お久しぶりです。今日も体だけは元気な民間人。と申します。
今回紹介するのは、アニメ化、新アプリの始動など、年明けに大きな動きのある作品です。そのタイトルを「グリムノーツ」と言います。スマホゲームであり、正直ゲームとしては、アクションが苦手でRPGも好まない私はあまり好きなゲームではないのですが、何かに惹かれてずっと続けてきた作品です。そこで、私が惹かれてきた何かについて、ここで少しだけ整理したいと考え、考察を書くこととしました。
このタイトルの謳い文句は、「すべての世代の大人に送る、新解釈RPG」と言うものです。①としてある通り、今回はまず惹かれてきた何かの答えを語り、その後好きなストーリーと併せて、その意義を考察していくという趣向です。ですので、これ以降の投稿はタイトルにも書くと思いますが、当然ネタバレ注意となります、ご了承ください。どうかお付き合いいただければ幸いです。
誰もが知る物語、童話を題材にした作品であることは、この作品のタイトルから推して知るべきものと言えますが、この作品は決められた運命の中で生きる人々の葛藤と、決められなかった運命の中で生きる人々の葛藤を描いた物語であって、その本質は、謳い文句にある通り「すべての世代の大人」を対象とした、「新解釈」の物語である点につきます。つまり、決められた運命を繰り返す事や、童話そのものの意義以上の付加価値として、彼らの「個」としての在り方にこそその真髄を置く作品なのです。
さて、それでは、私にとっての「何か」をそろそろ話すべきかと存じますので、述べさせていただきます。
それは、「可能性」と「可動性」の物語であることです。単なる言いかえと言えるかもしれませんが、この言いかえは、かなり重要な意味を持たせています。
運命を決められていない者達を主人公とする本作は、現代に対するアンチテーゼとしてとる事もできるのですが、「どう生きる、何故生きる」という意味を問うように作られています。私達は運命を決められていません。そして、それが正しい事のように信じられてしまう社会に生きています。しかし、この社会には大きな欠陥があり、導く者の欠如、即ち、無数の可能性に逡巡させられるのです。これこそが、運命を定められていない主人公たちの葛藤であると同時に、私達へ向けられた共感の力なのです。
そして、もう一つの存在、つまり運命を決められているキャラクター達は、自分達が運命の役割の中でしか生きられない事に葛藤を持っていたり、それを当然と受け入れていたり、その中で「どう生きるか」を考えて生きています。つまり、彼らに与えられた世界の選択肢は「可動性」、どれほどの枝葉を伸ばせるのか、という問題です。彼らはその枝葉を伸ばす作業を、運命を与えられていない者達に比して強く確かな意志を持ちながら続けています。彼らには運命の自由の前に、思考の自由があり、そして、それ故に世界を壊してしまう危険性も内包しているのです。
即ち、彼らには運命を変えたいと願う意志も許され、それを運命に拒まれてしまうのです。これこそが「可動性」の限界、つまり無数に伸びて途方に暮れる「可能性」との大きな違いなのです。そして、その願いが彼らを「可能性」の世界へと誘おうとします。運命を変える存在、グリムノーツの言葉で言う、カオステラーへの変貌です。
さて、「可動性」の葛藤と「可能性」の葛藤どちらがより人間的でしょうか。 私はこの作品を通して、運命の書の存在にあこがれを抱いていたりします。運命さえ知れば、私は「可能性」に心を悩ます事も無いのですから。ですが、答えはどちらも人間的だと言えます。強いて言うならば、「可能性」がより現代に近く、「可動性」がより近代以前に近い人間性を持つと言えるでしょう。二つの交わらない思想を混ぜ込む事で、この作品には新たな意味が生まれます。即ち、個人の選び取りたいものが、「可能性」か「可動性」か、という問題です。これこそが、僕の惹かれる「何か」なのです。
さて、今回はこのあたりにしておきましょう。このゲームには多種多様なカオステラーが存在しますが、ここでは敢えて言及を避け、次の機会に回すこととします。
駄文長々と、失礼いたしました。
