話の種

新聞やテレビ、雑誌などで、興味深かった記事や内容についての備忘録、感想、考察

オスの悲しき性(さが)

2024-09-13 14:56:17 | 話の種

「オスの悲しき性(さが)」

24年6月17日付朝日新聞の社会面に次のような記事があった。

〇「死んだふりから目覚めるオス メスがいれば危険より繁殖を優先 昆虫の生存戦略に迫る」

「敵から身を守るか、子孫を残すか――。究極の選択を迫られたとき、動物はどっちを選ぶのか。琉球大学農学部協力研究員の日室千尋さん(昆虫生態学)らのチームは、アリモドキゾウムシという昆虫を観察し、その生存戦略に迫った。

アリモドキゾウムシは、体長約6ミリで、クモに襲われたり、鳥についばまれたりすると触角を折りたたみ、硬直して「死んだふり」をして身を守ろうとすることが知られている。日室さんは、死んだふりをしたアリモドキゾウムシのオスとメスそれぞれ20匹に、別の個体を近づけたら目覚めるまでの時間はどう変わるのか、1匹ずつ実験をした。

ピンセットで挟んで死んだふりをさせたアリモドキゾウムシのオスを容器にいれると、何もしない場合、10分以内に半数は目覚めるが、残り半数は20分以上も死んだふりを続けた。2時間ほどたってようやく動き出すものもいた。
ただ、死んだふりをしたオスの近くに、性フェロモンを出す成熟したメスをいれると、3分以内に約半数、10分以内に約8割が目覚めた。触角をパタパタと動かし、メスを探しているそぶりも見られた。成熟前のメスには反応しなかった。

また、人工的に合成したメスの性フェロモンを容器内に置いた場合は、フェロモンの濃度が高かったためか、数十秒以内に約9割が目覚め、2分以内には全ての個体が動き出した。
一方、死んだふりをしたメスに、別のオスやメスを近づけても、目覚めるまでの時間は何もしない場合とほとんど変わらなかった。

日室さんは「オスは、襲われるリスクと繁殖をてんびんにかけ、メスがいれば危険を冒してでも『死んだふりしている場合じゃない』と繁殖を優先することがわかった」と話す。動物の生存戦略を考えるうえで、重要な視点だという。「中にはメスを同じ容器にいれても、20分以上目覚めない、こわがりなオスも1割弱いて、性格が出ていた点も面白い」

科学誌に論文が掲載された。(藤波優)」


種族保存の本能というのは死をも超越するということだろうか。
これはなにもアリモドキゾウムシに限ったことではなく、他の動物ひいては人間社会に於いても見られることでもある。一匹のメスを巡ってオス同士が、人間でいえば一人の女性を巡って男同士が死闘を繰り広げるということは間々あることである。これに対して、メスあるいは女性の方が淡泊であるということも同じようである。

ただ生物学的に見て、オス、男の場合は種族保存というよりは自分の遺伝子を広く残すということが主眼のようである。
(キリスト教がもたらした一夫一婦制というのは自然の摂理、種族保存の法則に反するものだが、このことについてはここでは触れないでおく。ただ何を言いたいかというと、男が浮気をするのは仕方がないということ。)

 

