもあの馬鹿は何も変わっちゃいない。だから僕が教えてやるんだよ……」

「お、教えるって……」

「死を持って教えてやるって事だ……」

 大好きだった留美子先生を僕から奪った。直接的にではないが、元はといえば、藤岡が努君を追い込むぐらい苛めていたからだ。カッターで切り刻まれたくせに、藤岡は懲りず、今度は僕を苛めの対象に仕立て上げた。「親なし」と小馬鹿にしながら……。

 あいつは殺されたってしょうがない人間である。

 日に日に殺意が膨れ上がっていくのを感じた。

 母さんを偶然殺した時は、誰も僕を疑わなかった。今回も偶然を装って、藤岡を殺せばいい。

 僕は、どうやって藤岡を殺すかを考える。

 直接、手を下すのはバレてしまうだろう。では、どうするか?

 人混みの中、目立たないようにというのはどうだろうか?

 暗闇の中、あいつ一人になったところを背後から……。

 いや、証拠が残っては駄目だ。

 完全犯罪として成立させなければいけない。そうじゃないと、同じ施設にいる知子や貴子が悲しむ。絶対にバレてはいけないのである。

 

 あいつが僕にしてきた事をもっと思い出せ。そして憎しみをもっと増加させろ。

 貴重な小遣いを当然のように毟り取られた。

 散々殴られたあと、顔に唾を掛けられた。

 トイレの水を土下座したままの状態で飲まされた事がある。

 裏拳の威力を試させろと、僕の顔面を拳で思い切り叩いた。

 鼻鉛筆をやってみたいと笑いながら言い、僕の鼻の穴へ割り箸を突っ込み、下から突き上げられた。あの時は、物凄い激痛と共に、鼻血がしばらく止まらなかった。

 紙に「親なし」と書き、それを背中に張られ、町の中を強引に歩かされた。

 そんな自分がやられた事よりも酷い事がある。

 藤岡は、あとから入学してきた貴子がタイプだったらしく、僕に誘き出させて貴子をレイプする計画を立てた事があった。

「おい、次郎。おまえのところの佐々木貴子っているだろ?」

「そ、それが何ですか?」

 口を開いた瞬間、腹を蹴飛ばされる。

「うるせえよ、余計な質問をするんじゃねえよ、親なし」

「す、すみません……」

「おまえ、あの子と同じ施設に住んでいるだろ? 今度、うまく言ってここに連れて来い」

「え、貴子をどうするつもりで、グッ……」

 不機嫌そうに再度僕の腹を蹴飛ばす藤岡。床でのたうち回る僕の顔に、足を乗せてくる。

「おい、いちいち質問するんじゃねえって、さっきから言ってんだろうが」

 床に顔を押しつけたまま、悶絶する僕。

「あの女を抱いてみてえんだよ、次郎。うまく協力してくれや?」

「……」

「最近の中学生は、ほんと発育がいいよな。この間、あの子の体育の授業を偶然見てよ。あの揺れ動くおっぱい見ちゃ、やりたくなるだろうがよ」

 確かに幼児体型の知子と違い、貴子はどんどん発育し、見事なプロポーションを持つ女になっている。貴子の体を想像し、トイレに籠もり、マスターベーションをした事もあった。

「か、勘弁して下さい……」

 しかし、僕にとって妹みたいなものである。いくら何でもそんな事には協力などできやしない。

「一丁前に口答えしてんじゃねえよ!」

 倒れているところをそのままダイレクトに顔面を蹴られた。口の中で血の匂いが充満する。どんなに痛めつけられても、貴子をそんな目に遭わすわけにはいかない。

 貴子の件だけはどんなに殴られ、蹴られても我慢した。

 半年前の話だった。

 ゆっくり目を開ける。思い出す度、燃え上がるどす黒い憎悪。

 そう、藤岡。あいつは死ななきゃならない。

 この手で、キッチリと始末しなければ、周りにいる人たちが迷惑を受けるだけだ。

 その為、藤岡殺害計画だけは綿密に立て、実行しなければならない……。

 

