【キャンディーの秘密】
久しぶりに、ローズにこってりとしぼられた午後だった。
身体は疲労困憊の状態にあったが、どうにか自分の個人財産の最低の権限だけは死守した。
最近、少年の無駄遣いに気をもんでいたらしいローズは、大人になるまで、それを管理してやろうと云いだしたのだ。
《中央》から毎月振りこまれる「手当て」は、他の誰でもないレイ自身の財産だ。
いくら子供だからって他人に管理されるなんてまっぴらだった。
ただ、ローズが主張したいことはもっともだったので、めにあまる無駄遣いは自重する約束をした。
ぐったりしながらランドリールームへ入っていったレイは、そこにいたヴィオラを見て再び頭のなかが真っ白になった。
少女は、今まさに、あの『ブルーベリーキャンディー』を口にふくむ瞬間だったのだ。
「やめろ、ヴィオラ」
思わず頭をスパーンとやってしまった。
お陰でキャンディーは口には入らなかったが、ヴィオラは放心状態だ。
「どこで、これを」
「ここに落ちていたのよ。なんで怒るの」
「怒ってはいない。ただ、これは、絶対に食べたらダメだ」
だってもうひとつしか残っていない。もう一回、今度はしくじらないで試すつもりだった。
「…クラウンベリーおじさんからもらったんでしょう」
ヴィオラは勘の鋭いところがあった。「秘密のキャンディー」
レイはぎくりとして、床に落ちた碧い石を拾おうとした。
ヴィオラの方が素早かった。
「返せよ、ヴィオラ」
「ダメ。秘密を共有しましょう」
「なんだって」
「でないと、ママに告げ口するわよ。それとも《中央》にタレこんじゃおうかな」
「そういう口のきき方はやめなさい」
「偉そうに」
ヴィオラはどうしても返してくれそうになかった。レイは潔く負けを認めることにした。
「判ったよ、キャンディーの秘密を教えてあげる」
ふたりはランドリールームに鍵をかけ、床に座って向かい合った。
ローズはお昼寝の時間だ。今回は邪魔が入ることもないだろう。
「いいか、ヴィオラ」
レイは改まった口調で切り出した。
「この世には、子供のぼくたちが知らない快楽があるらしい」
ヴィオラは真面目にうなづいている。
「大人になれば運のいいひとは、そういう体験を通じて知ることは可能なようだ」
「そういう体験って」
「それについては、後日、日をあらためて説明するとして」
うまい具合にごまかすものだ。
「とにかく、このキャンディーを食べると、厄介な手順を踏むことなしに簡単にその快楽を体験できるらしいんだ」
「カイラクってなに」
「いい気分になるってことだよ」
ヴィオラにはもったいないな、とレイは思った。
味覚がイカレテイル人間に、高級な菓子を与えるようなものだ。
だけど、女の子がこれを使ったら、どうなるんだろう…
しかも、ふたりで同時に使ったら?
ますます予想がつかなくなる。
「ヴィオラ、どうしても、知りたい?」
「もちろん」
「やめるなら今のうち」
「やめない」
急に弱気になったレイを、ヴィオラは笑った。
「なんなのよ。別に死ぬわけじゃないんでしょ」 (誰に似てこんなに大雑把なんだろう)
「お互いひどい醜態をさらすことになるかも知れないぜ」
「貴方の醜態なんて、見慣れているわ」
「…ヴィオラが泡を吹いて白目をむいたら、写真におさめてやろう」
レイはペンナイフでキャンディーをふたつに割った。ほぼ平等だ。
今回はアルコールはやめにしよう。
大体、半分ずつでは、どれだけ効果を期待できるか判らない。
ヴィオラは不思議そうに、キャンディーを手の上に転がしてながめた。
「覚悟はいいか」
「いいよ」
せーの、でタイミングを合わせて、ふたりは同時にキャンディーを口に含んだ。
ブルーベリーの味がする。
ふたりは無言だった。
家の中は静まり返っている。小鳥が庭で啼き交わしていた。
レイはふと、クラウンベリーおじさんに想いを馳せた。
端正な顔立ちの、声も頭もいいエリート職員。
彼の魅力に気づいているのは、自分だけだろうか。
《総管理局》は、正真正銘のエリート集団である。
現実主義の、地面にしっかりと足のついた生き方をするあの人種は、この国では絶滅の危機に瀕している。
云わせてもらうなら、《研究院》なんて、バカと気狂いの巣窟だ。
こちらの人種は逆に、いくら排除しても自然増殖して、いっこうに減らない。
国の将来を憂慮するひとも少なくない。
(ちなみに《医務局》はまったく雲の上の存在だし、《軍部》なんて、論外中の論外)
