元気になるに従って、マンローは次第に考古学にのめり込むようになりました。
ここで当時の日本の考古学の状況について少し話しておきましょう。
教科書でもおなじみですが、日本の考古学のはしりとなったのが、アメリカ人教師エドワード・モースによる大森貝塚の発掘でした。
モースについてはいろいろな評価がありますが、そのエネルギッシュな進化論の普及活動で日本 . . . 本文を読む
三ツ沢のような大規模な事業を単独で実行した裏には、潤沢な資金とともに有能な事務方がついたことがありました。
それが高畠トクでした。トクは明治10年生。没落士族の娘でしたが、女中奉公をしながら学識や英語力を身につけた才媛です。
特派マンローの申し出を受け、トクは秘書兼通訳になりました。1900年ころのことと思われます。このあとの十年は生涯にわたり最高の十年でし . . . 本文を読む
第6章 人類学研究が絶頂に
三ツ沢遺跡の発掘を機に東大解剖学教室の小金井良精との知遇を得たことは、マンローにとって大きな足がかりになりました。
マンローは三ツ沢の人骨を “アイノの頭蓋骨” と予想し、小金井に鑑定を依頼しました。彼は合わせて発掘現場を訪れ発見場所の検分も依頼しました。
小金井はこの人骨をアイヌ人に近縁のも . . . 本文を読む
下記の文章は
北大史学 第46号 2006年11月30日に掲載された
ラファエル・アバ 「ある英国人が見た日本列島の先史文化ーーN. G. Munroと“Prehistoric Japan” (1908年)」のうち「第3章 Munro著 Prehistoric Japn 」をノートしたものである。
第3章のうち(1)、(2)節はマンロー書の背景説明なので省略する。
. . . 本文を読む
第7章のための準備
この1章だけで「先史時代の日本」を要約するのはとてもできませんが、「マンロー学」への入り口としてお読みいただければ幸いです。
ということで、「先史時代の日本」の要約を書き始めたところだったが、ふとしたことから、すごい論文を見つけてしまった。
それが先日あげた2020年10月23日 アバさんのマンロー論 である。
  . . . 本文を読む
第7章のための準備
この1章だけで「先史時代の日本」を要約するのはとてもできませんが、「マンロー学」への入り口としてお読みいただければ幸いです。
ということで、「先史時代の日本」の要約を書き始めたところだったが、ふとしたことから、すごい論文を見つけてしまった。
それが先日あげた2020年10月23日 アバさんのマンロー論 である。
  . . . 本文を読む
第7章 「先史時代の日本」 その1
この章と次の章は「先史時代の日本」の紹介です。
この章では主に文化の世界伝播に触れた序説について取り扱い、第8章では日本の先史時代について触れます。
この本の間違いや歴史的限界まで書き始めると大変なことになるので、彼の先見性、埋もれてしまった業績について簡単に述べます。
エジプト・メソポタミア文明
紀元前 . . . 本文を読む
第7章 「先史時代の日本」 その1
この章と次の章は「先史時代の日本」の紹介です。
この章では主に文化の世界伝播に触れた序説について取り扱い、第8章では日本の先史時代について触れます。
この本の間違いや歴史的限界まで書き始めると大変なことになるので、彼の先見性、埋もれてしまった業績について簡単に述べます。
エジプト・メソポタミア文明
紀元前 . . . 本文を読む
第8章 「先史時代の日本」 その2
前回は世界史から見た日本ということで、『序説」の壮大なパースペクティヴを紹介しましたが、今回は日本論に集中します。実はここのところが一番書きづらくて執筆を躊躇していました。
この章では日本に伝来してきた西方文化がどのように日本の先史時代を形成してきたのかについて触れていきます。
といっても先史 . . . 本文を読む
第9章 全国遺跡の行脚
1.マンロー史観の確認
「先史時代の日本」を書き上げたあと、関東大震災でほぼすべての財産を失うまでの生活は、考古学の現場を巡る旅の歴史でした。
それは彼の先史学の骨組み、すなわち基層としての縄文史(マンローの思いとしてはアイヌ史)→弥生史(思いとしては青銅史)→古墳史(思いとしては鉄器史)の三層構造を . . . 本文を読む
ハクスリー 年譜
Thomas Henry Huxley
鎖につながれて
正しい道を歩くくらいなら
私は間違いながらも
自由に歩く方を選ぶ。
1825年5月4日
西ロンドンで生まれる。貧乏人の子沢山の家系で、8人の子の中で下から2番目だった。
1842年(17歳) 奨学金を得て、チャリングクロス病院で医学の研究 . . . 本文を読む
第10章 そして二風谷へ
1.生活基盤が崩れる
このあたり私生活上はいろいろと事件が相次ぎました。それは1923年(大正12)になって一気に生活の破綻をもたらしました。モンロー60歳のことです。
8月はじめに義父の貿易商ファブルブラントが突然死しました。その3週間後に関東大震災が発生しました。横浜の自宅は全焼し、発掘資料や機材などは全滅してしま . . . 本文を読む
マンロー伝
第11章 二風谷、アイヌと向き合った12年
1.マンローと北海道
話はさかのぼりますが、マンローがアイヌに実際に接触するようになったのは、随分前のことです。
日本に来てまもなく、マンローは最初の北海道旅行に出ます。35歳のときのことです。このときはバチェラーの案内で白老のアイヌ村落を訪問しています。
. . . 本文を読む
第12章 マンローが遺したかったもの
1.マンローの研究目的
この章は、一つの推察に過ぎません。
60歳をはるかに超えたマンローが、最後の力を振り絞って北海道の寒村に飛び込み、最後はほとんど無一物になってまで求めたものはなんだったのか、それは今となっては推察するしかありません。
ただ、その波乱に満ちた生涯をあとづけていくと、日本古来の先住民であるアイヌ(縄文)人を文化史 . . . 本文を読む
コタンの星になった医師マンロー
一応マンローの生涯の最後まで書き上げました。かなり凸凹の構成になっています。これから章立てを改めようと思っています。
お読みいただければ分かるように、マンローの行動は当時としては相当破天荒なものでしたが、彼の学問的活動は決して奇をてらうようなものではなく、大変筋の通った立派なものでした。しかしその研究はほとんど英語で書かれたもので . . . 本文を読む