聞 思 修(もん し しゅう)という教えがあります。
先ず、聞とは、聞くこと。読むこと。知ることです。
教えを聞く。教えを読む。教えを知ることです。多聞ということです。
次に、思とは、見聞したことをよくよく考えること。
ただ闇雲に何でもかでも信じればいいということではありません。
教えを思うこと。教えの内容をよく吟味することです。
次に、修とは、日常生活の中で教えを実践することです。
修行するということ。教えを得たならば行ずることです。
そして、信心・信じる・信ずる心です。では、何を信じるのでしょうか。
それは、佛・法・僧の三寶を信ずることです。
南無帰依佛 なむ きえ ぶつ
佛教の開祖 大恩ある釈迦牟尼佛陀さまを信ずる。
密教の教主 大毘盧遮那(だいびるしゃな)如来さまを信ずる。
南無帰依法 なむ きえ ほう
佛教の開祖 釈迦牟尼佛陀さまの教えを信ずる。
密教の教主 大毘盧遮那(だいびるしゃな)如来さまの教えを信ずる。
南無帰依僧 なむ きえ そう
三国伝灯列祖の諸大阿闍梨耶。
釈迦牟尼佛陀さまの教えを護持してこられた出家修行者たち。
正法護持の佛教教団。祖師先徳方。修行者たちを信ずる。
一心頂礼 十方法界 常住三寶
いっしん ちょうらい じっぽう ほうかい じょうじゅう さんぽう
一心頂礼 十方法界 常住三寶
いっしん ちょうらい じっぽう ほうかい じょうじゅう さんぽう
一心頂礼 十方法界 常住三寶
いっしん ちょうらい じっぽう ほうかい じょうじゅう さんぽう
次に、常に懺悔(さんげ)心と感謝の真言念誦(ねんじゅ)を忘れないことです。
懺悔文(さんげもん)
我昔所造諸悪業 が しゃく しょぞう しょ あくごう
皆由無始貪瞋痴 かい ゆう むし とん じん ち
従身語意之所生 じゅう しん ご い し しょしょう
一切我今皆懺悔 いっさい が こん かい さんげ
我、昔より造りし所の諸の悪業は
皆、無始の貪 瞋 痴に由る
身 語 意より生ずる所なり
一切を我、今、皆、懺悔したてまつる。
三寶のみ名を唱え、至心に懺悔するのです。
これから先、受けるべきであろう悪業の報いを
大難から中難に、中難から小難に、小難は無難に変える。
ご加護を得るためには、真言を唱えることです。
行住坐臥(ぎょう じゅう ざ が)日常の振る舞いの中でも
常に懺悔心を、常に真言念誦を心がける、心構えが必要です。
例えば、歩きながら、待ちながら、坐りながら、横になりながら
心の中で、懺悔文を唱え、真言を念誦するのです。
真言念誦
オン ア ビ ラ ウン ケン バサラ ダト バン
オン ア ビ ラ ウン ケン バサラ ダト バン
オン ア ビ ラ ウン ケン バサラ ダト バン
一心に真言を唱える。ただ、ただ、感謝の心で唱えさせていただくこと。
必ずしも佛前にて行うこととせずに、行住坐臥においても念じ唱えること。
南無大日遍照金剛 南無大日遍照金剛 南無大日遍照金剛
開経偈(かいきょうげ)
無上甚深微妙法 むじょう じんじん みみょうほう
百千万劫難遭遇 ひゃく せん まんごう なん そうぐう
我今見聞得受持 が こん けんもん とく じゅじ
願解如来真実義 がん げ にょらい しんじつ ぎ
無上、甚深、微妙の法は
百千万劫にも遭い遇うこと難し
我、今、見聞し、受持することを得たり。
願わくは、如来の真実義を解し奉らん。
そして、一生の間、信心を持続させることです。
南無大日遍照金剛 南無大日遍照金剛 南無大日遍照金剛
神佛の加護をいただき、この身、今生において
即身に成佛させていただく。
前回のブログから時間が過ぎましたが
私自身、以上のようなことが感じられ
あらためて再確認させられる
今日この頃なのです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。ありがとうございました。
このブログを読んでいただいた方々の抜苦与楽のために・・・
南無大日遍照金剛 南無大日遍照金剛 南無大日遍照金剛
合掌