紅葉紀行(3)待賢門院璋子――青女の滝
それでも庭園の事跡に、わずかながらも待賢門院璋子の面影を偲ぶことはできるのか。とくに御堂の北東に木立の影に宝篋印塔をめぐって静かに端座している供養仏のたたずまいと仏足石を眺めたとき、藤原璋子の信仰の名残を見たような気がした。
そこから少し南に歩いたところに青女の滝がある。名は滝でこそあれ、私が訪れたこのときには、流れ落ちる水はなく枯れていた。梅雨や夏の雨の季節にこの滝が蘇るのかそれはわからない。この滝が待賢門院の意思によって造られたことは確かで、それは璋子の当時の関係者の日記にも残されている。その後彼女の意向に添って、さらに滝の高さを増し加えられたことなども記録されている。青女の滝の水涸れの跡が、涙の枯れ果てるまで泣いた待賢門院や西行の面影のように思えた。
秋深く芹なき野辺の滝枯れは恋ひしき人の涙の跡しも
さらに池に添って歩いてゆくと歌碑が目に付いた。見ると西行のではなく待賢門院堀河の和歌が刻まれていた。
ながからむ心もしらず黒髪のみだれて今朝は物をこそ思へ(千載和歌集)
堀河の局が仁和寺に住んでいたことは山家集にも記録されている。往時この法金剛院も仁和寺の敷地の一部とされていたからこのあたりに暮らしていたのかもしれない。和歌自体は待賢門院とは直接関係はなく、後朝の思いに乱れる堀河の局の気持ちを詠ったものである。
いつどこで詠まれたのかわからないが、西行は次の歌を詠んでいる。
1033 なにとなく芹と聞くこそあはれなれ摘みけむ人の心知られて
これは美しい后の姿に恋心を抱いた殿守りが、ふたたびその姿を見たいと思って御簾近くに芹を供えたという故事によるもので、この歌からも、また西行や堀河の局たちが待賢門院を追悼して交わした和歌などからもわかるように、中宮璋子に仕えた人々のあいだには共通する思慕の情があった。
西方浄土への道案内として西行を頼りとしていたという堀河の局に、その甲斐が本当にあったのかどうか、もし生きているなら訊ねてみたくて詠んだ歌。
黒髪の思ひみだれしきぬぎぬにたのみしひとのしるべ有りしか
さらに池の廻りを巡って行く。池の端に立って紅葉の向こうに御堂を眺める。夏にはこの池も美しい蓮の花で埋め尽くされるらしいけれども、秋の深まりつつある今はその面影はない。嵯峨菊の彩りが木陰に覗かれるだけである。
池の畔に植えられた山椒薔薇やナナカマドや黒椿、紺蝋梅などの木々の名前をその標識によって記憶しながら歩いた。紫式部も池に風情を添えていた。すでに葉を落とした沙羅双樹が、薄く曇った空に梢の枝先を突き刺すようにして立っていた。
南門の傍に小さな鐘楼が残されている。これも往時を偲ばせるものかもしれないけれども、青女の滝がわずかに小さく発掘されて残されているように、待賢門院の生きた頃の古図に描かれてある寝殿造りの御所は失われてないし、五重の塔も南御堂もない。かっては池もはるかに広く舟で渡ったという。
池の紅葉を振り返り見ながら歩いていると、背中に誰かとぶつかった。振り返ると異国の、きれいな女性が微笑んでいる。灰色の眼の柔和な表情で立っていた。嵐山などとは異なってほとんど人影もないこの古寺をひとりで訪ねて来たらしい。彼女の清楚な面影を思って詠む。
夏過ぎてなほ咲きのこる外つ国の青き瞳の撫子の花
御堂の中に入れなかったこともあり、西行や堀河の局たちの面影を髣髴させるようなものはなかった。そして保元の乱で兄の崇徳院が讃岐に流された後、妹君の統子内親王、上西門院は1160年にこの地に隠棲したらしい。その面影も、庭先のどこを見回してもない。確かに待賢門院璋子は皇子や内親王の不遇を知ることなく亡くなった。しかし、それを幸いと言えるはずもない。
鎌倉幕府を開いた源頼朝も若き日には蔵人としてこの統子内親王に仕えていたという。その縁で上西門院統子に仕えた女房たちにも鎌倉幕府に縁のある者もいるという。また、不遇のうちに晩年を過ごしたらしいこの上西門院統子は、母に似て容姿が美しく、弟宮の雅仁親王(後の後白河天皇)と法華経読誦の早さを競い合ったりしたことが当時の歴史書、今鏡や愚管抄などにも記録されている。愚管抄の作者である大僧正慈円は、西行や藤原俊成などとも交流のあった歌人でもある。
今となっては法金剛院の境内に西行や待賢門院璋子らしき面影を偲ぶことのできるものはない。過去の歴史の中に消え去ったこれらの人々を蘇らせるためには、平家物語や保元、平治物語などの軍記物、また今鏡、愚管抄、栄花物語などの歴史物語をあらためて繙くしかないようである。また、そこに転変する時代の狭間に生きた人々の哄笑も落涙もともども映し描かれているようである。
駐車場を出ると来た道を戻り、仁和寺の前を南に向かい、嵐電の御室駅の前を過ぎて帰る。