 僕が、暴力で藤岡を圧倒するのは、物理的に無理だ。

 何故なら、個々の力だけでなく、周りの取り巻き連中まで常にいるからである。そんな状況では、憎い藤岡をギャフンとすら言わせられない。

 あの自信に満ち溢れた顔を驚愕の表情に変えさせてみたかった。

 努君は、どんな気持ちで、藤岡にカッターで切り刻んだのだろう……。

 玉砕覚悟で望むだけでは駄目なのだ。やるなら、こちらは無傷で何事もなくが理想である。

「親なし」と小馬鹿にされ、ずっと蔑まされてきた。

 ずっと一緒にいる貴子を犯そうと企む藤岡。妹のような存在なのに、僕にも協力しろなどと、よくも抜け抜けと言えたものだ。

 屈託のない表情で笑う貴子を思い出す度、僕は腹の底から憎悪が噴き出してくる。

 あの男に関わる者は、みんな、僕の前から消えていく。

 努君……。

 留美子先生……。

 今度は貴子が……。

 知子に相談したかったが、そうもいかない。彼女じゃ精神的に弱過ぎる。僕一人で貴子を守る事を考えたほうがいい。知子は、僕が藤岡を殺したいという憎悪を持っている事を知る只一人の人間。

 もし、うまく藤岡を僕が殺せたとしたら、その時、知子は何を思うのだろうか?

 いや、そんな事までいちいち考えなくていい。僕しか藤岡の魔の手から、貴子を守れる人間はいない。

 何かいい方法はないか?

 手を出来る限り汚さず、藤岡を殺す方法は……。

 経済力も人脈も何もない中学生の僕。

 力になってくれそうな大人もいない。

 生きているのが嫌なぐらい辛い日々。

 そろそろこの環境から脱出したかった。

 そんな事を考えているだけで、時間はどんどん経っていく。

 お小遣いの日がやってきた。

 貴子は、僕のところへやってきて、今度は何を買おうかと無邪気にはしゃいでいる。藤岡に狙われているなんて、微塵にも思っていない貴子。表情は非常に明るい。

 この笑顔を絶やさせてはいけない。

「次郎君、今日は何を買う?」

 不意に後ろから肩を叩かれ、ビクッとする僕。振り向くと、知子だった。

「何だ、知子か……」

「やーね、その言い方。何だはないでしょ」

「はは、悪い悪い」

「でも、次郎君って結構、小心者だよね。後ろから肩を叩かれただけで、ビクッてするなんてさ」

「……!」

 後ろから不意に……。

「あれ、どうかした、次郎君?」

「い、いや別に……」

 閃きが頭の中を走った。

 そうか……。

 バラバラだったジグソーパズルのような藤岡殺人計画。知子のおかげで、ど真ん中の核の部分が一気に埋まった。

 

