ひとは大切なものをうしなって気づく。
その身分を当面のあいだ無償で働けば開放するとやったのが明治政府の庇護のもとで育った三井財閥などだった。
与論島での台風被害も重なり、口之津には食うや食わずの与論島人が出稼ぎ希望へと殺到し増え続けた。しかし、一般の炭鉱夫たちに与えられるべき社宅も与論島人たちには与えられず、民家の家畜小屋や納屋のような場所で夜露をしのぎながらも必死に荷役作業に従事した。会社の差別的扱いだけではなく炭鉱で働く人たちからも差別されたため、独特な与論島人たちのコミュニティが炭鉱の街に形成されたことなど生き生きと描かれていた。
その後詩集や『闘いとエロス』『非所有の所有』を読んでいくと、中心よりも周辺、炭鉱で働く女たち、からゆきさん、みな声なき声を扱っていたその姿勢と瑞々しい感性に共感をおぼえた。
しかし、数々の森崎さんの話の中でも谷川雁さんと森崎さんのような、ある事件を受けて近い場所から徐々に、というか瞬時に遠ざかる関係性にとても考えさせられたことがある。
それ故に、絶望的距離感というものがひととひととのあいだには存在するということだった。
その矢先の痛ましい事件に、森崎さんは谷川さんに炭鉱で働く仲間を集めて、この事件について話し合いを持ちたいと持ちかけた。
森崎さんは谷川雁、上野英信らと『サークル村』誌を立ち上げ炭鉱、郵便局員、鉄道員、紡績女工といった労働者の声なき声を綴り、組織化しようとしたのだった。
1961年の前年は三井三池炭鉱闘争が敗北する。国策として石炭より石油というエネルギー政策の転換と相まって、日本の労働運動はじまって以来の「総資本対総労働」の決戦場となった。
谷川雁らは中小零細の炭鉱労働者とともに閉山に追いこまれた退職者たちを退職者同盟を結成して「退職金をよこせ」と経営者や銀行とも交渉し、補償のない退職者たちの補償を勝ちとり生をつなごうとしていた。
1961年の5月、その事件はおきた。
森崎和江さんらがサークル村の女性たちの声を雑誌「無名通信」にして聞き取りなどを行っていた。そのお手伝いとして参加していた山崎里枝さんが何者かに強かんされた後に惨たらしく殺害されるという事件が起きたのだった。
『無名通信』には、そんな山崎さんのような無名の人々が自らの性としての「おんな」を掘り起こし世間の男に翻弄されない自分自身をとりもどすという作業と文字化をすすめていた。
その矢先の痛ましい事件に、森崎さんは谷川さんに炭鉱で働く仲間を集めて、この事件について話し合いを持ちたいと持ちかけた。
しかし谷川さんは、今は警官が住宅地の周りを包囲する中、退職者同盟員を切り崩そうとしており炭鉱閉山の座り込みに集中すべきと森崎さんの提案を頑として聞き入れず遮ったのだった。
その後、犯人が同じ仲間の炭鉱夫だった事が判明する。
山崎里枝さんのお兄さんは、その事件の顛末を悲観してその日のうちに自殺した。
その後、森崎さんは恋仲としての谷川さんとの関係を清算する。
失ったからこそ気がつく。
それは距離感のことで、熱烈な愛が距離のへだたり、あいだがわからなくさせていたということなのか。
自分に足りなかった距離感の意味を教えてくれたのは森崎和江という詩人を通してだったかもしれない。
この真昼
車座のまえのゆるいながれ
筑後平野の川に浮く白帆
その水のあわいさらさら
これも水
あの海も水の静寂のなかで
地球とはどこのこと
臭気たつこのからだ
そのへそのおのつながりの先は どこ
「水のデッサン」
いま、私はどこにいるのだろう
そんな時に森崎和江さんはあの世に逝かれてしまわれた。