窓を開けると、何処からか蝋梅が匂ってきます。春の知らせがやって来ました。
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七 さらに、また、師はスブーティに向かってこのように問われた―「スブーティよ、どう思うか。如来が、このうえない正しい覚りであるとして現に覚っている法がなにかあるだろうか。また、如来によって示された法がなにかあるのだろうか。」
こう問われたときに、スブーティ長老は師に向かってこのように答えた―「師よ、私が師の説かれたところの意味を理解したところによると、如来が、このうえない正しい覚りであるとして現に覚っておられる法というものはなにもありません。また、如来が教え示されたという法もありません。それはなぜかというと、如来が現に覚られたり、教え示された法というものは、認識することもできないし、口で説明することもできないからです。それは、法でもなく、法でないものでもありません。それはなぜかというと、聖者たちは、絶対そのものによって顕されているからです。」
(中村元 紀野一義 訳 岩波文庫)
※この節に関する無著の頌を引用します。(長尾雅人訳 中公文庫)
[頌15] (真身ではなく)化身であるかぎりでは、(真)にさとれるもの(仏陀)ではないし、(化身によっては)いかなる法も説かれたのではない。それにもかかわらず(現に)説かれているもの、それは(法・非法という)二様には 捉えられないものであり、語るべからざるものである。ことばの方途をもってしては規定し得ないものだからである。以上引用
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