彼はいつも憂いをこめた眸でぼくを見る。
頭はよくても、基本的に彼は弱い立場の人間なんだろう。
保護の対象になるような霊力も持っていない。
管理能力だけが問われ、使えなくなれば国は簡単に彼を地面に埋めるだろう。
殺しても死なないような、ラベンダーとは違うんだ。
ぼくが護ってやれないものだろうか。あの見目麗しい、お兄様を…。
つらつらと甘い妄想に浸っていたレイの前で、ヴィオラはゆっくりと上体を傾けた。
そのまま冷たい床に仰臥する。
あまりの静けさに、すぐには何が起こったのか理解できなかった。
「…ヴィオラ」
少女の呼吸は停止していた。
「どうしたんだ、ヴィオラ」
いつかカルパントラが云っていた。
敵はどこにいるか判らない、と。
なにを基準に、味方を探せと云うのだろう。
眼がきれいだったから。それでは理由としてはあまりにもおそまつだ。
とても、哀しそうな眼をしていたから…? それも赦されないことだろうか。
「…ヴィオラ!」
この時になって、はじめて少年の頭を支配した恐怖と疑問。
《中央》は、刺客を送りこんだのか?
しかし、ヴィオラの脈は元気いっぱいに律動していた。
呆然としているレイに、少女はこらえきれなくなって吹きだした。
「迫真の演技だった?」
もう声も出ない。
「貴方って、すぐに騙されるのね」
ヴィオラは身をよじって笑っている。そして止めの一言を云い放った。
「これ、ただのブルーベリーキャンディーだよね」
レイはうっすらと泪を浮かべている。
ヴィオラはどこかうっとりとしながら云った。
「おいしい」
「騙された」
少年は、がっくりと肩を落とした。
【歴史の歪み】に続く
久しぶりに、ローズにこってりとしぼられた午後だった。
身体は疲労困憊の状態にあったが、どうにか自分の個人財産の最低の権限だけは死守した。
最近、少年の無駄遣いに気をもんでいたらしいローズは、大人になるまで、それを管理してやろうと云いだしたのだ。
《中央》から毎月振りこまれる「手当て」は、他の誰でもないレイ自身の財産だ。
いくら子供だからって他人に管理されるなんてまっぴらだった。
ただ、ローズが主張したいことはもっともだったので、めにあまる無駄遣いは自重する約束をした。
ぐったりしながらランドリールームへ入っていったレイは、そこにいたヴィオラを見て再び頭のなかが真っ白になった。
少女は、今まさに、あの『ブルーベリーキャンディー』を口にふくむ瞬間だったのだ。
「やめろ、ヴィオラ」
思わず頭をスパーンとやってしまった。
お陰でキャンディーは口には入らなかったが、ヴィオラは放心状態だ。
「どこで、これを」
「ここに落ちていたのよ。なんで怒るの」
「怒ってはいない。ただ、これは、絶対に食べたらダメだ」
だってもうひとつしか残っていない。もう一回、今度はしくじらないで試すつもりだった。
「…クラウンベリーおじさんからもらったんでしょう」
ヴィオラは勘の鋭いところがあった。「秘密のキャンディー」
レイはぎくりとして、床に落ちた碧い石を拾おうとした。
ヴィオラの方が素早かった。
「返せよ、ヴィオラ」
「ダメ。秘密を共有しましょう」
「なんだって」
「でないと、ママに告げ口するわよ。それとも《中央》にタレこんじゃおうかな」
「そういう口のきき方はやめなさい」
「偉そうに」
ヴィオラはどうしても返してくれそうになかった。レイは潔く負けを認めることにした。
「判ったよ、キャンディーの秘密を教えてあげる」
ふたりはランドリールームに鍵をかけ、床に座って向かい合った。
ローズはお昼寝の時間だ。今回は邪魔が入ることもないだろう。
「いいか、ヴィオラ」
レイは改まった口調で切り出した。
「この世には、子供のぼくたちが知らない快楽があるらしい」
ヴィオラは真面目にうなづいている。
「大人になれば運のいいひとは、そういう体験を通じて知ることは可能なようだ」
「そういう体験って」
「それについては、後日、日をあらためて説明するとして」
うまい具合にごまかすものだ。
「とにかく、このキャンディーを食べると、厄介な手順を踏むことなしに簡単にその快楽を体験できるらしいんだ」
「カイラクってなに」
「いい気分になるってことだよ」
ヴィオラにはもったいないな、とレイは思った。
味覚がイカレテイル人間に、高級な菓子を与えるようなものだ。
だけど、女の子がこれを使ったら、どうなるんだろう…
しかも、ふたりで同時に使ったら?