コメント

文章を削る

2024-09-06 10:11:38 | 話の種

「文章を削る」


朝日新聞の「天声人語」(2024/5/19)に次のような記事があった。

「短編小説の巨匠逝く」
「平凡にみえた女性たちの日常が、ちょっとした偶然から変わり始める。物語は想像を超えて展開し、その結末は深い余韻を残す。カナダ人作家のアリス・マンローさんは間違いなく、短編小説の巨匠だった。何十年もの時間軸を行き来しても数十ページで見事に完結させてしまう▼「チェーホフの後継者」とも呼ばれたマンローさんが、92歳で亡くなった。カナダの小さな町で生まれ、大学に進学したが、奨学金が切れて2年で中退。4人の娘を産み、1人を亡くし、離婚と再婚を経験しながら書き続けた▼作品の魅力は隙のない筋立てと、簡潔な文章にある。どうすればこんな風に書けるのかと、インタビューを片端から読んだことがあった。毎日朝から必死に書き、書くと削りに削るという。脱稿後も修正し続けた▼ノーベル文学賞を受賞したのは82歳の時で、すでに引退を発表していた。体調が悪く授賞式には出席できず、代わりに録画映像が流された。執筆で最もつらいことを問われ、「読み返して、いかにひどいかを思い知るとき」と答えた▼「ジャック・ランダ・ホテル」は、村上春樹さんが編訳した短編集に収録されている。主人公は、若い女性に走った恋人を追って豪州まで来たが、意外な結末を迎える。村上さんも解説で、「こういうのってやはり芸だよなあと感心してしまう」と書いた▼あのマンローさんでも苦悶(くもん)して書き続け、比類なき「芸」の域まで達した。ああ書けないとすぐに音を上げる自分が、ただ情けない。」


何が印象に残ったかと言うと「文章を削りに削る」ということ。
当方、頭が悪いのか欲張りなのか、どうも文章が長くなってしまいがちになる。

例えばこの「話の種」だが、あれやこれや書いてるうちに、一つのテーマでもかなりの量になってしまう。
正確を記すために、また当方のメモとしての意味もあり、裏付けとなる事柄や関連事項、説明などを付け加えているので、これは仕方ないと自分を納得させている。
しかしそれとは別に、文章自体が長く締まりのない焦点がぼやけたものになり、結局私はどの部分を言いたいのかと思うことはしばしばある。
文章を削るということは逆に含みを持たせるということで、むしろ文章に厚みが増すことになるのではと思えてきた。

これらを考えると、新聞や雑誌でコラムなどを書いている人たちは流石だと思う。

この「話の種」を含め、文章は言いたいことを絞って、出来るだけ短く簡潔に。

 

コメント

心遣いと感謝の気持ち

2024-09-05 13:57:21 | 話の種

「心遣いと感謝の気持ち」

朝日新聞の投書欄から2件。

〇(ひととき)「心づかいの再配達」(2024年7月9日)(女性77歳)

「土曜の夕方、家に帰るとポストに郵便局からの不在通知票が入っていました。宅配ボックスを置いていますが、なま物なので持ち帰ったとありました。当日の受付時間が過ぎていたので、次の日の午前中に再配達を依頼しました。
夜になってチャイムが鳴ると、郵便局の方です。「お花なので、今日中がいいかと思って、持ってきました」とのことでした。
昨年亡くなった夫に宛てて、娘が「父の日に」と、ヒマワリの花を贈ってくれたのでした。今年の父の日は、ちょうど月命日にもあたっていました。
予想しないことに驚いてしまって。郵便局の方の心づかいと娘の優しさに、思わず涙が出てとまりませんでした。
配達の方にお礼が言いたくて、翌日郵便局にファクスを送ると、上司という方からお電話がありました。みなさんの仕事の励みになると言ってくださって、また涙がとまりませんでした。
人の心の優しさにふれて、それを伝えたくて書いています。私も訪問介護という、多くの方とふれあう仕事を20年しています。夫は君の天職だねと、いつも言ってくれていました。心も仕事も、大切にしていきたいと思います。」


〇(声)「カスハラ生まぬ「ありがとう」」(2024年6月16日)(女性65歳)

「買い物をしたとき、お礼を言う店員に「ありがとうございます」と私は必ず言っている。良い商品が手に入ったこと、そして、接客への感謝の気持ちだ。丁寧なお礼をいただくと気持ちよい。バスやタクシーの運転手にも降車時に言う。「無事な運転、ありがとう」と感謝を込めて。
子供のときから親の背中をみて身につけた習慣。塾でも子供たちは当たり前のように「ありがとう」という言葉を使っていた。
最近、カスタマーハラスメントが問題となっている。日頃から消費する側も、当たり前のように「ありがとう」と感謝する習慣があれば、感情的に怒りをぶつけることはなくなるのではないかと思う。
セルフレジが登場して、お礼を言う機会が少なくなってしまったのが残念だ。お礼は人の心を和ませる魔法の言葉。ふれあいが薄くなれば、ぎすぎすした世の中になってしまうのでは、と心配だ。」


