知床エクスペディション

これは知床の海をカヤックで漕ぐ「知床エクスペディション」の日程など詳細を載せるブログです。ガイドは新谷暁生です。

知床日誌⑳

2020-07-13 05:24:32 | 日記


知床日誌⑳

昆布漁が始まっておらず最終人家の村田さんの作業場を借りて準備し、出発。総勢6人。海に浮かぶとほっとする。今回もシースケープに乗った。水漏れする古いダブル艇。関野さんと漕いだビーグル水道を思い出した。
海は有難いことに平穏で、岬を回りイダシュベに二日泊まった。ここには縄文期から続く古い竪穴住居跡がある。カシュニのあたりで三匹の小熊を連れた家族に行き会った。母親は私たちを見ると子供に逃げるよう促す。
ルシャにも二匹連れがいた。いずれも体格の良い母熊だった。子供たちのの無事の成長を祈った。沖では定置網漁の準備が進んでいる。カラフトマスは来るだろうか。

羅臼のわくさんまんさん村田さんもそうだが知床には頭を刺激する人が多い。今回もまたわくさんと骨鬼の戦いについて議論した。私もわくさんもすっかり酒が弱くなった。13世紀の骨嵬の戦いを主導したのは誰だったのか。キジ湖を越えたのは木船だったのか、皮舟だったのか。オホーツク文化からアイヌ期への移行とこの戦いは何か関係があるのだろうか。わくさんは考古学者の見地から実証的な説を唱え、私は勝手な想像でものを言う。

帰りにみんなで白滝の松原さんの家に立ち寄った。白滝は数少ない黒曜石の産地として知られているところだ。松原さんは廃校になった立派な小学校に工房を作ってバイダルカを復元しパドルを削り、ソリ犬を100頭近く飼って冬の犬橇ツアーを行っている。もう死んでしまったが以前はオオカミもいた。ハリーという名のオオカミは松原さん以外にはけっしてなつかなかった。この犬は子供の頃、亡くなった真下さんが動物検疫を通してアラスカから連れてきた犬だ。

私のパドルは松原さんが作ったものだ。20世紀初めのロシア・アメリカ会社の時代のアリュートパドルを正確に復元したもので、今では多くの愛好家の家に美術品として飾られている。松原パドルは優れた道具だ。19世紀末から20世紀にかけてロシア人に従ったアリュートは、このパドルでラッコを追い遠くカリフォルニアまで旅した。私は先人に敬意を払いアリューシャンだけではなく知床でも日常的にこのパドルを使ってきた。

白滝で函館のバイダルカの話になった。このアリュートカヤックは1875年の千島樺太交換条約批准時に開拓使黒田清隆一行がシムシル島で入手したもので、現在は函館市博物館に展示されている。私はこれが20世紀初めにウナラスカ島で撮影されたものと同じかたちであることから当時のシムシル島の最新の狩猟船と考えた。しかし松原意見によればこれは日本人の要望に応えた急ごしらえの舟なのではないかということだ。何よりも骨組みに傷みがなく3人乗りだが真ん中の穴は取ってつけたように後から作ったものだと言う。実際のところは解らない。おそらく珍し者好きの日本人が欲しがってうるさく、彼らもロシア人のように真ん中に乗りたがったから急遽3人艇に作りなおしたのかもしれない。しかし私は当時の狩猟形態から、想像だが、やはり実用の3人乗りの狩猟艇だと思う。まず展示されているパドルが細く軽い狩猟用のものだ。この形は岩場や昆布ワラでラッコを獲るのに適した振り回しやすいものだ。当時はシムシル島でもロシア人に連れてこられたアリュートによってラッコ猟が行われていた。露米会社の本拠地はコディアック島であり、そこから来ているから彼らはアリュートではないとする意見もあるが、自らの意志に関わらず彼らはあちこちに移民させられている。アメリカはオットセイ猟のために多数のアリュートをプリビロフに移住させた。

この皮舟はやはり狩猟用だと思う。先頭に投鎗器を持つ射手、真ん中が若く強い漕ぎ手、後尾が老練な漕ぎ手だ。彼らはケルプの海を音もなく進み、忍び寄ってラッコを狩ったのだろう。私は函館の舟の経緯が何であったにせよ、これは当時のシムシル島で実際に使われていた狩猟船と思う。ボリュームはないが昆布わらの海で小回りが効く。フネはその目的で形が変わる。後世広く知られるようになったバイダルカはロシア人によって生産させられたことを忘れてはならない。それが結局は優れた海洋狩猟文化であるアリュート文化を滅ぼしていった。歴史の必然といえばそれまでだが少なくとも私はバイダルカがロシア語であることを忘れない。

アリュート文化は文明社会に有益だったからこそ徹底的に利用されて滅んだ。網走の北方民族博物館にはアリュートの展示が驚くほど少ない。そもそも博物館とは先住文化の墓場のようなものだが、アリュート遺物の少なさが意味するものは大きい。そして現代は文化の記憶さえなくすほど過去を都合よく解釈している。文化の復興とは歌や踊りを復活させることではない。生活とその技術伝統をよみがえらせることだ。しかし失われた文化はけっして甦らない。今回の知床は意義深い旅だった。

新谷暁生