ここで古典作品の二三を検討することで、短歌における芸術と哲学の関係について考察してみたい。
まず『伊勢物語』の中からいくつかの作品を取りあげてみる。
第九十七段 四十の賀の歌
むかし、堀川のおほいもうち君と申す、いまそかりけり。四十の賀、九条の家にてせられける日、中将なりける翁、
櫻花ちりかひ曇れ老ひらくの来むというなる道まがうがに
この和歌の中にも多くの事柄が語られている。「堀川のおほいもうち君」という人物が、「むかし」という言葉によって、歴史的に存在した人物として記録されている。この太政大臣が藤原基経であること、そして、基経の四十歳の誕生を祝う祝賀会が九条通にあった基経の屋敷で開かれていた事実も歴史的な背景を探ることによって明らかになっている。しかし、和歌、短歌としては、そうした個別具体的な歴史的な真実についての知識や認識を和歌の鑑賞の必須要件としているわけではない。
確かにこの和歌には、「太政大臣」という平安時代の官職制度や、中将という地位にあった在原業平とおぼしき人物など、これらが短歌の背景であり舞台となった歴史的な事実も記録されているし、またこの短歌を手がかりにさまざまな歴史的な真実を探ることもできる。
しかし、言うまでもなく和歌によって詠われている主題は、そうした個別具体的な事実を超越したところに成立する。それは観念的に昇華された普遍的な真実であり、そこに芸術としての意義もある。この短歌においても、桜花の散り舞い落ちる道という具体的な美的な形象のうちに「老い」への道程を断ち切ることを願う人間的な真実が詠い込まれている。
一個の独立した芸術ジャンルとしての短歌は、三十一文字の裡に言い現された美と真実の統合のうちに、そのとき歌人が揺り動かされた心への実存的な共感に、その価値を見出すのだろう。もちろん、それが時代と個人のその歴史的な記録性としての価値をもつとしても、それは従属的な副次的なものである。
次の歌は、儀礼的な環境で詠まれた先の四十の賀の歌よりは、真率な感情が詠われている。
第百二十五段(伊勢物語)
むかし 男わづらいて 心地死ぬべくおぼえければ
つひに行く道とはかねて聞きしかどきのふけふとは思はざりしを
ここでは、人間にとって絶対的な制約である死が歌の主題になっており、それがひとりの人間に対してどのように臨んだかを和歌の詠唱という形式において明らかにされている。哲学が散文的に概念的に死の意義を論じるのに対して、短歌においては直観的に感覚的に訴える点において、そこから受ける印象は哲学以上に強烈であるといえ、また概念的ではないだけ大衆的でもある。
この歌には死が何らかの具体的な表象において描かれてはおらず、もっぱら死という普遍的な人間の真実に「きのうけふ」直面した人間の心情が率直に詠われているだけである。
業平はもちろん自然発生的な感情に駆り立てられてこの和歌を詠ったのであって、現代的な意味で死を哲学的な自覚において作歌したとは考えられない。
しかし、もし「死」が植物、動物をはじめあらゆる生命として存在の、したがって同時に人間としての究極的な原理の一つで絶対的な限界であるとするなら、業平によって詠まれたとされるこの短歌の主題は、まぎれもなく哲学と共通している。
死は確かに個別具体的な「事実」ではあるけれども、その事実も、またその際に人間にもたらす精神的な「感動」も、それが「短歌」という形式において作られることによって、死のもつ意義を感情的にまた反省的に捉えることができる。それは言語をもつことによって本来的に「観念的」な動物となった人間のみに可能なことである。人間の感情はすでに言語を介在させたものになっている。言語をもたない動物は「死」を反省的に捉えることはできない。
すでにここでは短歌が芸術と哲学の接点において詠われていることは明らかである。万葉歌人にはまだ死をこのように反省的に捉える段階には達していなかった。実際「死」というような哲学の主題ともなりうる事柄が、業平によって象徴的に感情的に詠われはじめたことに短歌の発展が見られるといえる。
ただ短歌においてはそうした抽象的な主題が、感覚的に感情的に表象することに意義がありまたそこに限界もある。個別芸術としての短歌はそれに満足するしかないが、しかし、業平の時代とは異なって、はるかに深刻で分析的な意識を持った現代人が歌を作るときには、そこにより自覚的に哲学的な主題を短歌に設定することもできるだろう。
西行の『山家集』の中には次の歌がある。
六波羅太政入道持経者千人集めて、津の国和田と申す所にて供養侍りけり。やがてそのついでに万燈会しけり。夜更くるままに、燈火の消えけるを、各々点しつぎけるを見て
862 消えぬべき 法の光の 燈火を かかぐる和田の 泊まりなりけり
西行や紫式部の和歌は、もはや万葉歌人のように天真爛漫のものではありえない。彼らの歌には当時の時代思潮である仏教思想が浸透している。仏教の観念を意識した人間によって詠まれている。その意味で歌人もまた時代と民族の子である。時代の不安に仏教に救いを求めて出家した西行の意識が、この和歌の中にも色濃く反映している。
当時の没落しつつあった貴族社会に流布していた末法思想の不安な世相の中で、万燈会に点された灯火が今にも消え入るように揺らいでいる。和田の泊まりの海面は、そのおびただしい灯火を映している。それを見た西行の不安な心象風景が、美しく妖しく幻想的に詠まれている。
この短歌の詞書きには、この歌の詠まれた背景がくわしく語られている。それによって私たちはこの和歌の詠われた背景をくわしく知ることによって、この和歌の鑑賞においてより深く味わうことも可能になる。
時代の混乱と不安の中におかれたこの現世で、西行が出会い見つめた美しい光景の一瞬がこのように詠まれることによって、一個の短歌の作品として象徴的で普遍的な独自の存在価値をもった創作として記録されている。
西行は平安期末の京都を中心とした日本という特殊な環境に生きたのであり、それが彼の運命であったのだが、それは西行に限らず、どんな人間においても、その生存は特定の地理的な場所と歴史的な時間の制約にある自然的および社会的な環境の下に生きざるをえない。場所と時間は人間がその生活を営む舞台である。
人間は時代と空間に規定されている。個人はすべて時代と民族の子である。そして、短歌はそのような運命におかれた人間の生存の記録としての意義ももちうる。西行のこの歌はそれを示している。
これらの三つの作品によっても、伝統的な従来の短歌が、今日でいう哲学的な主題をどのように取りあげているかを見ることができる。とりわけ西行の「消えぬべき」などの短歌は、芸術と哲学の境界の上に咲いた美しい花といえる。
最後にもう一つ言い置かれなければならないことは、あるいは、言うまでもないことかもしれないが、西行であれ業平であれ、彼らの和歌に彼らの置かれた社会的な地位や身分が反映されていることである。
当時の社会の中では彼らは貴族階級に上流階層に属し、彼ら自身は生産的労働に直接的に従事しなくてもよい身分にあったらしいことである。生活に余裕がなければ、彼らのような歌もまた詠まれることはなかった。その意味でも、彼らの詠唱はこの上ない贅沢の上に成り立った産物であるということができる。