 今、僕は校舎の裏側にいる。

 憎き藤岡に呼び出され、僕の周りはその仲間たちに囲まれていた。

「おい、次郎。あの女、そろそろ食い頃だろ? おまえ、うまく放課後、学校に呼び出せや」

 上目遣いに睨みを利かせながら、藤岡はいやらしい笑みを浮かべる。

「ふ、藤岡さん、勘弁して下さい……」

「自分の今の立場、分かってんの?」

 藤岡の子分が、横で怒鳴り声をあげた。

「わ、分かってます…。でも、貴子は自分にとって、妹のような存在でして……」

「麗しい兄妹愛だな~。え、次郎?」

 僕の頬を軽く数回叩く藤岡。

「お願いします、藤岡さん……」

「おい、俺の話を聞いてんのか?」

「ええ、聞いています。ただ、ちょっと……」

 いい頃合いだ。綿密に練った策略を実行に移すタイミングがきた。

「ちょっと何だ?」

 あれだけ恐ろしく感じた藤岡が、不思議と今は怖く感じない。妙に冷静な自分がいた。

「では、藤岡さん…。僕と二人だけで、相談に乗っていただけませんか?」

「あっ?」

「も、もちろん、貴子の件でです。ただ、他の人まで聞かれますと……」

 僕の目を真剣に見ている藤岡。臆するな。これは貴子を守る為なんだ……。

「俺以外の奴に、聞かれたくねえ話ってか?」

「は、はい、そうです……」

「たまには面白れぇ事、言うじゃねえか。おい、おまえら悪いけど、ちょっと外してくれるか?」

 藤岡が命令すると、不満げな表情で取り巻き連中は立ち去った。これで僕と二人きりの状況。

「で、相談って何だ、次郎?」

「学校でというのは目立ち過ぎます。貴子に以前、ちょっとだけ話した事があります」

「何を?」

「藤岡さんの件です……」

「俺の何を言ったんだ?」

「貴子に興味があるらしいと、正直に伝えました」

「ほう」

「彼女は特にそれについて何も言いませんでしたが、ほんのり顔が赤くなっていました」

「ふ~ん、で?」

 単純で自惚れの強い藤岡は、まんざらでもない表情を浮かべた。

「藤岡さん! 貴子は僕にとって妹みたいな存在です。呼び出して犯すというんじゃなく、普通に異性として接してやってもらえませんか?」

「俺に付き合えって事か?」

「…できれば……」

「で、何で俺と二人きりの状況にしたんだ?」

「素の藤岡さんの気持ちを知りたかったんです。誰もいない状況で……」

「なるほどな…。まあ、俺も今は女いねえし、あの女なら横につれてても恥ずかしくない」

「じゃあ、藤岡さん……」

「おまえはそれで、どうしたいんだ?」

「もちろん協力します。貴子も絶対にまんざらでもないので…。最初は普通にデートって形で、あいつを喜ばせてやってもらえませんか?」

「随分とプラトニックな話だな」

「お願いします」

「まあいいや、こっちも強引に犯して、あとあと面倒な事になるぐらいなら、普通にデートからってのも悪くねえな」

「ありがとうございます、藤岡さん」

「まず具体的におまえが、どう動くのか教えろや」

 乗ってきた。僕の嘘に……。

「貴子に藤岡さんが会ってほしいと言っていたのを伝えます。それで藤岡さん、界隈じゃ有名なので、地元じゃすぐ噂になると思うんです。だから駅で待ち合わせてちょっと遠くでデートしてきたらどうですか?」

「おまえが、デートのセッティングをするって訳か」

「はい」

「最初のデートで、あの巨乳ちゃんをやっちゃうかもしれねえぜ?」

「貴子がそれを望むなら、僕は別に……」

「まあいい。とりあえずおまえの作戦に乗ってやるよ。今日はもう行け」

「ありがとうございます」

 僕は深々とお辞儀しながら、口元がニヤけていた。

 

 施設に帰ると、僕は貴子と二人きりで話せるタイミングだけを静かに待った。いつも隣には知子がいる。別に彼女も込みで一緒に話したって構わないだろうが、少しでも計画を完全に成し遂げるには貴子だけのほうがいい。

