岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド

自身の頭で考えず、何となく流れに沿って楽な方を選択すると、地獄を見ます

闇 84(食を忘れた男編)

2024年11月04日 17時44分14秒 | 闇シリーズ

2024/11/04 mon

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石黒名義の神田二号店『パイナポー』も無事オープン。

山下名義の秋葉原『アップル』は相変わらず順調な売上だ。

歩合含めて月に九十万以上を金を得ている山下。

この馬鹿の増長ぶりは酷い。

遅刻は当たり前、売上を事務所へ持ってこない日もある。

一度寄り道してキャバクラで四十万無くしているのに、本当懲りない奴だ。

いくら俺が注意したところで、長谷川が甘やかす。

その図式が続くので、俺は気にしないよう努めた。

反対に石黒は、自分から率先的に動き感心するほどだ。

しかし神田という地域の特性か人も多くないので、中々売上に直結しない。

いい日で一日二十万いければ御の字。

最低でも名義料込みで五十万の給料が出るから良かったが、山下との開きには複雑なものを感じる。

俺が長谷川の組織に手を貸さなければ、この現状は無かった。

最初にもし売上ができたら俺自身に歩合を出す。

何故それを言えなかったのだろう?

全日本プロレスへ行ってから初めて本気で生きだした。

今だってジャンボ鶴田師匠には恩義を感じている。

そう…、俺は根っこの部分で浅ましく生きてはいけないのだ。

仮にそう生きたら、鶴田師匠を汚す事になる。

だからこそ裏稼業で働いていようとも、最低限の誇りだけは持っていたい。

岡部さんも有路も、この組織へ間接的とはいえ引き込んでしまった。

山下の事でイライラしても、長谷川が庇う以上解決策は無い。

なら、なるべく気にしないようにするしかないのだ。

 

六月末になり、百合子の誕生日を兼ねた長野旅行へ行く。

長谷川に言い、三日間の休みをもらう。

行くコースはすべて百合子任せ。

雷電為右衛門について色々下調べをしていたので、密かに楽しみだった。

彼の産まれた聖地で、俺と魂が重なり合い、強大な目覚めがあるかもしれない。

どうするよ、身長が十センチほどいきなり伸びちゃったら……。

いや、そんな事あるわけねえだろ。

しかし百合子が言っていた雷電がこの地へ呼んでいるような気がするという発言。

彼女はあの時雷電が長野出身なんて知りもしなかった。

群馬に行ってから、霊感ゼロの俺でも奇妙な体験はしている。

その先長野では、何が待っているのだろうか?

そういえば自衛隊時代の同期の古澤が長野と言っていたっけな。

長野の松本で和牛飼っているとか。

久しぶりに連絡してみようかな。

いや、富田の時みたいな件になったら、面倒なだけだ。

縁があるなら、その内流れで交差する事もあるだろう。

 

海野宿というところへ到着する。

古めかしい建物。

何でも日本の道百選になっているようだが、腹が減っているので何か食べたい。

「ここの蕎麦を食べてみたかったの」

蕎麦よりうどん派の俺は、いまいち乗り気じゃない。

だけど百合子の誕生日なので好きなようにさせる。

一軒の蕎麦屋に入り、二皿注文。

足りなかったら別なところでガツガツ食べればいいさ。

古民家というのか座敷席へ案内され、蕎麦を待つ。

江戸時代というから随分昔だ。

おばあちゃんが明治生まれで、おじいちゃんが大正生まれ。

それより前の時代に雷電はいた。

本当に実在していたのだろうか?

この近くに雷電生家があると百合子は言っていた。

蕎麦が運ばれてくる。

「え…、何この蕎麦…。凄い美味くない?」

見掛けは普通の蕎麦に過ぎない。

しかしこれまで食べたどんな蕎麦よりも美味かった。

蕎麦を食べて感動したのはこれが初めてだ。

海野宿白鳥神社の四本柱土俵。

この大きな木に、雷電は鉄砲をしたのかな……。

薬師堂の石像仁王像。

これは雷電が大関に昇進した翌年に、母親が寄贈したと説明文が書いてある。

色々見て周り車に乗ると、百合子が口を開く。

「さっき蕎麦を待っている時ね…。多分雷電来ていたと思うよ」

「はあ? 何を根拠に?」

「智ちんの後ろの影がね、それに凄い大きな影のようなものが重なって見えたの」

俺には何の実感も無い。

「何でその時言わないんだよ?」

「うーん、重なるところを見てて、声掛けるのすら忘れちゃってたの」

多分それは気のせいだと言いたかったが、野暮なのでやめておく。

 

雷電生家へ着く。

東御市の文化財として公開されているようだ。

ここで雷電が生まれた。

俺自身特に変化は感じない。

雷電鋤石…、別名力石と呼ばれる大きな石。

生家は館内放送まである。

俺たちは館内をゆっくり眺めながら歩く。

雷電為右衛門……。

俺の前世だと群馬の先生は言うけど、本当なのかな?

