僕だけがいない街、という作品を紹介します。原作は七巻までしか読んでいません(単行本で買うので)。
この作品はアニメ化、映画化、ノベライズと、大変多くの影響を与えていると思います。タイムリープものについてわたしは詳しくないので、その辺りの解説は省きたいな、と思います。ご了承ください。
僕だけがいない街のざっくりとした内容は、母親を殺されて、その容疑者となっている主人公が、「リバイバル」という現象によって、小学生までタイムスリップして、そのとき起きた連続児童殺人事件を防いでいくというものです。
主人公は、昔から「リバイバル」という現象によって1分から五分(自分の望む望まざるにかかわらず)自分だけ時間が巻き戻る経験をしています。それによって、違和感を解決して、事件や事故を防意できました。といっても、マイナスだった事情がプラスマイナスゼロになるというだけで、時々自分が不幸に巻き込まれる場合もあるそうです。
この中途半端な能力は、特殊能力を持った主人公というよりも、能力に振り回される主人公という印象を受けます。そんな主人公にとって、小学生の頃に起きた事件は、彼の性格に大きく関与しているようです。主人公は人に踏み込んでかかわることが怖く、自分の殻から抜け出せないという感覚に襲われています。一種の恐怖心(といっても、自分をさらけ出すことをしないという意味で)の中で葛藤する姿は、人間くささのようなものを感じます。いわば、「合わせてしまう自分」から抜け出せないままでいました。今までにない大規模なリバイバルを通して、主人公の人とのかかわり方に変化が生まれていきます。はじめは、かかわらざるを得ないから関わるという生き方をしてきましたが、徐々に自ら関わろうとするようになります。例えば、雛月加代と、例えば、小林賢也と……。
人間というのは社会的生物であり、勿論まったく違うものではありますが、蟻などと同様自分のテリトリーを形成して生きていくものです。その作り方の変化が、作品の一つの動力源になっているといえるでしょう。正直、殻を破って、人と関わることが必ずしもいいことではありません。歩調を合わせるという行為もまた、人間の本質であり、同志を集める人に関わることによって、その輪の中に入っていこうとすることは、争いの回避につながるともいえるでしょう。実際、私は個人的にはこのような生き方を良しとしています。ですが、仮面を被る行為というのは、本性が見えない人間を作るということです。いわば、広く浅く、関係を築くことだともいえます。作中で功を奏したこの変化は、いわば失ったことによって得てしまった、代償のようなものです。信用できる人になるべきか、うまく人ごみの中で生きていくべきか、というのは難しい問題ですね。
主人公は、結果的に三回同じ時間を繰り返すことになります。被害を未然に防ぐことに失敗するのです。彼がそれでも、もう一度リバイバルをしたいと願った理由とは、何なのでしょうか。一つは、主人公にとって、母親の存在はリバイバル前と後では大きく変わったことでしょう。自分から関係を断ってしまった母親との暖かい時間の尊さを感じたことです。もう一つは、関わってしまった雛月加代への後悔が、以前よりも強くなってしまったことだと思います。彼女が殺される未来を変えられなかったことで、より傷跡を治そうとする気持ちが強くなったのではないでしょうか。後々語っていきたいな、と思っていますが、この作品ではリバイバル直後と雛月を匿った際にかなり食事シーンの描写を強調しています。それを通して、子供の世界における、親の影響力の強さを強調しているように感じられます。主人公と雛月の行き方の変化も、おそらくここから来たものかなと思います。
人間が一番初めに所属する、最も小さい集団が、家族という領域です。しかも、幼少期にこの領域はかなり大きなウェイトを占めているもので、人の価値観を形成する重要な要素だといえます。しかし、この集団は強制的に所属させられるものであり、残念ながら選ぶことができません。集団には所属せざるを得ないという、人間の本来のあり方は、案外虚しいものなのです。要するに、親の教育は大事、ということでしょうか。無論、この理論からすれば、愛情の与えすぎにも注意が必要ですが。
最後に、主人公の集団への所属方法が変化したことについて、見解を述べたいな、と思います。ある意味主人公は、リバイバルを通して「形成する側」になったといえるのかもしれません。主人公の元々の本質は寧ろ、雛月に近いのかな、と思っています。その後の主人公が改めて経験するものによって、主人公はより周囲を気にするドライな人間関係の形成から、積極的なアプローチによる人間関係の形成へと、また、未来を変える必要性から、強制的に所属せざるを得ない人間関係の形成の経験を受けることになります。殻を破って、自分の見解を述べることで、人をひきつける側にシフトしたといえます。
うーん、ぶれまくってますね。申し訳ない。では、駄文長々と、失礼いたしました。