 知子がトイレに行き離れた瞬間を見逃さず、貴子に深刻な表情で話を振ってみた。

「なあ、貴子……」

「どうしたの、次郎君?」

「藤岡っているでしょ?」

「うん、あの怖い人でしょ?」

「僕が苛められているのは知っているだろ?」

「うん……」

「昨日、言われたんだ。おまえと知子が俺を見る時、怖がっているのが気にくわねえなって…。いつもそんな理由だけで殴られるんだ……」

「そんな、酷過ぎる……」

「でさ、お願いがあるんだ」

「お願い?」

「藤岡のグループとバッタリ会ったら、無理でもいいから微笑んでほしいんだ……」

「え~、無理だよ~。私、あの人嫌いだもん」

「でも、そうしないと、また僕が難癖つけられて殴られるだけなんだ……」

「……」

「だから無理にでも笑って、微笑んでくれないか?」

「…分かった」

「無理言っちゃってごめん……」

「次郎ちゃん、他にいい方法ないの?」

「今のところ、何も思いつかない……」

「いなくなった努君も、相当やられてたんだろうね……」

「親がちゃんといてくれればな……」

「しょうがないよ。もういないんだもん、この世に……」

 貴子の母さんは首吊り、父さんは事故死。

 僕の父さんは病死、母さんはこの手で殺してしまった……。

「だから自分で何とかするしかないんだ」

「分かった。藤岡って人にばったり会ったら、嫌でも笑顔で微笑めばいいんだよね?」

「ああ、そしたら少なくても、その理由で殴られる事だけはなくなる……」

「先生とかに相談してみたら?」

「無理だよ。あいつら自分の保身しか考えてないから、あとでもっと酷い目に遭うだけだ」

「そうだよね…。この施設も、留美子先生ぐらいだったもんね。色々と親身になって接してくれたのは……」

 脳裏に留美子先生の姿がチラつく。

「いなくなった人間を今さら言っても始まらないさ…。自分の事は、自分で解決しないと駄目なんだよ」

「ねえ、親がいないって、そんなに悪い事なのかな……」

「どうだろな……」

 いない事は悪い事じゃない。僕たちの責任ではないのだから。父さんは病気で亡くなったが、父さんが悪い訳じゃない。僕のせいでもない。しかし殺してしまった母さんは?

「頑張って生きようね」

「ああ……」

 その為に僕はまた一人、この手で殺そうとしている。

 

「藤岡さん、明日、時間とれますか?」

 休み時間、学校の廊下で藤岡とすれ違う際、僕から声を掛けた。珍しく藤岡は一人だった。

「ん、何だ、次郎?」

 先日、二人きりで話して親近感でも湧いたのか、藤岡はいつもより温和な表情でいる。

「貴子に藤岡さんの件を話したら、照れながら明日の日曜日だったら暇と言っていたので」

「おぉ、やるじゃねえかよ、次郎。ちょっとは見直したぜ」

「ありがとうございます」

 別におまえに認めてもらわなくてもいいよ。このクソ野郎が……。

「で、どうすりゃいいんだ、俺は?」

「明日の十一時に、駅の上りのホームで待っててほしいと」

「改札のほうが分かりやすくないか?」

「多分、藤岡さん目立つから、あいつも恥ずかしいんでしょう」

「なるほどな。分かったよ。行くって伝えとけや」

「分かりました」

 その時、ちょうど向こうから貴子の姿が見えた。

「おいおいナイスタイミングで向こうから来たじゃん」

「あ、藤岡さん。貴子の奴、照れ屋なので、今はそっとしといてやってもらえませんか?明日を楽しみにしてるものでして……」

「色々と制約の多い奴だな~。まあ、明日だからいっか」

 女絡みなので、藤岡も素直に僕の言う事を聞く。

 貴子とすれ違う際、彼女は僕を見たあと、藤岡に微笑みかけて去っていった。多少、ぎこちない微笑み方ではあるが、かえってそのぐらいのほうが自然でいいかもしれない。

「おい、次郎。まだあれで中一だろ。間違いなくいい女になるぜ」

 舌なめずりをしながら藤岡は下品に笑う。吐き気がするような殺意を懸命に抑え、僕は出来る限り冷静に言った。

「あ、藤岡さん。一応、うちの施設、門限があるんですよ」

「あ? 面倒臭えなぁ~」

「夜の八時までに帰らないと、中でうるさいんですよ。そんな事で藤岡さんに迷惑を掛けても嫌なので……」

「大丈夫だよ。明日の十一時からだろ? ホテル行ったって、有り余るぐらいの時間があるじゃねえか」

 似たような環境でずっと一緒に育ってきた貴子。その妹みたいな存在が、こんなくだらない男の性欲によって汚されようとしている。

 今まできっとギャフンと言わされた事がないのだろう。一度だけ努君の反撃に遭ったが、未だ懲りていない。努君の転校という形によって、事実上この学校では藤岡に逆らう人間がいなくなったのだ。