雷電の手形がついた扇子。

中には土俵まである。

そして雷電日記。

こんなものまで残しているのか。

群馬の先生は俺が戦いの方向へ行くと、雷電が袖を引っ張り邪魔をすると言った。

現世でやる事があると……。

それが本当なら俺は小説しかないだろう。

だけどこういった雷電日記までやられては、俺はどうすればいい?

様々な雷電の偉大さを見せつけられた。

今の俺がやるべき事……。

文字で…、文学で雷電以上の作品を作る事。

まだ俺は小説を書いているだけ。

だけどずっと書き続けよう。

生家をあとにする際、自然と直立不動で一礼した。

 

雷電が生まれた地、長野。

俺はのんびり時間を過ごし、美味しいご飯を食べる。

「百合子、俺に何か特別なものって感じた?」

「うーん…、海野宿のお蕎麦屋さんの時くらいかなー…。あとは特別何かって言うのは……」

雷にでも打たれ、全身の細胞がバリバリとかだったら分かりやすくて良かったのにな。

そんな漫画のような展開など無いか。

「里帆と早紀にお土産いっぱい買っていかなきゃね」

「ありがとう。あの子たち凄い喜ぶよ」

これまで旅行などする習慣が無かった分、すべてが新鮮に映る。

群馬行った時もそうだし、寿司屋行けばマグロの赤身しか食べられないし、ひょっとして俺は安上がりな男なのか……。

どうせ雷電が前世でというなら、格闘技時代に力を貸してくれて、思い切り大暴れしたかったなあ。

群馬の先生が言った絵を描くという事。

しばらく描いてないし、次にいつ描くのかすら分からない。

絵を描くように小説をか……。

そういえばガールズコレクションの体験を元に書き始めた『はなっから穴の開いた沈没船』、全然進んでないな。

まだ何の成果も出ていないのだ。

どんどん執筆しなきゃ。

去年の一月に初めて小説を書き始めて何作品も完成させた。

今年は風俗が終わって『とれいん』のみしか書き終えていない。

明らかにペースが落ちている。

俺に小説は限界なのか?

いや、違う。

今書いている作品が重過ぎるのだ。

こうして百合子とは仲良くやれている。

だが子供をおろし、百合子が負った傷は生涯消えない。

俺自身心の整理がしっかりついていないのに、その事をテーマに書こうとしているのだ。

『とれいん』では俺と百合子の話に西武新宿の一件をつけた。

邪魔だったので、風俗の話は除外して完成させたもの。

今度はあの忌々しい當真や有木園たちも登場させるようなのだ。

振り返りたくもない過去。

色々考えなければ俺はいけない。

 

長野から戻り、また新宿での日常が始まる。

立地条件の差で売上が少ないのに、責任を感じ詫びる石黒。

彼を秋葉原にさえ送れれば、山下なんかと売上なんて逆転するのにな。

いや、よりアップルの売上も伸びるだろう。

それを提案したところで、今度は長谷川が納得しない。

長谷川はアップルの売上が、山下のおかげと思っている節がある。

岡部さんに身元引受人など頼んでいなかったら、勝手にやってくれと俺が撤退するんだけどな……。

どうにもならない事を考えるなって。

せっかく長野の雷電の地へ行ってきたのだ。

彼のように大きくデンとしていろ。

こんな感じで月日だけは流れていく。

山下は百万円近い給料。

石黒は五十数万円。

俺は三十万。

もらえる金額に不服はあるものの、その金で百合子や娘の里帆と早紀の面倒は見ている。

食事やどこかへ遊びに行くのに金を浪費する為、俺は自分の事で使える余裕は無い。

たまに有路の店へ飲みに行く程度だった。

俺の仕事自体はかなり楽なのだ。

不満を覚えたところで、辞める以外意味は無い。

こんな事がいつまで続くのだろう。

店が警察に捕まるまでか。

事務所には俺と長谷川以外、相変わらず多くの人間がやって来る。

藤村やチビの高橋、最近では長谷川夢というとても博識だけど変わった人が来るようになった。

他の人間はウザく感じたが、この夢だけは別だった。

 

1 食を忘れた男 - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

食を忘れた男私の名前は、工藤明。これは、私がある知り合いの事務所で働いていた頃の話。オーナーと二人きりの小さな事務所。オーナーの人柄か、いつも事務所には仕事とは...

