海、丹後神崎海水浴場
昨年の夏から、年に少なくとも一度は海に行こうと決心していたのに、今年も雑用に追われている間に、瞬く間にこの夏も終ろうとしていることに気づいた。どうやら今年も海水浴の機会も失ってしまったようだ。
静岡の遠州浜に近いところに暮していたことがある。海がすぐ近かったので、朝な夕な、遠く沖合の太平洋の水平線を行き交う船を眺めながら、潮風に吹 かれながら、夕陽や朝日を浴びて砂浜や黒松林をよく散策した。潮風の香りの記憶と、砂浜にうち寄せる浪に足裏の洗われる心地よさをその時に覚えてから、京 都に戻ってきても未だにいつまでも海を忘れられないでいる。
このまま思い立たなければ今年の夏も機会を失ってしまいそうで、平日に時間の空いているこの日に決心して海を見に行くことにした。それも前日である。太平洋岸の広大な水平線を眺めたいけれども、京都からの日帰りにしか時間に余裕がないとすれば、日本海側に出るしかない。
地図で適当な海水浴場を探したが、今年はまず交通の便も無難そうな若狭湾沿いの丹後神崎海水浴場を選んだ。
朝の間に雑用を済ませて出た。食事も摂っていなっかったので、京都駅の構内にあった食堂で蕎麦で昼食を済ませた。十三:二五発の特急5号城之崎行きで、とにかく出発した。
電車の窓から眺める田圃の少し色づき始めた丹波の景色も、夏の終わりというよりもむしろ秋の兆しを思わせる。出発も遅れたので、現地の小さな古い駅舎に着いた頃はもうすっかり昼下がりで、海水浴を十分に楽しむためにはやはり遅すぎる。
駅前の並木道に鳴いていた蝉の声もおとなしく、すでに夏の盛りではない。駅近くの案内板に従ってまっすぐに浜に向かう。遙か昔に兄たちと一緒にここ に泳ぎに来たことがあるかもしれない。途中ふとそんな既視感にとらえられる。かなり歩いて公園らしき松林が見え、そこを抜けると海が見えた。この海水浴場 は予想したより砂浜は広く長い。そして遠く小高い青い山にその砂浜は切られて尽きている。思ったよりも美しい浜辺だった。
さすがにお盆を過ぎた海には、海水浴客はいなかった。浜辺に沿って設営された海の家にも海水浴客はおらず、業者らしい男や夫婦が、脚立を引出してカナヅチで、トタン屋根や柱などを取り外したりしていた。今年の夏も終わったのだ。
海辺にはモーターボートを楽しんでいるらしい行楽客が一組だけ遠くに小さく見えただけである。波は少し高いようだった。できれば海で泳ぎたかった が、今年は思い立ったときにはすでに時期も外れて遅く諦めざるを得なかった。 来年はきっと日本海か太平洋岸か海に出て泳ごうと思う。
護岸のコンクリートの上に腰を下ろし、しばらく海と波と遠く沖合に霞んで浮かぶ小さな島を眺めていた。うち寄せる波は美しく見ていて厭きない。山並みの緑とよく晴れた空が美しい色彩の調和を見せている。
泳ぐことも出来ないなら、せめて砂浜の感触を足に楽しもうと、靴を脱ぎ裸足になって砂浜に降りた。そして、さっき遠く小さく見えたモーターボート遊びをしている一行の様子が手に取るように見える地点に近くまで歩いた。
そこから長い砂浜を折り返した。日差しを今度は顔にまともに浴びることになった。日に焼けると思いながら帽子も脱いで、今年の行く夏を惜しむつもり で眩しい陽の光を全身に浴びながら、うち寄せる波と戯れながら、足の裏に砂と潮を踏みしめてゆっくりと長い砂浜を戻った。リュックを置き去りにしたまま の、海の家の前のあの古びた旗がすっかり遠く小さく見える。
Carole serrat Un Apres-Midi,La Mer