 人の痛みも知らず、心も分からない……。

 どれだけ色々な人間が、この男のおかげで傷ついてきたのだろう。

 理不尽な暴力をチラつかせ、好き勝手に生きてきた藤岡。

 この男には、本当の暴力とはどういうものかを僕自身が教えてやらねばならない。藤岡の死を持って……。

 

 僕はこの手で、自分を産んだ母親を殺した。

 別に殺意があった訳でない。必死に自己防衛しようとした結果、偶然が重なったのだ。

「大丈夫。大丈夫だから…。母さんもすぐあとを追うから」

「嫌だよ! やめて、お母さん」

「次郎! お願いだから言う事を聞いて!」

「や、やめてよ。お母さん……」

「もうこれ以上はたくさんなの…。何人の男に騙され続けられたんだろ。もう母さんね。生きる気力なくなっちゃったの。次郎、お願いだから動かないで」

「お母さん、どうしちゃったんだよー?」

「二人で楽しいところへ行こう、ね?」

「嫌だっ!」

 最後に交わした親子の会話。今、思い出しても鳥肌が立つ。

 あの時、僕は母さんの言うように手を大人しく差し出したままだとしたら、どうなっていたのだろう?

 手首を剃刀で切られ、この世にいなかったかもしれない。

 咄嗟に母さんを突き飛ばしたが、あれで僕は自分の命を自分で守ったのだ。

 藤岡に無理やり犯される貴子を想像した。

 純情な貴子の事だ。ショックで自殺でもしかねない。

 親しい人間が危険に晒されようとしている今、それを守るには僕が自分で動かなくてはいけないのである。

 この僕が、意識して人を殺そうとしている……。

 しかし、そんな悪い事だとは思えなかった。

 殴り合いの喧嘩でどれだけ強くても、あまり意味がない。理不尽な行為は、根深い恨みを生み出すだけだからだ。

 事実、藤岡は、努君の逆襲にあい、痛い目に遭った。

 悪戯に人を苛めるという事は、いずれ、自分に跳ね返ってくる恐れもあるのだ。

 藤岡には、死を持って思い知らせなければならない。理不尽な暴力よりも、不意打ちの怖さを知らせてやる。人間を舐め過ぎた報いだ。

 ここ最近、いつも一人になると、こんな事ばかりを考えていた。

「次郎君、最近どうしちゃったの?」

 気付けば、知子がそばにいた。それだけ集中して思いつめていたのだろう。知子が近寄る気配さえ、まったく気がつかなかった。

「ん、どうしたんだい? 突然……」

「最近の次郎君、ちょっと変だよ?」

「そんな事はないよ」

「また藤岡って人に、何か嫌な事でもされているの?」

「え……」

「さっきの次郎君、すごく怖い顔をしてたよ……」

 そうだ……。

 僕は、知子に一度だけ言ってしまった台詞がある。「死を持って教えてやるって事だ……」と……。

 今、このタイミングで僕が藤岡を殺したとしよう。唯一、知子だけが、僕の殺意を知っている。ひょっとしたら、僕は知子に疑われるかもしれないのだ。

「そんな事ないって、気にし過ぎだよ。今日は貴子と一緒じゃないの?」

 慌てて別の話題を振ってみた。

「貴子ちゃんは、友達と一緒に遊びに行っちゃったよ」

「そっか」

「次郎君、何か深刻な悩みあるのなら、私にちゃんと言ってね」

「大丈夫、ありがとう、知子」

 作り笑顔をしながら時計を見ると、朝の十時だった。もうちょっとしたら僕は、駅へ向かわなければならない。

 

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