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長谷川夢はラサール高校出の超がつくインテリ。

年齢は四十歳。

俺よりも七つ年上。

しかし彼には致命的な欠陥があった。

クローン病という奇病。

十八歳の時に原因不明で発症したらしい。

医学的にクローン病とは、小腸や大腸などの粘膜に慢性的な炎症を引き起こす病気。

症状は一般的に腹痛と下痢。

しかし人によっては口から肛門までのすべての消化器官に炎症を引き起こす場合があり、夢はこの最悪な状態のようだ。

初めて会った時の彼の台詞は未だ覚えている。

「私は今四十なんですが、十八歳の頃から一切食事をしていないんですよ」

二十二年間も食事をしないで、人間が生きられるわけ無いだろう。

この人は真顔で何を抜かしているんだと思った。

「でも私に対して気を使わず普通に接してほしいんですね」

初対面の時、夢は色々話をしていたが、クローン病と聞いた事もない病気に興味を覚える事は無く、右から左に聞き流す。

今思えばとても失礼な事をしたと大いに反省する。

まだこの頃はそこまで酷い状態なんて想いもしなかったのだ。

夏が終わりコンビニエンスストアで肉まんを売り出す頃、俺は適当な数の肉まんを買い、事務所へ持って行った。

どうせ藤村やチビ高橋が来るのだ。

俺と長谷川の分だけ買うわけもいかない。

そこへ夢がやって来たので、俺は軽い気持ちで「あ、夢さん。肉まん買ってあるんで良かったらどうですか?」と勧める。

少し黙ったまま夢は考えていたが、「ありがとうございます。せっかくなので頂きます。ただ、肉まん一つは多過ぎるので、一欠片だけもらいます」と言った。

「夢さん!」

長谷川が慌てて立ち上がるが、夢は片手でそれを制しする。

肉まん一つが多い?

何を言ってんだ、この人は?

夢は一欠片の肉まんをゆっくり咀嚼し五分くらい掛けて食べた。

「お手洗いお借りしますね……」

夢がトイレへ行き、俺と長谷川はプロレスの話題で盛り上がる。

「岩上さん、有路さんが今度新日本プロレスの興行行く時、僕も一緒に連れてって下さいよ」

「構いませんが今の新日本つまらないですよ?」

「一度プロレスの会場へ行ってみたいんですよ」

「それならノアのほうが面白いし、満足すると想いますよ。まあ有路さんは新日本がいいって嫌がるでしょうけど」

そういえばいつまで夢はトイレに入っているんだ?

かれこれ二十分以上は経つ。

「夢さん…、トイレ遅くないですか?」

小声で聞いてみる。

「ずっと吐いているんですよ……」

「え……」

吐くって肉まんを一欠片食べただけじゃないか。

少しして夢が出てきた。

顔色は悪くげっそりしている。

「大丈夫ですか、夢さん!」

長谷川が駆け寄った。

「大丈夫です…。少しだけ座らせて下さい」

ソファへヨロヨロと倒れ込むようにして座る夢。

俺はその様子を呆然と見る事しかできない。

「久しぶりにですね……」

「え?」

「久しぶりに肉の味を堪能しました。岩上さん、本当にありがとうございます」

「そ、そんな……」

クローン病という奇病の恐ろしさ。

あんな一欠片の肉まんだけで、ここまで苦しみ吐いてしまう。

「すみません…。今日はこれから病院行くようなので、また顔出しますね」

マンションの外まで長谷川が付き添う形で夢は出ていく。

軽い気持ちで肉まんを勧めたが、彼にとってそれは命取りに近いものなのか?

