マンローは縄文・弥生という時代区分を用いずに、先史時代の日本を描き分けています。それは日本の先史時代をメソポタミア、アジア北部回廊、中国古代王朝、朝鮮半島と一貫した変化として捉えるために非常に重要な視点を提供しています。そしてこの世代交代の重要な指標として「ドルメン文化」の考えを突き出しています。しかしながらこの考えはうまくなかったと思います。理由は西欧のドルメンとインドのドルメン、遼河文明、朝鮮 . . . 本文を読む
なぜか 「イ族」のルーツについて が
人気記事にランクインした。
あらためて読んでみる。
我ながら、なかなか良い。
しかしY-ハプロの話に入って行くと、今の私の考えとは違う点に気づいた。それはマンローの論文「先史時代の日本」に導かれたものだ。マンローの論文はY染色体などまったくなかった時代に書かれているが、文化の移動と文明の移植を見事に説明している。
1.ハプロN人が文明 . . . 本文を読む
なぜか 「イ族」のルーツについて が
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我ながら、なかなか良い。
しかしY-ハプロの話に入って行くと、今の私の考えとは違う点に気づいた。それはマンローの論文「先史時代の日本」に導かれたものだ。マンローの論文はY染色体などまったくなかった時代に書かれているが、文化の移動と文明の移植を見事に説明している。
1.ハプロN人が文明 . . . 本文を読む
ウィキのハプログループN (Y染色体)に関する記載は承服しがたいものがあるが、一応そのまま紹介する。
Y染色体のハプログループNは、NOグループを親系とし、ハプログループOとは4万年前に分岐した。
そしてユーラシア北部、さらにはシベリアを横断して北欧まで分布を広げている。
現在はユーラシアの極北地帯に分布しているが、これは後から入ってきた人種に . . . 本文を読む
縄文人、ラオス・マレーシアにルーツ? ゲノム配列解読
先程のブログの別記事から
The prehistoric peopling of Southeast Asia | Science
という論文を紹介したものの要約です。早い話がパクリのパクリ。元ネタがScience と書いてあるので読み始めたが、いささか眉唾の記事。1.C系人は8千年前にラオ . . . 本文を読む
縄文人、ラオス・マレーシアにルーツ? ゲノム配列解読
先程のブログの別記事から
The prehistoric peopling of Southeast Asia | Science
という論文を紹介したものの要約です。早い話がパクリのパクリ。元ネタがScience と書いてあるので読み始めたが、いささか眉唾の記事。1.C系人は8千年前にラオ . . . 本文を読む
「マンロー小伝」を書くにあたってマンローの肩書きをどうしようかと悩んでいる。まず即物的に「医師マンロー」というのはいかがかと思ったが、どうも違う。まず真っ先に違うのは、彼が45歳になるまで医者(ドクター・マンロー)ではなかったことである。それと、彼は職業として医師ではあっても、きわめて訓練の不足した医師だったことである。だから彼はもし伝記を書いてもらえたとしても、医師マンローとは書いてほしくはなか . . . 本文を読む
序章 マンローが生まれた国 スコットランド
最初から寄り道ですみません。まずスコットランドの紹介をさせてください。
というのもマンローの行動スタイルや、アイヌに注ぐまなざしは、スコットランドという文化・風土を踏まえて初めて理解できるのではないかと思うからです。
イギリスは大ブリテン島と小ブリテン島からなり、大ブリテン島の3分の2ほどがイングラン . . . 本文を読む
第1章 マンローの学生時代
エジンバラ近郊
1.マンローの生い立ち
マンローは1863年にエジンバラ北方のダンディーという町で生まれました。明治維新の4年前ということになります。親は開業医で、一族の源は14世紀まで遡る名門です。
79年にエジンバラ大学医学部に入学しています。学生の頃から考古学・人類学に興味を抱いていたよう . . . 本文を読む
第2章 遍歴の時代 エジンバラから横浜まで
マンローは歴史の話や発掘の話では饒舌ですが、自分のことはあまり語りません。
とくに卒業前後の事情はあやふやです。3つの謎があります。
第一には、病気で学校を休んでいることです。最低でも1年は休んでいます。おそらく結核だったようで、チュニジアで転地療養を行っています。
第二には、きちっ . . . 本文を読む
匈奴の歴史 年表
戦国時代
紀元前318年 匈奴は秦を攻撃するが敗退。これを機に秦は国力を強化。 戦国時代の匈奴紀元前215年 秦の始皇帝は将軍の蒙恬に匈奴を討伐させる。さらに長城を修築して北方騎馬民族の侵入を防ぐ。
紀元前209年 始皇帝の死。単于頭曼は黄河の南に攻め込み、匈奴国を建設。紀元前209年 頭曼の子冒頓(ぼくとつ)が反 . . . 本文を読む
斎藤成也「ユーラシアにおける東西交流 DNA とゲノムからさぐる」
中央アジアで最大版図を誇ったのは、13世紀に興ったモンゴル帝国である。
モンゴル帝国以前には、女真族の金、契丹族の遼、セルジュークトルコ、ウイグル、突厥、柔然、エフタル、匈奴などが興亡した。
ゲルマン民族の大移動の原因となったフン族の移動は、匈奴の一部がユーラシアを東から西に移動したためだとされている。
. . . 本文を読む
マンローが横浜に降り立ち、「日本の人」となったのは、1891年5月12日のことのようです。明治で言えば24年。このときのマンローの年齢は28歳でした。
前の章で書いたように、マンローはインドでの生活を断念し香港に拠点を移したのですが、そのことは香港で生活の資を確保するということでした。
記録によると、彼は1890年に香港の汽船会社ペニンシュラ&オリエンタル社に船 . . . 本文を読む
アバ・デ・ロスサントス
日本近代考古学思想における「先史」の概念に関する研究
一E.S.Morse著『大森介墟古物編』(1879年)から
鳥居龍蔵著『有史以前乃日本』(1918年)まで一
上記文献はオリジナルではなくその要旨である。下記はそのさらなる要約である。ネットで調べたら、これは平成20年度の北海道大学文 . . . 本文を読む
藤尾慎一郎「弥生鉄史観の見直し」国立歴史民俗博物館研究報告 第 185 集 2014 年 2 月の読後感です弥生時代という時代区分を放棄すべき
「弥生=鉄史観の見直し」というより、弥生時代という時代区分を放棄すべきなのではないか。紀元前8世紀から始まった米作り集団の渡来と、紀元前1世紀からの鉄器時代の到来は明らかに違う時代だ。
これに対して、弥生時代末期と古墳時代を分ける違いは . . . 本文を読む