今回紹介するのは、アニメ化、新アプリの始動など、年明けに大きな動きのある作品です。そのタイトルを「グリムノーツ」と言います。スマホゲームであり、正直ゲームとしては、アクションが苦手でRPGも好まない私はあまり好きなゲームではないのですが、何かに惹かれてずっと続けてきた作品です。そこで、私が惹かれてきた何かについて、ここで少しだけ整理したいと考え、考察を書くこととしました。
このタイトルの謳い文句は、「すべての世代の大人に送る、新解釈RPG」と言うものです。①としてある通り、今回はまず惹かれてきた何かの答えを語り、その後好きなストーリーと併せて、その意義を考察していくという趣向です。ですので、これ以降の投稿はタイトルにも書くと思いますが、当然ネタバレ注意となります、ご了承ください。どうかお付き合いいただければ幸いです。
誰もが知る物語、童話を題材にした作品であることは、この作品のタイトルから推して知るべきものと言えますが、この作品は決められた運命の中で生きる人々の葛藤と、決められなかった運命の中で生きる人々の葛藤を描いた物語であって、その本質は、謳い文句にある通り「すべての世代の大人」を対象とした、「新解釈」の物語である点につきます。つまり、決められた運命を繰り返す事や、童話そのものの意義以上の付加価値として、彼らの「個」としての在り方にこそその真髄を置く作品なのです。
さて、それでは、私にとっての「何か」をそろそろ話すべきかと存じますので、述べさせていただきます。
それは、「可能性」と「可動性」の物語であることです。単なる言いかえと言えるかもしれませんが、この言いかえは、かなり重要な意味を持たせています。
運命を決められていない者達を主人公とする本作は、現代に対するアンチテーゼとしてとる事もできるのですが、「どう生きる、何故生きる」という意味を問うように作られています。私達は運命を決められていません。そして、それが正しい事のように信じられてしまう社会に生きています。しかし、この社会には大きな欠陥があり、導く者の欠如、即ち、無数の可能性に逡巡させられるのです。これこそが、運命を定められていない主人公たちの葛藤であると同時に、私達へ向けられた共感の力なのです。
そして、もう一つの存在、つまり運命を決められているキャラクター達は、自分達が運命の役割の中でしか生きられない事に葛藤を持っていたり、それを当然と受け入れていたり、その中で「どう生きるか」を考えて生きています。つまり、彼らに与えられた世界の選択肢は「可動性」、どれほどの枝葉を伸ばせるのか、という問題です。彼らはその枝葉を伸ばす作業を、運命を与えられていない者達に比して強く確かな意志を持ちながら続けています。彼らには運命の自由の前に、思考の自由があり、そして、それ故に世界を壊してしまう危険性も内包しているのです。
即ち、彼らには運命を変えたいと願う意志も許され、それを運命に拒まれてしまうのです。これこそが「可動性」の限界、つまり無数に伸びて途方に暮れる「可能性」との大きな違いなのです。そして、その願いが彼らを「可能性」の世界へと誘おうとします。運命を変える存在、グリムノーツの言葉で言う、カオステラーへの変貌です。
さて、「可動性」の葛藤と「可能性」の葛藤どちらがより人間的でしょうか。 私はこの作品を通して、運命の書の存在にあこがれを抱いていたりします。運命さえ知れば、私は「可能性」に心を悩ます事も無いのですから。ですが、答えはどちらも人間的だと言えます。強いて言うならば、「可能性」がより現代に近く、「可動性」がより近代以前に近い人間性を持つと言えるでしょう。二つの交わらない思想を混ぜ込む事で、この作品には新たな意味が生まれます。即ち、個人の選び取りたいものが、「可能性」か「可動性」か、という問題です。これこそが、僕の惹かれる「何か」なのです。
さて、今回はこのあたりにしておきましょう。このゲームには多種多様なカオステラーが存在しますが、ここでは敢えて言及を避け、次の機会に回すこととします。
駄文長々と、失礼いたしました。
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