長谷川が戻って来る。

「長谷川さん、夢さん…、大丈夫なんですか?」

「うーん、かなりキツかったとは思いますが、きっと嬉しかったんですよ」

「え、何故……」

「僕もそうなんですが、ほとんどの人間は夢さんに凄い気を使います。本人は普通に接してくれなんて言いますけど、やっぱり難しいです。岩上さんは夢さんと会って間もないから、多分肉まんじゃなくても一緒に食事行こうとか、気を使って声を夢さんにも掛けてくれると思うんですね」

「それにしたって、あんな……」

「これからも夢さんに対してはみんなと同じように誘ってあげて欲しいんです」

あそこまで苦しそうな姿を見て、まだ普通に接しろと言うのか?

「僕は夢さんが食べ物を少量とはいえ口に入れて食べたの、初めて見ましたよ。それだけ岩上さんが普通に肉まん勧めてくれたの嬉しかったんだと思います」

「……」

何て返せばいいのか、俺は言葉が出なかった。

 

ラサール高校を出た夢は本当に頭がいい。

クローン病という難病を抱えているので、一年の半分以上は病院生活だ。

その期間を利用し、宅地建築取引士…、略して宅建の試験に使ってしまうほどである。

他にも現在日本の中学の教育で教えている英語は、間違っていると話す。

自分でノートを半分に切ったものに、独学で英語辞典のようなものを書いて作り見せてくれた。

よくもまあこんな細かく面倒なものを作ったものだ。

俺が褒めると「私は岩上さんのように小説はさすがに書けませんから」と謙遜する。

夢は中学で教える英語のどの辺が無駄なのかを力説した。

英語が不得意な俺は、夢の話す内容のほとんどが理解できない。

マイクロソフトオフィスのワードやエクセルは細部まで使いこなす夢。

俺がワードの機能を教わる事が多いくらいだった。

「私は岩上さんのようにフォトショップでデザインなんてできませんから。こんなオフィス系を使いこなすより、フォトショップ使えるほうがレアで貴重ですよ」と夢はいつでも知識をひけらかすわけでもなく、自分以外を持ち上げる。

俺は次第にそんな夢に対し好感を覚えた。

入院中の時、夢は腕や脚に点滴の針を打ち過ぎて、打つ場所が無くなると笑いながら言う。

「それじゃ、点滴どうするんですか?」

「私の場合ですが、鼻から入れる事が多いですね」

「それってキツくないですか?」

「もちろんキツいですが、人間慣れてはきますよ」

夢の説明では、喉から胃袋に掛けての炎症で、食事をまったく受け付けない身体のようだ。

「分かりやすく言うと、私の喉から胃袋まで粘膜がカサブタのようになってしまっているんです」

想像もつかなかった。

だから肉まん一欠片で、ゲーゲー吐くほど身体が受け付けなかったのか……。

俺は肉まんの時の非礼を詫びる。

「いえいえ、気にしないで下さいよ、岩上さん。おかげで十数年ぶりに肉の感触を楽しめたのですから。これからもどうか私にはみんなと同じよう普通に接してもらいたいんです」

そう笑顔で夢は言った。

 