当方がよく見ているネットの海外の投稿サイトで、日本人は「他人に対する敬意がすごい」、「周囲への配慮、人を気遣う姿は美しい」という外国人のコメントがよく出てくる。
確かに日本人の他者に対する思いやり、気働きというのは、外国人に比べたら秀でているかもしれない。

ひとときの投稿「心づかいの再配達」には私も思わず涙腺を刺激された。琴線に触れたということだろうか。
心遣いのやり取りというのは美しいものである。

声欄の投稿だが、私もよくありがとうという言葉を使うようにしている。
前にもどこかで書いたと思うが、日本人は職業で人を差別することはほとんどなく、誰にでも対等、同等の立場で接するのが普通である。ただ投稿者も書いているように、近年店員などに対して横柄な態度をとる輩が散見されるようになったのもまた確かであろう。
スーパーのレジなどでは、店員さんが商品をスキャンしたあと別のかごに移し替えているが、その手際の良さに、私は意識的に「きれいに並べているね」「さすがにプロだね」などと声をかけることがある。そうすると向こうもニコッとして「仕事ですから」「慣れですね」などと返してくる。ただそれだけだがこのような会話は心地よい。

昔からある日本人の良き心持、気遣いというのは無くしたくないものである。

 

コメント

女性の浴衣姿について

2024-09-04 17:36:44 | 話の種

「女性の浴衣姿について」

当方が近年、女性の浴衣姿に魅力を感じていることについては、「おわら風の盆」「山鹿灯篭祭り」の項でも述べた通りだが、これは私がそれだけ年を取ったということだろう思っていた。
しかし日本の浴衣というのは年齢、性別、国籍を問わず人々を魅了するもののようである。

近年観光地などでは浴衣姿の外国人の女性を多く見かけるようになったが、浴衣のどこが彼女たちを引き付けているのだろうとのこれまでの疑問もあり、また偶々昨日の「パンドラの憂鬱」(海外の人々の投稿サイト)では浴衣の機能についての話題で盛り上がっていたので、ここで一度浴衣についてまとめてみようと思う。

浴衣の起源は、平安時代に入浴時に着られていた「湯帷子(ゆかたびら)」とされているが、その後、綿素材で汗を吸い風通しの良いことから湯上がりに着られる着衣となり、就寝時に寝間着として用いられるようになる。そして、江戸時代の中期に入り、今のような着方に近い、ちょっとした外出着にも着られるようになったもの。

(参考)
[浴衣(Wikipedia)]
*[浴衣の歴史(NPO法人日本ゆかた文化協会)]

では浴衣の魅力とは何だろうか。

アジアでは中国のチーパオ(チャイナドレス)やベトナムのアオザイなども有名で魅力的だが、これらは女性のスタイル(曲線美)を強調したもの。これに対して浴衣(着物)は寸胴である。どこに魅力があるのだろうか。

浴衣(着物)と同様、アオザイは外出着としても着用されているが、チーパオや韓国のチマチョゴリは外出着としてはほとんど着られることはない。この違いはどうしてだろうか。

これらについてネットでチェックしたところ、次のような説明があった。

*[浴衣の良いところは?(浴衣のココが凄い!)]
・体型を気にせず着られる(着物は肩やお尻など身体の表面の1番高いところに合わせるため、身体のラインが強調されず体型が分かりにくい)
・姿勢が良くなる(帯を身に着けているため、自然と背筋が伸びる)
・風の通りが良く涼しい
・汗を掻いても気持ちが悪くない

*[浴衣を着るメリットは?(浴衣を着る5つのメリット(魅力)を紹介)]
・綿・麻・ポリエステルを素材に使い着心地が良く涼しく着られる
・補正して着付けるので身体のラインが出にくく露出を抑えられる
・涼しい印象の色・柄が豊富にあるので見た目でも暑さを和らげられる
・浴衣を着た立ち姿や所作だけでも大人っぽい印象を与えられる
・和のイメージや色・柄の彩りを加えて日常と変わらない景色も華やぐ

