築城当時は海津城と称していました。
永禄2年(1559年)に武田晴信(信玄)が山本勘助に命じて築城開始し翌年完成しました。
武田氏による信濃侵攻後、北信濃の国衆である清野氏の館を接収して、
川中島地域(川中島の戦い)の拠点として城郭整備しました。
天正10年(1582年)3月に甲斐武田氏が滅亡すると、織田家家臣の森長可の居城となりましたが、6月の本能寺の変で織田信長が横死すると、上杉領まで侵攻していた森長可は撤退し、更に安堵領地の北信濃四郡を放棄し旧領(金山)へ帰還してしまいました。
撤退した森長可の後を追ってきた上杉景勝が奪取し、北信濃四郡を支配しました。
慶長3年(1598年)に豊臣秀吉の命で会津に加増移封された上杉景勝の後は、豊臣家家臣の田丸直昌が城主となりました。
慶長5年(1600年)に森忠政が入封し待城と改名、慶長8年(1603年)には松平忠輝が入封。
慶長15年(1610年)に松平忠輝は越後高田藩主に任命され、家老の花井吉成が城代となり領内整備に尽力しました。
元和2年(1616年)に松平忠輝は改易となり、松平忠昌が入封し松城と改名しました。元和5年(1619年)に酒井忠勝が入封しました。
そして、
元和8年(1622年)に真田信之(真田昌幸の長男で信繁(幸村)の兄。関ヶ原の戦い後に信幸から改名)が入封し、以降明治2年(1869年)の版籍奉還までの247年もの間、真田家が城主となりました。
正徳元年(1717年)に松代城と改名。明治5年(1872年)に廃城となりました。
2004年(平成16年)に太鼓門、堀、石垣、土塁などが復元されました。
現在の城祉周辺は、東西に住宅街があり、北側は田畑(元は千曲川・千曲川の氾濫原)が広がり上信越道から眺めることができます。
北側から見ると耕作地の中にポツンとあるように見えます。
東南は長野電鉄旧松代駅の線路敷(駐車場になるのかな?)が広がっています。南は城下町です。
武田氏流の築城術が良く見られた武田氏築城の代表的な城の一つです。
丸馬出しや三日月堀が配されていました。
本丸を囲うようにコの字型に二の丸を配する輪郭式の平城です。
本丸は総石垣で囲われています。
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正面(大手)の太鼓門と本丸堀に掛かる太鼓門前橋(木橋)
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裏(搦手)の北不明門付近
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東側から
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南の櫓門
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橋詰門(高麗門式)
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北の櫓門
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北不明門(高麗門式)
復元された門・続塀は全て板葺の屋根です。
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本丸北西の隅にある戌亥櫓台(天守台)
近世初期頃には天守(なのであろうか)相当の櫓があった場所です。
他の3か所の隅には二重の櫓があったようです。
松代城は江戸時代に火災・水害・地震に合いその都度再建され、新たな郭・堀を配しました。
また、御殿は本丸から花の丸、更には城外へと移転し建てられました。
元治元年(1864年)城外に新御殿(真田邸)としてが建てられました。
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第9代藩主真田幸教の時に完成。安政2年(1855年)に開校しました。
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約250の藩校の内、往時の建物がほぼ完全な形で現存している事は極めて稀なことのようです。
明治6年(1873年)以降、昭和40年代まで小学校(初等教育の場)として使われていました。
以上、松代城についてでした。
詳しい事を知りたい方は、長野市松代町にお越しください。
永禄2年(1559年)に武田晴信(信玄)が山本勘助に命じて築城開始し翌年完成しました。
武田氏による信濃侵攻後、北信濃の国衆である清野氏の館を接収して、
川中島地域(川中島の戦い)の拠点として城郭整備しました。
天正10年(1582年)3月に甲斐武田氏が滅亡すると、織田家家臣の森長可の居城となりましたが、6月の本能寺の変で織田信長が横死すると、上杉領まで侵攻していた森長可は撤退し、更に安堵領地の北信濃四郡を放棄し旧領(金山)へ帰還してしまいました。
撤退した森長可の後を追ってきた上杉景勝が奪取し、北信濃四郡を支配しました。
慶長3年(1598年)に豊臣秀吉の命で会津に加増移封された上杉景勝の後は、豊臣家家臣の田丸直昌が城主となりました。
慶長5年(1600年)に森忠政が入封し待城と改名、慶長8年(1603年)には松平忠輝が入封。
慶長15年(1610年)に松平忠輝は越後高田藩主に任命され、家老の花井吉成が城代となり領内整備に尽力しました。
元和2年(1616年)に松平忠輝は改易となり、松平忠昌が入封し松城と改名しました。元和5年(1619年)に酒井忠勝が入封しました。
そして、
元和8年(1622年)に真田信之(真田昌幸の長男で信繁(幸村)の兄。関ヶ原の戦い後に信幸から改名)が入封し、以降明治2年(1869年)の版籍奉還までの247年もの間、真田家が城主となりました。
正徳元年(1717年)に松代城と改名。明治5年(1872年)に廃城となりました。
2004年(平成16年)に太鼓門、堀、石垣、土塁などが復元されました。
現在の城祉周辺は、東西に住宅街があり、北側は田畑(元は千曲川・千曲川の氾濫原)が広がり上信越道から眺めることができます。
北側から見ると耕作地の中にポツンとあるように見えます。
東南は長野電鉄旧松代駅の線路敷(駐車場になるのかな?)が広がっています。南は城下町です。
武田氏流の築城術が良く見られた武田氏築城の代表的な城の一つです。
丸馬出しや三日月堀が配されていました。
本丸を囲うようにコの字型に二の丸を配する輪郭式の平城です。
本丸は総石垣で囲われています。
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正面(大手)の太鼓門と本丸堀に掛かる太鼓門前橋(木橋)
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裏(搦手)の北不明門付近
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東側から
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南の櫓門
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橋詰門(高麗門式)
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北の櫓門
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北不明門(高麗門式)
復元された門・続塀は全て板葺の屋根です。
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本丸北西の隅にある戌亥櫓台(天守台)
近世初期頃には天守(なのであろうか)相当の櫓があった場所です。
他の3か所の隅には二重の櫓があったようです。
松代城は江戸時代に火災・水害・地震に合いその都度再建され、新たな郭・堀を配しました。
また、御殿は本丸から花の丸、更には城外へと移転し建てられました。
元治元年(1864年)城外に新御殿(真田邸)としてが建てられました。
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第9代藩主真田幸教の時に完成。安政2年(1855年)に開校しました。
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約250の藩校の内、往時の建物がほぼ完全な形で現存している事は極めて稀なことのようです。
明治6年(1873年)以降、昭和40年代まで小学校(初等教育の場)として使われていました。
以上、松代城についてでした。
詳しい事を知りたい方は、長野市松代町にお越しください。