ある日長谷川から「夢さん、岩上さんと話をしているのが、きっと楽しいんだと思いますよ」と言ってくる。

彼が言うには今まで事務所へ顔を出すにしても、週に一回程度だったらしい。

俺と話す様になり、夢は多い時で週三回は来ていた。

今までそこまでの回数は無いと長谷川は言う。

「これまで同様夢さんに対して、普通に接してあげて下さい」

「分かりました……」

とても複雑な心境。

それでも夢は、俺にそれを望んでいるのだ。

「岩上さん、エイズってしっていますか?」

夢が真顔で聞いてきた事がある。

「エイズくらい誰だって知ってすよ」

エイズとは後天性免疫不全症候群。

自分の知っている知識だけで言えば、エイズに掛かると免疫が一切なくなるという事だ。

つまり風邪を引いても治らない。

元々はアメリカの同性愛の男、つまりホモから初めて見つかった。

それからエイズはホモの病気と差別や偏見を持たれていたが、ようやくその知識不足からくる偏見は少なくなりつつある。

千九百八十一年からわずか十年程度で感染者は百万人以上に広がり、世界的脅威に晒された病気としても有名だ。

現在日本でも報告されているだけで、一万人を超えていると言う。

俺がいる東京など、千人に一人は感染しているんじゃないかという可能性もあるらしい。

感染する条件として血液によるもの。

つまり感染者の血液が傷口についたり注射器の使い回ししたりするケース。

セックスによって感染するケース。

感染している母親からと、母乳を飲んでなるケース。

…とだいたいこの程度である。

「いえ、私はね…、あんな恐ろしい病気初めて見ましたよ」

「え?」

「一年の内半分以上私は病院にいるんですね。難病扱いだから、同部屋の患者は重病ばかりなんです」

「ええ」

「今まで重病患者見てきて、一番恐ろしかったのがエイズ患者なんですよ」

「…と言いますと?」

「例えば腿の部分、虫が何かに刺されて、そこを指で軽く掻いたとします」

「はい」

「翌朝になるとその腿の部分、月に空いたクレーターのようになっているんですよ。とても見ていられないような……」

「そんなになってしまうんですか」

「その患者、ホテトルの経営者か何かだったんでしょうね…。私のほうが先に入院してあとから運び込まれて来たんですが、入院当初はそこのホテトル嬢が何人も見舞い来るんです」

「それだけ好かれた人だったんですね」

「違いますよ。多分見舞い来た女性全部、その男と関係があったんでしょう…。エイズだと知り、みんな落胆して帰って行くんです」

「……」

言葉が出なかった。

「面白いもんで、エイズと知った時の女性の表情って、みんな同じなんです。何て言ったらいいんですかね…。半分泣き笑い、ガックリ項垂れる。でも帰る時は、ある程度覚悟を決めた感じで出ていくんですね」

夢の話はどれもこれも衝撃的だ。

「そのエイズ患者、私に金を貸してくれって来たんです。身体が辛いらしく、シャブをやりたいと…。あまりにも哀れで返ってこないの分かりながら、二万だけ貸しました。どこでシャブを仕入れてきたのか分かりませんが、病室でシャブ打っていても、どの医者も注意せず無視するんです」

「え、シャブを病室で打ってるのにですか?」

「すべての医者が見放している患者なので、自由にさせている…。そんな感じなんでしょうね」

夢の話は壮絶過ぎて、何と言葉を掛けていいのか分からない。

「最後に私から金を借りてからは見ていません。もう亡くなっているんでしょうけどね」

彼を見ていると健康で何の心配もなく日常を過ごせる大切さをしみじみ感じる。

人間の三大欲の一つ、食欲。

美味しいものを食べたい。

誰だってそうだろう。

でも夢はそれができないのだ。

 

一か月間夢が事務所へ来ないと、俺は心配で長谷川へ質問する。

どこかで具合悪くして、道端で倒れたりしていないのかと。

すると決まって長谷川は「おそらく入院しているだけだと思いますよ。あの人入院生活のほうが一年の間で長いぐらいですから」と答えた。

鼻から点滴…、やった事も無いので想像もつかない。

腕や脚に注射針を打つところが無いなんて、どれだけ打ったらそうなるのだろうか?

そもそも原因不明でクローン病になったと言っていた。

何とかして治せる方法は無いのだろうか?

「岩上さん、そろそろお腹減りませんか?」

「ご飯でも食べに行きますか」

そんな会話をしていると、久しぶりに夢が事務所へ顔を出す。

「夢さん、お久しぶりです」

「あれ、どこかへ出掛けようとしていたところですか?」

「ええ、ちょうどこれから食事でも行こうかなと…。夢さんも行きますか?」

言ってから後悔する。

食事行くかなど、クローン病の夢に聞いたところで食べられるわけないのだ。

「そうですね。私の一緒に行きましょう」

それでも夢は微笑みながら答えてついてくる。

みんなと同じように一緒に接して下さい。

そう何度も夢は俺に言ってきた。

食べられないのを分かっていながら、普通に誘う。

そんなやり取りが、夢は本当に嬉しいのか?