ますます予想がつかなくなる。
「ヴィオラ、どうしても、知りたい?」
「もちろん」
「やめるなら今のうち」
「やめない」
急に弱気になったレイを、ヴィオラは笑った。
「なんなのよ。別に死ぬわけじゃないんでしょ」 (誰に似てこんなに大雑把なんだろう)
「お互いひどい醜態をさらすことになるかも知れないぜ」
「貴方の醜態なんて、見慣れているわ」
「…ヴィオラが泡を吹いて白目をむいたら、写真におさめてやろう」
レイはペンナイフでキャンディーをふたつに割った。ほぼ平等だ。
今回はアルコールはやめにしよう。
大体、半分ずつでは、どれだけ効果を期待できるか判らない。
ヴィオラは不思議そうに、キャンディーを手の上に転がしてながめた。
「覚悟はいいか」
「いいよ」
せーの、でタイミングを合わせて、ふたりは同時にキャンディーを口に含んだ。
ブルーベリーの味がする。
ふたりは無言だった。
家の中は静まり返っている。小鳥が庭で啼き交わしていた。
レイはふと、クラウンベリーおじさんに想いを馳せた。
端正な顔立ちの、声も頭もいいエリート職員。
彼の魅力に気づいているのは、自分だけだろうか。
《総管理局》は、正真正銘のエリート集団である。
現実主義の、地面にしっかりと足のついた生き方をするあの人種は、この国では絶滅の危機に瀕している。
云わせてもらうなら、《研究院》なんて、バカと気狂いの巣窟だ。
こちらの人種は逆に、いくら排除しても自然増殖して、いっこうに減らない。
国の将来を憂慮するひとも少なくない。
(ちなみに《医務局》はまったく雲の上の存在だし、《軍部》なんて、論外中の論外)
彼はいつも憂いをこめた眸でぼくを見る。
頭はよくても、基本的に彼は弱い立場の人間なんだろう。
保護の対象になるような霊力も持っていない。
管理能力だけが問われ、使えなくなれば国は簡単に彼を地面に埋めるだろう。
殺しても死なないような、ラベンダーとは違うんだ。
ぼくが護ってやれないものだろうか。あの見目麗しい、お兄様を…。
つらつらと甘い妄想に浸っていたレイの前で、ヴィオラはゆっくりと上体を傾けた。
そのまま冷たい床に仰臥する。
あまりの静けさに、すぐには何が起こったのか理解できなかった。
「…ヴィオラ」
少女の呼吸は停止していた。
「どうしたんだ、ヴィオラ」
いつかカルパントラが云っていた。
敵はどこにいるか判らない、と。
なにを基準に、味方を探せと云うのだろう。
眼がきれいだったから。それでは理由としてはあまりにもおそまつだ。
とても、哀しそうな眼をしていたから…? それも赦されないことだろうか。
「…ヴィオラ!」
この時になって、はじめて少年の頭を支配した恐怖と疑問。
《中央》は、刺客を送りこんだのか?
しかし、ヴィオラの脈は元気いっぱいに律動していた。
呆然としているレイに、少女はこらえきれなくなって吹きだした。
「迫真の演技だった?」
もう声も出ない。
「貴方って、すぐに騙されるのね」
ヴィオラは身をよじって笑っている。そして止めの一言を云い放った。
「これ、ただのブルーベリーキャンディーだよね」
レイはうっすらと泪を浮かべている。
ヴィオラはどこかうっとりとしながら云った。
「おいしい」
「騙された」
少年は、がっくりと肩を落とした。
【歴史の歪み】に続く