この作品はアニメ化、映画化、ノベライズと、大変多くの影響を与えていると思います。タイムリープものについてわたしは詳しくないので、その辺りの解説は省きたいな、と思います。ご了承ください。
僕だけがいない街のざっくりとした内容は、母親を殺されて、その容疑者となっている主人公が、「リバイバル」という現象によって、小学生までタイムスリップして、そのとき起きた連続児童殺人事件を防いでいくというものです。
主人公は、昔から「リバイバル」という現象によって1分から五分(自分の望む望まざるにかかわらず)自分だけ時間が巻き戻る経験をしています。それによって、違和感を解決して、事件や事故を防意できました。といっても、マイナスだった事情がプラスマイナスゼロになるというだけで、時々自分が不幸に巻き込まれる場合もあるそうです。
この中途半端な能力は、特殊能力を持った主人公というよりも、能力に振り回される主人公という印象を受けます。そんな主人公にとって、小学生の頃に起きた事件は、彼の性格に大きく関与しているようです。主人公は人に踏み込んでかかわることが怖く、自分の殻から抜け出せないという感覚に襲われています。一種の恐怖心(といっても、自分をさらけ出すことをしないという意味で)の中で葛藤する姿は、人間くささのようなものを感じます。いわば、「合わせてしまう自分」から抜け出せないままでいました。今までにない大規模なリバイバルを通して、主人公の人とのかかわり方に変化が生まれていきます。はじめは、かかわらざるを得ないから関わるという生き方をしてきましたが、徐々に自ら関わろうとするようになります。例えば、雛月加代と、例えば、小林賢也と……。
人間というのは社会的生物であり、勿論まったく違うものではありますが、蟻などと同様自分のテリトリーを形成して生きていくものです。その作り方の変化が、作品の一つの動力源になっているといえるでしょう。正直、殻を破って、人と関わることが必ずしもいいことではありません。歩調を合わせるという行為もまた、人間の本質であり、同志を集める人に関わることによって、その輪の中に入っていこうとすることは、争いの回避につながるともいえるでしょう。実際、私は個人的にはこのような生き方を良しとしています。ですが、仮面を被る行為というのは、本性が見えない人間を作るということです。いわば、広く浅く、関係を築くことだともいえます。作中で功を奏したこの変化は、いわば失ったことによって得てしまった、代償のようなものです。信用できる人になるべきか、うまく人ごみの中で生きていくべきか、というのは難しい問題ですね。
主人公は、結果的に三回同じ時間を繰り返すことになります。被害を未然に防ぐことに失敗するのです。彼がそれでも、もう一度リバイバルをしたいと願った理由とは、何なのでしょうか。一つは、主人公にとって、母親の存在はリバイバル前と後では大きく変わったことでしょう。自分から関係を断ってしまった母親との暖かい時間の尊さを感じたことです。もう一つは、関わってしまった雛月加代への後悔が、以前よりも強くなってしまったことだと思います。彼女が殺される未来を変えられなかったことで、より傷跡を治そうとする気持ちが強くなったのではないでしょうか。後々語っていきたいな、と思っていますが、この作品ではリバイバル直後と雛月を匿った際にかなり食事シーンの描写を強調しています。それを通して、子供の世界における、親の影響力の強さを強調しているように感じられます。主人公と雛月の行き方の変化も、おそらくここから来たものかなと思います。
人間が一番初めに所属する、最も小さい集団が、家族という領域です。しかも、幼少期にこの領域はかなり大きなウェイトを占めているもので、人の価値観を形成する重要な要素だといえます。しかし、この集団は強制的に所属させられるものであり、残念ながら選ぶことができません。集団には所属せざるを得ないという、人間の本来のあり方は、案外虚しいものなのです。要するに、親の教育は大事、ということでしょうか。無論、この理論からすれば、愛情の与えすぎにも注意が必要ですが。
最後に、主人公の集団への所属方法が変化したことについて、見解を述べたいな、と思います。ある意味主人公は、リバイバルを通して「形成する側」になったといえるのかもしれません。主人公の元々の本質は寧ろ、雛月に近いのかな、と思っています。その後の主人公が改めて経験するものによって、主人公はより周囲を気にするドライな人間関係の形成から、積極的なアプローチによる人間関係の形成へと、また、未来を変える必要性から、強制的に所属せざるを得ない人間関係の形成の経験を受けることになります。殻を破って、自分の見解を述べることで、人をひきつける側にシフトしたといえます。
うーん、ぶれまくってますね。申し訳ない。では、駄文長々と、失礼いたしました。
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