職案人

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女性の為の般若心経パートIX

2006年11月07日 | ブログ
前回で般若心経は終わりました。
如何でしょうか?
人間の本質がどう言うものか?見えて来たら良いのですが、

人間はいつも自己かあり、自分が特別な存在だと信じていますが、実は目の前の出来事を処理しているだけにしか過ぎません。そこには何ら、信念がなく、考えもない、有るのは欲だけ、そして、その欲に翻ろうされて苦を感じながら生きているだけです。

つまり、ゴキブリとなんら、変わりません。だから、「自己は存在しない、そして、この世はすべての物が関わり合って、存在している」と般若心経(仏)は言いたかったのでしょう。

では今回は般若心経の中で述べられた”十二因起”について解説します。
十二因起は釈迦が悟った直後、自らの苦を解決する道が正しかったかどうか、この十二支によって確認したものです。
人間が「苦」を感ずる原因を順に分析したもので、迷いの事実がどのようなものであるかを正しく知ることが、とりもなおさず悟りであるという意味で、この十二因起が迷の事実を示すものであるからである。

1.無明 
過去世の無始の煩悩。煩悩の根本が無明なので代表名とした。
2.行 
過去世の煩悩によって作った善悪の行業
3.識 
母胎中に受胎した刹那の五?(色受想行識で身体と精神との結合体としての個体)
4.名色 
胎中にあって身心の発育する位。
5.六処 
胎中にあって眼耳鼻舌身意の六つの感官が備わり、母体を出ようとする位。
6.触
生誕後しばらくの間のこと。事物に関して苦楽を識別することなく、ただ事物に触れて感知しようとする位。
7.受 
苦楽捨といわれて苦をいとい楽をよろこぶような心の生起する位で性を求めるまでの位をいう。
8.愛 
性欲を起こし、異性を求める位をいう。
9.取
自分の求めるもののために馳求する位。
10.有
未来の生活や環境を結果する行為によって業因を積集する位で人間一般の生存をいう。
11.生
前の業因によって結果した未来の生存をいう。
12.老死
生の刹那(=識)から受の位までを老死という。
生老死は前の識名色六処触受の五位をさすことになる。

・過去の因は無明・行
・現在の果であり、将来の因は識・名色・六処・触・受・愛・取・有
・将来の果は生・老死
過去現在未来が二重の因果関係になっているので、三世両重の因果・二世一重の十二因縁と呼んでいる。

さて、老死とは、
老いて死んでゆく人間にとっての厳粛な事実をいい、生もまた生まれることである。
しかし、それは単なる生命現象としてではなく、老死によって無常苦が語られ、また生においても苦が語られている。そうでなければ、釈迦の成道に何らの関係もない。

したがって、老や死は苦悩の具体的事実である。
それは無常苦の中を行き続ける自己を見詰めることであり、喜と楽による幸福の儚さを物語るものであり、人間生存自身の無常苦を意味している。

この点で、生も単なる生命現象としてではなく、無常苦の起因、根本として求められたものである。  老死がなぜあるか、それは生まれてきたからだ、では無常苦の解決にはならない。生も苦、老死も苦、人生そのものが苦と、ここに語られる。

生老死がなぜ苦なのか、毎日の生活が生老死に苦を感ぜずにはおれないような生活だからである。その生活こそ生老死を苦とする根本であり、それを有という。
生活の行為が生老死を苦と感じさせるのはなぜかというと、常に執着をもった生活をしているからである。

とくに、自分自身と自分の所有へのとらわれが、その理由であり、取による有といわれる。その取こそ愛によるのである。

この愛について、有愛・非有愛・欲愛の三を説いている。
有愛とは
生きたいと生存に願いをかける心、
非有愛とは
有愛がはばまれる時、生を呪うこと。
欲愛とは
有愛・非有愛が外部にむかっておこることである。

自分の生を願い、また呪い、他人の生を願い、また呪うことである。生命を願い、また呪う。このように、矛盾したものが同居している生命であるところに人間苦の根本がある。この生命の秘密を明らかにすることこそ、人生苦の克服の道である。

これは、単に生命の否定ではない。その生命の深淵を自覚しなければならない。
それこそ受・触・六処・名色・識によって示される心の構造であり、その意識をまちがわせる無明とその行とである。

すなわち、無明を克服し、すべてを一体と自覚せしめる智慧こそ、人生苦を克服する働きをもつものである。

今日はここまで、終りに致しましょう。



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