正覚ノ門 徒然帖

正覚者の言葉、日々の雑感。
・金剛般若経・無著頌 R2/1/7〜3/11 7/20〜
・長老偈経 3/14〜7/17

金剛般若経 九d

2020-07-31 05:44:24 | 日記

おはようございます。

九・d師は問われた―「スブーティよ、どう思うか。《尊敬さるべき人》が<わたしは尊敬さるべき人になった>とういうような考えをおこすだろうか。」
スブーティは答えた―「師よ、そういうことはありません。尊敬さるべき人が、<わたしは尊敬さるべき人になった>というような考えをおこすはずがありません。それはなぜかというと、師よ、実に、尊敬さるべき人といわれるようなものははなにもないからです。それだからこそ、《尊敬さるべき人》と言われるのです。師よ、もしも、尊敬そるべき人が<わたしは尊敬さるべき人になった>というような考えをおこしたとすると、かれには、かの自我に対する執着があることになるし、生きているものに対する執着、個体に対する執着、個人に対する執着があるということになりましょう。」
(中村元 紀野一義 訳  岩波文庫)


※ 尊敬さるべき人 ー 阿羅漢、アラハン。四果の最高位で、語源的には「(尊敬供養に)値ある人」(漢訳では応供)の意。
 この第九節は次の「九e」で終わります。明日はこの節のまとめとして無著の頌を取り上げます。


金剛般若経 九c

2020-07-30 06:12:48 | 日記

おはようございます。まだまだ梅雨は続きます。

九・c師は問われた―「スブーティよ、どう思うか。《もう決して生まれ変わって来ないもの》が、<わたしは、もう決して生まれ変わって来ないものという成果に達しているのだ>というような考えをおこすだろうか。」
スブーティは答えた―「師よ、そういうことはありません。もう決して生まれ変わって来ないものが、<わたしは、もう決して生まれ変わって来ないものという成果に達しているのだ>というような考えをおこすはずがありません。それはなぜかというと、師よ、実に、もう決して生まれ変わって来ないものになったといっても、なにもそういうものがあるわけではないからです。それだからこそ、《もう決して生まれ変わって来ないもの》と言われるのです。」
(中村元 紀野一義 訳  岩波文庫)


※ もう決して生まれ変わって来ないもの ー 阿那含(あなごん)、不還(ふげん)、不来、アナーガミン。原始仏教でいう四果の第三の位。煩悩を断ち切って、死後には色界、無色界に生じ、再びこの欲界には還ってこない(再生しない)聖者をいう。

金剛般若経 九b

2020-07-29 06:05:31 | 日記

おはようございます。

九・b  
師は問われた―「スブーティよ、どう思うか。《もう一度だけ生まれ変わって覚るもの》が、<わたしは、もう一度だけ生まれ変わって覚るものという成果に達しているのだ>というような考えをおこすだろうか。」
スブーティは答えた―「師よ、そういうことはありません。もう一度だけ生まれ変わって覚るものが、<わたしは、もう一度だけ生まれ変わって覚るものという成果に達しているのだ>というような考えをおこすはずがありません。それはなぜかというと、もう一度だけ生まれ変わって覚るものになったといつても、なにもそういうものがあるわけではないからです。それだからこそ、《もう一度だけ生まれ変わって覚るもの》と言われるのです。」
(中村元 紀野一義 訳  岩波文庫)


※ もう一度だけ生まれ変わって覚るもの ー 斯陀含(しだごん)、一来、サカタガミ。この世にもう一度だけ生まれかわって覚り、それ以後はこの世に生をうけることがない。原始仏教では、有身見(うしんけん)・戒禁取見(かいごんじゅけん)・疑の三結を断ち、貪瞋痴(とんじんち)の三毒が薄くなった者をいう。

金剛般若経 九a

2020-07-28 05:57:45 | 日記

おはようございます。

九・a (世尊が言われた―)「スブーティよ、どう思うか。《永遠の平安の流れに乗ったもの》が、<わたしは、永遠の流れに乗ったものという成果に達しているのだ>というような考えをおこすだろうか」。
スブーティは答えた―「師よ、そういうことはありません。永遠の平安の流れに乗ったものが、<わたしは、永遠の流れに乗ったものという成果に達しているのだ>というような考えをおこすはずはありません。それはなぜかというと、師よ、実に、彼はなにものも得ているわけではないからです。それだからこそ、《永遠の流れに乗ったもの》と言われるのです。彼は、かたちを得たのでもなく、声や、香りや、味や、触れられるものや、心の対象、を得たわけでもありません。それだからこそ、《永遠の流れに乗ったもの》と言われるのです。師よ、もしも、永遠の平安の流れに乗ったものが、<わたしは、永遠の流れに乗ったものという成果に達しているのだ>というような考えをおこしたとすると、かれには、かの自我に対する執着があることになるし、生きているものに対する執着、個体に対する執着、個人に対する執着があるということになりましょう。」
(中村元 紀野一義 訳  岩波文庫)

永遠の平安の流れに乗ったもの  
 預流・入流・須陀洹(しゅだおん)・ソターパナ。煩悩を断ち切って、聖者の流れに入った者のことで、今生を終わった後に、最大7回まで、欲界の人と天の間を生れかわり、その後、涅槃に入る。


金剛般若経 八

2020-07-27 05:38:10 | 日記

おはようございます。

八 師は問われた―「スブーティよどう思うか。立派な若者や、あるいは立派な娘が。この《果てしなく広い宇宙》を七つの宝で満たして、如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人々に施ししたとすると、その立派な若者や立派な娘は、そのことによって、多くの功徳を積んだことになるであろうか。」
スブーティは答えた―「師よ、幸ある人よ、その立派な若者や立派な娘は、そのことによって、多くの、多くの功徳を積んだことになるのです。それはなぜかというと、師よ<如来によって説かれた、功徳を積むということは、功徳を積まないということだ>と如来が説かれるからです。それだから、如来は、<功徳を積む、功徳を積む>と説かれるのです。」
師は言われた―「そこで、また、スブーティよ立派に若者や立派な娘があって、このはてしなく広い宇宙を七つの宝で満たして、如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人々に施すとしても、この法門から四行詩ひとつでもとり出して、他の人たちのために詳しく示し、説いて聞かせるものがあるとすれば、こちらの方が、このことのために、もっと多くの、計り知れず、数えきれない功徳を積むことになるのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、実に、如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人々の、このうえない正しい覚りも、それから生じたのであり、目ざめた人である世尊らもまた、それから生まれたからだ。それはなぜかというと、スブーティよ、<目ざめた人の理法、目ざめた人の理法というのは、目ざめた人の理法ではない>と如来が説いているからだ。それだからこそまた目ざめた人の理法と言われるのだ。」
(中村元 紀野一義 訳  岩波文庫)

頌16 (法は捉えられないもの、語るべからざるものではあるが、単に空なのではない。)それを(自ら)把握し、(他に)説くということは、(最高の)功徳を集めることであるから、意味がないことではない。(如来に宝を供養するなどの)功徳はさとり(菩提)に役立つものではないから、(本当の功徳ではないが)、それに反して、(自ら把握して他に説くという)二つのことは、(さとりの)担い手となることだから(意味のあること)である。
頌17 (この二つのことは無上のさとりとしての法身、すなわち仏の)本質的なあり方(自性身)を得るための原因なのであり、またそれ以外(の受用身や化身)を生み出すものであるから、功徳を成り立たせるものとして最高である。というのは、もろもろの仏陀の教法は、(ただ仏によってのみ知られ、ただ仏にのみ)独自なものだからである。
 (無著造 世親釈 長尾雅人訳注 中公文庫)