いや、却って特別扱いされ気を使われるほうが嫌なのかもしれない。

答えの出ない自問自答を繰り返しながら、俺たちは蕎麦屋へ入る。

俺、長谷川、夢の三人。

店員が注文を取りに来て俺と長谷川は蕎麦を二人前頼む。

残った夢のほうを見ながら店員は注文を待っている。

夢はメニューを見ながら、困ったような表情で何を選ぼうか迷っていた。

「店員さん、あとね天丼セットも追加で」

俺は壁に貼ってあったメニューを見て声を掛ける。

「はい、かしこまりました」

「注文は以上」

俺がもう一つ食べればいいだけだ。

店員が去ると、夢は俺を見て軽く会釈をする。

料理が運ばれてくると俺の前に天丼セット、二人にはざる蕎麦が置かれた。

「俺、まだまだ食おうと思えば、いくらだって食えますから」

夢のところに置いてある蕎麦をこっちへ手繰り寄せる。

「夢さん、そのクローン病って治しようがないんですか?」

「現代医学では無理でしょうね。一度フィリピンの心霊手術っていうの行った事あるんですよ」

心霊手術…、メスも何も使わず素手で人間の身体を切ったり治したりするというオカルトチックなものがあるのは、何かの雑誌で見た事がある。

「船で孤島へ行くんですが、もうみんな難病奇病患者ばかりですよ。医者から匙を投げられたような人たちばかりで。健康なのは一緒についてきた家族くらいですよね」

「みんながその心霊手術を受けに?」

「はい、様々な症状の患者がいました。自分よりすごい症状の患者なんてたくさんいましたよ。口をまったく開く事のできない患者。つまり話をする事ができないんですよね。当然食べ物だって食べられませんし。あとシャブをやっている訳じゃないのに、常に幻覚症状に陥っている患者とか。この人はさすがに、家族が同伴でしたけどね」

「……」

「藁にも縋りたいんですよ。だって今の医学じゃどうにもならない人たちばかりなので」

「確かにそうですよね……」

「フィリピンでは心霊手術できると名乗る人が当時二千人以上いて、本物は二人しかいないって言われていたんです」

「たった二人ですか?」

「あくまで私が噂で聞いたのはですよ。ただ運が良かったのか、私はその時本物の一人と会う事ができたんです」

「え、じゃあ……」

「その時まだ二十歳で…。当時診てもらった医者には、三十まで生きられないだろうとも言われました。でもフィリピンの心霊手術の人からは、これで少し寿命が延びたと言われました。その人でも完治は難しいって言ってました。まあ一回会っただけですからね」

だから夢は四十歳になった今でも健在なのか。

彼の話は突拍子もないが、妙な真実味がある。

「でもそのあとまたその人のところへ行けば……」

「本当に田舎の孤島でして、そこの場所が書いてある紙をもらったんですが、帰る途中大切にしていたはずなのに、何故か無くしてしまいましてね…。当時、あそこへ行った人の大半はすでに他界しているか、もしくは連絡も取れないような病院へ入院していますよ。それにみんなその時は自分の事で必死ですからね。あの心霊手術をしたフィリピン人が、あそこにいた全員にそこの場所を書いた紙を渡したかどうかも分かりません。またあの場所へ行ける手段など、もうないんですよ……」

そのフィリピン人の言葉が本当なら、少し寿命が延びただけという事になる。

「他に方法は何もないんですか?」

「自分の命が掛かってますから、今もずっと探していますよ。でも最近思うんです。これもまた私の運命なのかなと……」

「夢さん……」

「まあ国から支給されるお金で、私もこうして何とか生きていられるから、感謝を忘れちゃいけませんよね」

夢の言葉がとても重く感じる。

「あ、岩上さん、冷めちゃいますよ。食べて下さい」

俺はできる限り普通を装い天丼を食べた。

セットの蕎麦も速攻で食べる。

あとはざる蕎麦か。

まあ食えなくはない。

箸をざらに伸ばした時だった。

「岩上さん…、あの…、蕎麦を一本だけ頂いてもよろしいでしょうか?」

「え?」

「食べているところ見ていたら、一本くらいなら大丈夫かななんて思いまして」

どうする?

また苦しむんだぞ?

いや、それを分かっていながらそれでも夢は食べたいのだ。

「分かりました…。どうぞ、夢さん」

彼はたった一本の蕎麦をつゆにつけて、ゆっくり時間を掛けて何度も咀嚼した。

「いやー、美味しい…。美味しいです、岩上さん……。食べて味わえるって本当に幸せです」

「夢さん、いつか…、本当に良くなったら旨いもんご馳走しますからね」

自分で無責任な事を言っているのは自覚している。

それでもそう伝えたかった。

「それはそれは…、本当に楽しみですね。私も頑張らなきゃ…。あ、ごめんなさい。ちょっとお手洗いへ行ってきます……」

煙草に火をつけながら、夢の後姿を見る。

「岩上さん、あれでも夢さん、ほんと嬉しいんですよ。だって今まで自分から何か口に入れるなんて、見た事ないですから」

長谷川は俺なんかよりも全然夢との付き合いは長い。

気休めかもしれない。

それでも今トイレで吐き苦しんでいる夢の姿を想像すると、何とも言えない複雑な気分だった。

 

 

闇 85(揺れる秋葉原編) - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

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