正覚ノ門 徒然帖

正覚者の言葉、日々の雑感。
・金剛般若経・無著頌 R2/1/7〜3/11 7/20〜
・長老偈経 3/14〜7/17

金剛般若経 三十二a (最終回)

2020-09-27 06:24:26 | 日記

おはようございます。

三十二a さらに、また、スブーティよ、実に、求道者・すぐれた人が、計り知れず、数えきれないほどの世界を、七つの宝で満たして、諸の如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人に施したとしよう。また他方では、立派な若者や立派な娘が、この智慧の完成という法門から四行詩ひとつでも、とり上げて、記憶し、誦え、理解し、他の人々に詳しく説いて聞かせたとすれば、そのことによって、計り知れず、数えきれないほどの、さらに多くの功徳を積むことになるのだ。それでは、どのように説いて聞かせるのであろうか。説いて聞かせないようにすればよいのだ。それだからこそ<説いて聞かせる>と言われるのだ。
 現象界というものは、
 星や眼の翳(かげ)、燈し火や、
 まぼろしや、露や、水泡(うたかた)や、
 夢や、電光や、雲のよう、
 そのようなものと、見るがよい。
師はこのように説かれた。スブーティ上座は歓喜し、そして、これらの修行者や尼僧たち、在家の信者や信女たち、また、〔これらの求道者たちや、〕神々や人間やアスラやカンダルヴァたちを含む世界のものどもは、師の説かれたことをたたえたという。

切断するものとしての金剛石、聖なる、尊ぶべき、智慧の完成、終わる。
(中村元 紀野一義 訳  岩波文庫)

頌73c-d (それ故にまた)諸仏の功徳ーその化身による説法のもたらす功徳ーは、尽きざるものでないのでははない。
頌74 諸々の如来が説法するとき「我は化身である」というように自我を(説法者であるとして)自ら説きあかすのではない。すなわちそれは("説きあかさないというあり方で"説くのである。)それ故にこそ、その説法が真実なのである。
頌75 如来におけるその涅槃とは、(有為の世界の)因果的なあり方と同じでもなく、また別なのでもない。(なぜならば、涅槃に入った後も、諸仏は化身のすがたでこの世に現れ、説法を行なっているからであり)生成した存在を、ここに九種類に(星や目の翳などに例えて)正い知を持って観察するからである。
頌76 (すなわち九種類とは) 1見ること 2微相 3認識 4場所 5身体 6経験(受用) 7過去 8現在、および 9未来が、(順次に、星などの九つの比喩によって)観察される。
頌77 (その1-3によって、認識における)特徴づけが観察され、(4-6によって、人間的な)経験が観察され、(7-9によって時間的な)生起が観察される。これによって、因果的に変化する(有為の世界の)中にありながら(それによっては)汚されることのない自由な力を、(諸仏は)獲得するのである。
三百の詩頌からなる「智慧の完成」に対する、七十の詩頌(による注釈)が終わった。これはアールヤ・アサンガ(無著)師の作である。  
(無著造 世親釈 長尾雅人訳注 中公文庫)
 
※ 以上で金剛般若経のサンスクリット邦訳と、これに対する無著の頌のブログ掲載が完了致しました。

一切の有為法は、夢・幻・水泡(うたかた)・影の如く
霧の如く、また、電光の如し。
まさにかくの如き観をなすべし。





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