女流詩人
昔、東京の茗荷谷にしばらく住んでいたことがある。近くに小石川植物園もあった。そこからはお茶の水も近かった。お茶の水には聖橋があり、この聖橋を渡ったところにJRの駅がある。
昔のことで今では記憶も薄れてしまったけれど、この駅の近くに一軒の立ち飲み居酒屋(あるいは寿司屋だったか)があった。春らしい宵方、滅多に入らないこの店で私がたまたま夕食を済ませようとしてこの店に入ったとき、私の隣で食事をしていたのがこの人だった。
ど ういうきっかけで話すようになったのかは覚えていない。私はたぶん鮨か何かを注文していたかと思う。彼女はそのときお酒を飲んでいたのかどうかも覚えてい ない。どういう話をしたのかも覚えていない。ただ、そのときの記憶を、おそらく二十年以上経った今もはっきり覚えているのは、まったくの初対面であったの に彼女が「いい顔しているね」などと言いながら私の顔を手で撫でまわしたからだ。
おそらく彼女はいくらか酔っていたのかもしれない。もうはるか昔のこと で、自分のことなどはおそらく彼女の方には記憶にもないに違いないだろうけれど。偶然に隣り合わせただけで、それから二度と会うこともない。
そのとき彼女は名刺もくれた。その名刺は今も探せばあると思う。水上 紅さんと言った。詩人という肩書きが書かれていたと思う。名前が印象深くて今も忘れてはいない。せっかく名刺をいただいたのに、その後ふたたび会うこともなかった。申し訳ないけれども彼女の詩集もまだ読んでいない。
これまで私が詩人と称する人に出会ったのは、後にも先にも彼女一人だった。貴重な出会いだったのにと思う。その後東京を離れてからは再び戻ることはない。けれど彼女は今も詩人として東京で暮らされていることと思う。
Nathan Milstein plays Vitali Chaconne