どうやら、浴衣(着物)が寸胴であることは逆説的に女性にとっては長所となっているようである。

上記で述べられていることは実際に浴衣を着る女性目線からのものだが、では男性目線からはどうだろうか。
これについては次のようなコメントがあった。

*「どんなところが好き? 男性目線で語る女性の浴衣の魅力とは?」(「カナウ」)
https://www.the-uranai.jp/column/charm/yukata-cute/

[浴衣は……見せない! 見えない! 奥ゆかしい女性の品性が引き立つ]
「古臭いことを言いますが、日本人の古い感覚では、肌を見せる女性は品がないとされてきました。
その感覚はよもや現代人には全くないのかもしれませんが、女性の浴衣姿は品性が引き立ち、それが魅力となるのではないでしょうか。
例えば、いつも元気にはじけている印象の女性が浴衣を正統に着こなせば、それだけでかなりのギャップが生まれますよね。
それは、浴衣や着物の持つイメージが現代の女性の日常からはかけ離れているからで、浴衣姿の女性に男性が魅力を感じるのも、昔からある「女性らしさ」や「品性」を感じるためでしょう。」

*「浴衣姿に色気を感じる!? 男心がそそられるトコロ5選(「マイナビウーマン」)」
https://woman.mynavi.jp/article/160807-36/

うなじ
・「髪をかき上げたときのうなじにドキドキする」
・「振り向いたとき。うなじから顔にかけてのラインが色っぽいから」
・「結わえた髪型。首の後ろが少し覗くところ」
足元
・「足元がチラッと見えているところに色っぽさを感じる」
・「生足が見えそうで見えない感じが色っぽい」
・「歩きにくいため小股で歩くときに見える足首」

しなやかな動き
・「浴衣ではしなやかな仕草が色っぽいと思う」
・「動きが制限される分、所作がよどみなくて品を感じる」

歩き方
・「足元を気にしながら、小さい歩幅で歩いているのがすごくきれいだと思う」
・「小股でゆっくり歩く。奥ゆかしい大人の色気が醸し出されているから」
・「大股で歩けずに小走りな感じになるところ」

あおぐしぐさ
・「暑いときに胸元をパタパタしてチラッと見える胸元」
・「暑いときに少し袖を振る姿。普通の服より袖口が広い分、そういった仕草が色っぽく感じるから」

勿論女性はこのような男性目線は十分に意識しており、「普段と違う自分を人に見せたい」という気持ちがあるようである。

ところで、「パンドラの憂鬱」だが、これは浴衣の袂(たもと)に、ポケットのように様々な物を入れられる事に外国人が仰天、感心したというもので、下記にサイトを貼り付けておく。

*「ようやく日本の謎が解けた!」 日本の伝統衣装の隠れた機能に外国人女性が驚愕
http://pandora11.com/blog-entry-5076.html

 

コメント

母親とは

2024-09-04 08:44:09 | 話の種

「母親とは」

〇(天声人語)チンゲンサイを障害者と作る(2024年8月26日)

「母親が、我が子の履歴書を持って訪ねてきた。障害のある息子を雇ってほしいという。「うちでは無理です」と断っても、彼女はあきらめなかった。「給料はいらないですから、働かせてください」。そう言って、何度も、何度も頭を下げた▼「驚きました」。浜松市で農園を営む鈴木厚志さん(59)は、30年ほど前の出来事を振り返る。「当時の私にとって、働くとはお金を稼ぐこと。何だか、自分が薄っぺらく感じました」▼福祉に携わる友人に相談すると、言われた。「お母さんは信じているんだよ。この世に無駄な人間はいない。息子にも役割がある。どこかに彼を必要とする人がいると信じているんだ」▼それがきっかけだった。最初は恐る恐る実習生を受け入れた。何か起こるぞと身構えたが、杞憂(きゆう)に終わる。時間はかかるが、彼らの仕事は丁寧だった。助け合いの言葉が職場に行き交い、農園の雰囲気もよくなったという▼鈴木さんは思った。人を仕事に合わせるのではなく、仕事を人に合わせよう。人手を減らすための機械化はいらない。ゆっくりでいい。ほかの農家が敬遠する「手間のかかる野菜」をみんなで一緒に作ろう。「個人戦でなく、団体戦で勝てばいいのだから」。いまや農業法人「京丸園」で働く104人のうち、24人が障害者である▼農園で作られたミニ青梗(チンゲン)菜を頂き、ゆがいて食べてみた。じっくり、たっぷり、いろんな人の手をかけた緑の葉は歯応えがあって、それでいてどこか、やさしい味だった。」


