あの日、昨年の3.11 私は会社にいました。
いつもは地震があると、物が落ちてこない場所で、同僚と様子をみているのですが
あの日は揺れが、ただ事でないのに驚き、同僚と二人でスリッパのまま外に飛び出しました。
あちこちの建物から人々が同じように、道路へ出てきていました。
立っていられない位の揺れで私はしゃがみこみましたが、腹這いになっている人もいました。
とうとう宮城県沖地震がきたんだ、いやこれは地球の終わりなのかと思うほどの強く長い揺れでした。
当地は震度6強でした。
内陸なので津波ということは考えたことはないのですが
携帯のワンセグでは、大津波警報をアナウンサーが繰り返し言っていました。
地震がおさまると同時に仙台の会社にいる夫から電話が入りました。
お互いの無事を確認し合い、夫はおそらく仙台からしばらく帰れないかもと言っていました。
(ところが翌日の午後、会社の人たちとタクシーを乗り合って夫は帰宅しました。)
その後、家路につく途中の公衆電話から
千葉県にいる二男の携帯にやっと連絡がとれました。
彼から市原市のコンビナート爆発を目の前で見たと
これから津波から避難するからと聞き
これは関東までの広範囲で、大変なことになっている.
改めて災害の大きさに私は怖ろしさで、震えていました。
あの地震直後の日々の事を思い出すと、とてもここで書けない程の体験、思いをしました。
写真を撮る気持ちの余裕もありませんでした。
陸前高田の知人はまだ行方不明です。
5月に、流された家の跡地にお花をお供えしたいと思い、行ってみましたが
家がどこにあったかもわからない位、何もかも流されて何もありませんでした。
ただがれきの山ばかりでした。
遠くに希望のあの1本松が見えます。
地震後、名古屋在中の息子さんから何か手がかりがないか
と私に何度も電話がありました。
近所の人の話では地震直後、家の周囲をうろうろしていたとか。
彼はひとりで、認知症で高齢のお母さんの介護をされていました。
会うとおふくろがとか、長男がとか言っていました。
家族思いの人でした。
優しい人だから、逃げ遅れたのかなと
そのおばあちゃんは流された家の中からみつかりました。
今日は鎮魂の祈りの日です。
犠牲になった方々のご冥福をお祈りいたします。
そして、優しかったKさんが早くみつかりますように。