万葉考(1)
天皇遊猟蒲生野時額田王作歌
二〇 あかねさす 紫野逝き 標野行き
野守は見ずや 君が袖振る
額田王
あかね草の植わった、紫野を過ぎて、私たちは御門の猟場にまで来ましたが
野を見張る番人は見とがめないでしょうか、あなたが私に向かって袖を振るのを。
皇太子答御歌 明日香宮御宇天皇諡曰天武天皇
二一 紫の にほえる妹を にくくあらば
人妻ゆゑに われ恋ひめやも
天武天皇
紫の色の匂うような、高貴な美しさを秘めたあなたを、もし憎らしく思うのであれば
人の妻であるあなたを、私が恋しく思うでしょうか。
日々の生活に追われていると、万葉集をひもとくなどということは、なかなか思いもつかない。それでも、何かの折りに、昔に学校などで習った万葉集のいくつかの歌がふと頭をよぎって思い出されることがある。
私たちが生活のなかで繰り広げるさまざまな行動や、そこで出会うさまざまな体験、またそれらを通じて湧き起こってくる感情や思念が、かって過去において経験したことと重なることも多々ある。それを記憶が教えるとき、そうした現象は「デジャブ」とか「既視感」とも言われる。
過去の経験といっても、それは必ずしも私たちの現実に体験したことばかりとは限らない。単なる個人的な経験を越えるものであることも少なくない。詩歌、演劇その他の芸術を通じて疑似体験したこと、そうした無数の「経験」をも記憶に留めてもいるからである。それは学校教育などに典型的に見られるような、言語などと象徴的に結びついた文化環境でもある。
日々の暮らしのなかで引き起こされる情感は、すべて個別的で特殊な情感であるとしても、同時にそれらはまた、古代人の体験したものと同じ体験、同じ表象、そこから湧き出る同じ感情であることも多い。その思念や情感は現代人にも共通する普遍的なものでありうる。だからこそ万葉集などに記録された感情や思念は、今に生きる私たちの記憶や表象において蘇る。さもなければ、一五〇〇年も前の詩歌に共感を覚えるはずはない。
男と女が存在していて、互いに面識があり、それどころか袖を振りあって自らの存在を相手に知らしめようとするほどに、お互いに親近感を持っている。それは単なる親近感以上の恋愛感情にまで深まっている。
二〇番の「あかねさす」の歌には「天皇の蒲生野におん狩りせられし時に、額田王の詠める歌」という前書きが付せられている。このことからも、この和歌の背景には帝の狩りの行幸のあったことがわかる。しかし、この和歌が果たして実際の狩りの途中に詠まれたものか、あるいは、その後の宴の中かどこかで、狩りの記憶を留めながら詠まれたのかどうかを実証することはむずかしいと思う。しかし、いずれにしても、狩りの御幸のさなかに交わされた男と女の感情の交流がこの歌の主題であり、その折りの繊細な情感が和歌として象徴化されているという真実には変わりがない。
額田王が天智天皇と大海人皇子の二人の男性から実際に愛されたかどうかは、この歌の本質には係わらない。ここでは身分の差を超えて、世の中の男と女の常として、二人の異性から同時に思いを寄せられることのあったことさえわかればいい。それはいつでもどこでも、誰にでも普遍的に共有される感情でもある。しかし、それが身分や近親関係その他の社会的な禁忌に触れる場合、その感情の抑制はいっそう深刻なものとなる。
個人の自然的で自由な欲望も、社会という共同性の中に生きるという宿命のなかで、それが往々にして悲劇的な結末に至るということも少なくない。この歌に続く天武天皇の「紫の・・・」の応答歌の中に「人妻ゆゑに」という一句があることによって、紛れもなく疑う余地のないものとなっている。
額田王のこの詠唱は、そのような状況におかれた女性の不安と歓び、動揺と怖れなど入り混ざった複雑で微妙で繊細な、矛盾しあう感情の美しい表出となっている。額田王のこの不安は、やがてこの歌を詠じた大海人皇子(後の天武天皇)が、兄である天智天皇の崩御ののち、その皇子であり甥でもあった大友皇子と皇位をめぐって争い、敗れた大友の皇子は自害することになる。額田王の詠唱に見られる不安なおののきも、672年に起きた古代の内乱、「壬申の乱」と無関係とは言えないかもしれない。
万葉集に収めれた和歌は古代の日本人の思考や感情の記録を留めるもので、それらのより純粋な始源としての価値は揺るがない。仏教や儒教など人為的な道徳感情や形而上学にもいまだ冒されてはおらず、日本人の意識にそれらが深く浸透する以前の、素朴な古代人の純情が保存されている。貴族たちの技巧と洗練で作歌された新古今和歌集などの詠唱と比べれば、それは歴然としている。万葉集は天真爛漫で素朴な感情が滾々と湧き出ずる清流の源泉ともいえる。
現代人の思考や感情は複雑で紆余曲折があって、それが二重化された自意識の大人の産物であるとすれば、万葉人のそれは、まだ少年のように一面的で、それだけに単純で素朴である。また言語としての日本語の純粋さや原点を思い起こすときにも、万葉集は常に立ち還るべき原風景であり故郷でもある。また、日本の古代史探究の上でも興味は尽きない。