当方当初「給料はいらないから働かせてくれ」という意味が分からなかったが、福祉関係の人の言葉を見て痛く感じるものがあった。「この世に無駄な人間はいない。どこかに彼を必要とする人がいる。」という母親の信念と、「息子に生まれてきたことを後悔して欲しくない、自信を持たせ、生きていることの喜びを与えてあげたい」という母親の必死な思い、愛情の深さである。

一般的に「女は諦めが悪く、男は諦めるのが早い」というが、男の私だったら、「息子に無理をさせなくても、もうそのままでいいではないか」と思うところだろう。

女性の強さというものを改めて知らされた思いである。

 

コメント

母の気持ち(ひととき)

2024-09-03 12:32:28 | 話の種

「母の気持ち」(ひととき)

朝日新聞の「ひととき」蘭に次のような投稿があった。

「母の気持ち」(2024年7月2日)(大学生 女性18歳)

「上京して3カ月が過ぎた。「いってらっしゃい」がないまま家を出ることに、少し慣れてきた。しかし、家事の大変さには慣れない。洗濯、料理、洗い物。家にいても、全く休んだ気がしない。
私の母は、これをパートと並行して長い間続けていたのだ。家事について、一度も母から不満をこぼされたことはない。それどころか、私が手伝っただけで「ありがとう」と言ってくれるのだ。
母は、いつも私に好きなことをしてほしいと言う。欲しいものを我慢して、毎日働いて、大学まで行かせてくれた。自分のためじゃないのに、なんでここまでできるのか。「お母さんになったらわかるよ」と笑いながら言っていた。
母は、いつも私が元気なだけで幸せだと言う。してほしいことを聞いても、いつもそう返ってくる。上京してから「たまには帰ってきてね」と言われるようになった。そんなことでいいのかと言うと、これもまた「お母さんになったらわかるよ」と言われた。
母の気持ちをわかる日は来るのだろうか。未来のことなんて考えられないくらい今を生きるのに精いっぱいだけど、大好きな母の自慢の娘になれるように、私は今日もがんばる。」

この投稿について渡辺えりさんは次のようにコメントしている。

「渡辺えりの心に残る「ひととき」(2024年8月27日)」
「思い出を胸に 年重ねわかること」

「この原稿を書いている8月15日の終戦記念日、山形の介護施設に入所している母を見舞った。認知症で赤ん坊のように笑う母は、私と弟を育てるために働き通しだった。
東京都の大学生、○○さん(18)の「母の気持ち」(7月2日)はまるで18歳の私が書いたようだ。この先、母になることのない私は、「お母さんになったらわかるよ」という言葉を永遠に抱えながら、生きていくしかない。」

先に記載した「母親の面影(男の「ひといき」)」に続き、母親についての記述となった。
昨今「母性」とか「母性本能」ということ(言葉)に否定的な意見も散見されるようになったが、そのような人たちはこれらの投稿を見てどのように感じるのだろうか。
母親の無償の愛情というのは理屈ではなく、またそれに対する私たち子供の感謝の念というのは、性別、年齢を問わず私たちが常に抱き続ける思いだと思うのだが。

 

コメント

母親の面影(男のひといき)

2024-09-03 12:26:34 | 話の種

「母親の面影」(男のひといき)

朝日新聞に「男のひといき」というコラムがあるが、次のような投稿があった。

これを読んでの感じ方、思うことは人それぞれだと思うが、投稿者の人たちと同年代の私としては、この年になって、私が子供のころひたすら家事や私たちの世話にいそしんでいた母親の姿をよく思い出すようになった。私の母は57才にして亡くなってしまったが、投稿者の方も述べているように「母には感謝しかない」という思いである。


