社長から理不尽な賃金カット、労働組合結成を機に執拗ないやがらせを受けている仲間ととなりで飲んでいた。
「私のことを自分のことのように思ってくれる方々が居ること、本当に今日の集会に来てよかった。助けられました。」
そう言うなり私たちは別れぎわにハグしながら泣いていた。
私たちは別の会社で起きているパワハラ抗議のために集まった。
営業成績が上がらないだけで「給料泥棒」とののしられる上司を許さないと立ちあがった。コロナ禍で営業するのもやっと、でも会社のためと思い飛び込んでやっと一件契約を交わす。それだけでも血と汗のにじむような営業努力だろう。
しかし、上司はそのひとつ一つの努力をしてきた労働者の前で「よくやってくれた」と言うでもなく、とった件数に満たない労働者に暴言を容赦なく浴びせかける。
いま改めてコロナ禍で成果主義が問われなければならない。営業成績という数字だけで一喜一憂し、暴言を浴びせる上司とそれを受ける労働者がいることを。上司に気に入られるかいられないがで成果が変わってしまう非常識がまかり通るクソったれの会社と社会に。
それは競走馬だ。
鼻先にぶら下げられたニンジンや競争や調教に集中させるための目の遮蔽ブリンカーに似ている。
私たちは競争の中で、やもすると何かに遮られて見えず、「優秀」なバッジをつけられたとしても、失ってしまうものを沢山黙認してきたのではないか。
「優秀」なバッジを受けとるのと引換に心身を壊してないか。上司になり、前の上司と同じことを繰り返してないか。いじめたり見捨ててないか。子どもたちにも同じブリンカーを付けさせて走らせてないか。そして子どもたちも不自由な生きざまを他人に打ち明けられず苦しんでないか。
この競争の連鎖を断ち切れるのは、人を思いやること、共感すること、苦しみを共に感じられること。
立ちあがること。
別会社で受けているパワハラに我がことのように涙し、ハグした仲間の指先が肩にくい込んで痛かった。