正覚ノ門 徒然帖

正覚者の言葉、日々の雑感。
・金剛般若経・無著頌 R2/1/7〜3/11 7/20〜
・長老偈経 3/14〜7/17

金剛般若経 三十一b

2020-09-26 06:27:35 | 日記

おはようございます。

三十一b  師は言われた―「スブーティよ、実に、その通りだ。求道者の道に進んだ者は、すべてのことがらを知らなければならないし、見なければならないし、理解しなければならない。しかも、ことがらという思いさえも止まらないように、知らなければならないし、見なければならないし、理解しなければならないのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、『ことがらという思い、ことがらという思いというのは、実は思いではない』と如来が説かれたからだ。それだからこそ、<ことがらという思い>と言われるのだ。
(中村元 紀野一義 訳  岩波文庫)

頌71 (説法とは)ただ"世俗のことば"(に従った)に過ぎないことを(知らない)から、"愚かな"ものたちは、(真意からは)異なって理解(し執着)する。(如来が自我についての見解を説いたというのも、世俗のことばに過ぎず)自我にせよ、法(もの)にせよ、それを否定したからといって、さとりが得られるものではない。(何故ならばもともと)この両者は実在性のない(従って否定の対象にならない)ものだからである(否定されるべきものは、両者に対する見解そのものである)。
頌72 非実在の対象について、非真実なるものを(愚者が)想定しているのであるから、そこに"見解"があるのであり、またそれ故にこそ、(真の)"見解ではない"(と如来が説かれた)のである。このことは、実に(さとりを得るための)微細緻密な障害となる。それが除去されるためには、(自我やあらゆる法について)そのように(その虚妄性を)知らなければならない。
頌73a-b (すなわち経に"菩薩の道に進んだものは、すべてのことがらを………理解しなければならない"と述べられたように、世俗の知と勝義の知との)二種の知と及び(その基礎である)瞑想(三昧)とによって、それが除去されるべきであると説かれた。 
(無著造 世親釈 長尾雅人訳注 中公文庫)

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