正覚ノ門 徒然帖

正覚者の言葉、日々の雑感。
・金剛般若経・無著頌 R2/1/7〜3/11 7/20〜
・長老偈経 3/14〜7/17

金剛般若経 十七e

2020-08-31 06:16:39 | 日記

おはようございます。

十七e たとえば、スブーティよ、身が整い、身の大きな人があるというようなものだ。」
 スブーティ長老は言った-「師よ、如来が、<身が整い身の大きな人>と説かれたかの人は、師よ、実は体のない人であると、如来は説かれました。それだからこそ、<身が整い身の大きな人>と言われるのです。」
(中村元 紀野一義 訳  岩波文庫)

頌45 法身をそなえたものとして考えられる点で、仏陀が、かの(欠陥のない巨大な体を持つ)人にたとえられている。(なぜならば、仏陀の法)身は(煩悩障や所知障によって)障(さえ)ぎられることなく(すなわち"欠陥のない体をそなえ")あらゆる場所に遍在するのであるから。
頌46 かつその属性は(功徳)が広大であるから、まさに"巨大な体"なのである。またそれは、「存在しない体の存在」に他ならないから、"体の持ち主ではない"と言われるのである。
(無著造 世親釈 長尾雅人訳注 中公文庫)

 金剛般若経 十七d

2020-08-30 05:37:06 | 日記

おはようございます。

十七d スブーティよ、もしも誰かが、『如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人が、この上ない正しい覚りを覚られた』と、このように言ったとすると、そのひとは誤りを言ったことになる。かれは、真実でないことに執着して、わたしを謗っていることになるだろう。それはなぜかというと、スブーティよ、如来がこの上ない正しい覚りを現に覚ったというようなことがらはなにもないからだ。また、スブーティよ、如来が現に覚り示された法には真実もなければ虚妄もないのだ。それだから、如来は『あらゆる法は、目ざめた人の法である』と説くのだ。
それはなぜかというと、スブーティよ、『あらゆる法というものは実は法ではない』と、如来によって説かれているからだ。それだからこそ、<あらゆる法>と言われるのだ。
(中村元 紀野一義 訳  岩波文庫)

頌43c-d (何かをさとった、というような)さとりは、その行(ディーパンカラ如来の元で、最高のものではなかった)と同時に"真理"としてあるものではない、(そのいずれもが、因果的に)作られたという性質のものだからである。
頌44 (しかし、さとりの本質は)そのような「性質のないことを性質とする」のであるから、"虚偽"なのでもない、と説かれたのである。それゆえ、(さとりは、法のさとりに他ならないから)、"あらゆる法は、仏陀の法である"のであり、(あらゆる法は、法ではないのであるから)全ては非存在を自らの本質とするのである。
(無著造 世親釈 長尾雅人訳注 中公文庫)


金剛般若経 十七c

2020-08-29 06:05:24 | 日記

おはようございます。

十七c それはなぜかというと、スブーティよ、<如来>というのは、これは、真如の異名なのだ。
 〔スブーティよ、如来というのは、これは、生ずるということはないという存在の本質の異名なのだ。スブーティよ、如来というのは、これは、存在の断絶の異名なのだ。スブーティよ、如来というのは、これは、究極的に不生であるということの異名なのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、生ずることがないというのが最高の真理だからだ。〕
(中村元 紀野一義 訳  岩波文庫)

頌43-a-b  のちに(さとりを得る、というように)予言が与えられたのであるから、ディーパンカラ如来のもとでの、(如来の)行は、最高なるものではなかった。(だから、"「菩薩の道に歩みを進めた」と言われるようなものは、何も存在しない<十七節a>。")
(無著造 世親釈 長尾雅人訳注 中公文庫)

金剛般若経 十七b

2020-08-28 06:06:53 | 日記

おはようございます。

十七b スブーティよ、どう思うか如来がディーパンカラ如来のみもとで、この上ない正しい覚りを現に覚ったというようなことがらがなにかあるだろうか。」
―「師よ、わたしが師の仰せられた言葉の意味を理解している限りでは、如来が、尊敬さるべき人・正しく目ざめた人であるディーパンカラ如来のみもとで、この上ない正しい覚りを現に覚られたというようなことがらはなにもありません。」
このようにいわれたとき、師はスブーティ長老に向かってこのように言われた―「そのとおりだ、スブーティよ、そのとおりだ。如来が、尊敬さるべき人・正しく目ざめた人であるディーパンカラ如来のもとで、この上ない正しい覚りを現に覚られたというようなことがらはなにもないのだ。
 スブーティよ、もしも如来が現に覚られた法が何かあるとするならば、ディーパンカラ如来が、わたしのことを『若者よ、あなたは未来の世にシャーキヤムニという名の如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人となるだろう』などと予言したりはなさらなかっただろう。
 けれども、スブーティよ、今、如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人が、この上ない正しい覚りとして現に覚られたような法は何もないのだから、それだから、わたしは、ディーパンカラ如来によって『若者よ、あなたは未来の世にシャーキヤムニという名の如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人となるだろう』」と予言されたのだ。
(中村元 紀野一義 訳  岩波文庫)



金剛般若経 十七a

2020-08-27 05:58:07 | 日記

おはようございます。

十七a そのとき、スブーティ長老は、師に向かって次のように問うた―「師よ、求道者の道に進んだものは、どのように生活し、どのように行動し、どのように心を保ったらよいのですか。」
 師は答えられた―「スブーティよ、ここに、求道者の道に進んだものは次のような心をおこすべきだ。すなわち、『わたしは生きとし生けるものを、汚れのない永遠の平安という境地に導き入れなければならない。しかも、このように生きとし生けるものを永遠の平安に導き入れても、実は誰ひとりとして永遠の平安に導き入れられたものはいないのだ。』と。
 それはなぜかというと、スブーティよ、もしも求道者が<生存するもの>という思いをおこすとすれば、かれはもはや求道者とは言われないからだ。個体という思いや、乃至個人という思いなどをおこしたりするものは、求道者とは言われないからだ。
 それはなぜかというと、スブーティよ、<求道者の道に向かった人>というようなものはなにも存在しないからだ。
(中村元 紀野一義 訳  岩波文庫)

頌42 おのおのみずから修行するとき、「自分は菩薩である(実践している、心を訓練している)」と考えるのであるならば、それは、かの"執着のない心"《第十節c - まさに、とらわれることなくその(清浄な)心を生ずるべきなのである<応無処住而生其心(まさに、住するところ無くして、しかも、其の心を生ずべし)>》 という、その心に対する障害であると説かれたのである。
(無著造 世親釈 長尾雅人訳注 中公文庫)