「吹くたびに」(2024年5月12日)(男性74歳)

「鼻歌を歌う際、年を取ったせいか、高音が出にくくなってきた。音程も安定しない。人前で歌うわけではないので構わないのだが、やはり面白くない。歌えないのなら楽器でもと思い、いつでもどこでも使えるハーモニカを買った。
少年時代の話にさかのぼる。父は炭鉱で働いていた。しかし、石炭から石油へのエネルギー革命で、炭鉱は次第に景気が悪くなっていた。それに追い打ちをかけるように坑内の事故で父が亡くなり、わが家は貧乏のどん底に陥った。母は男ばかり4人の子を育てるために懸命に働いた。
私は少しでも家計の負担を減らすべく、それまでもらっていたわずかな小遣いを辞退した。だが、どうしても欲しいものがあった。ハーモニカだ。母に何度もせがんで、やっと買ってもらえた。走るようにして家に持ち帰ったが、何かとんでもないことをしてしまったのではないかと後悔することしきり。
結局、一度も唇を当てることなく販売店に行って返品した。母は驚いていたが、何も言わなかった。あれから60年余り。母はすでにこの世にいないが、ハーモニカを吹くたびに母の顔が浮かんでくる。」


「似た境遇に驚き」(2024年5月19日)(男性75歳)

「12日付で掲載された「吹くたびに」と題した「男のひといき」を読んで、よく似た境遇で育った者として、本当に驚いた。
私は、男ばかり4人兄弟の末弟で、父は私が4歳のときに病死した。残された母は、取得していた助産婦の資格を生かして勤め始めた。宿直もある職場で、苦労は想像を絶するものがあったと思う。
現在90歳になる長兄は、大学卒業後に家計を支えてくれた。私は高校生のときから奨学金を利用させていただいたし、ほかの兄弟も奨学金を利用できて、大変ありがたかった。苦労を重ねた分、晩年の母が、通常の暮らしを「大名の暮らし」と言っていたことを思い出す。
その母が亡くなって19年。先日の「吹くたびに」を投稿された方と同じで、「母には感謝しかない」という心境だ。
12日付の投稿者は、ハーモニカを吹いておられるとのこと。私も中学生時代にクラブ活動で吹いていたトランペットを、就職してすぐに月賦で買った楽器で、今も楽しんでいる。
私たち兄弟4人、健康に留意しながら過ごしていきたい。投稿された方も、ご兄弟ともども、どうかお元気でお過ごしください。」

 

コメント

女性の浴衣姿と祭りの踊り(「山鹿灯篭祭り」を見て)

2024-09-02 13:00:56 | 話の種

「女性の浴衣姿と祭りの踊り(「山鹿灯篭祭り」を見て)」

今年ようやく念願がかなって8/15-16と熊本の山鹿灯篭祭りを見てきた。
見どころは「千人灯篭踊り」で浴衣姿の千人の女性が灯りのついた山鹿灯篭を頭にのせ、「よへほ節」の唄に合わせて中央の櫓の周りを輪になって踊るというもの。

*Wikipediaではこれを次のように記述している。
「「千人灯籠踊り」がこの祭りの最大のクライマックスである。頭上に金灯籠(かなとうろう)をのせた浴衣姿の女性千人による優雅な踊りは圧巻であり、ゆったりした「よへほ節」が会場に流れるなか、薄暗闇に千の灯が浮かび、櫓を中心にして渦のように流れ揺らめく。(途切れないカメラのフラッシュを除けば)とても幻想的な光景である。」

今年の観客数は13万人だったとのことだが、例年人気があることより、当方半年前から飛行機および山鹿市内のホテルを予約しておいた。しかし千人灯篭踊りの特別観覧席についてはうっかり予約のタイミングを逃してしまい、当方が気が付いた時は全て売り切れとなってしまっていたが、運よく僅かに残っていたカメラマン席というのを予約することが出来た。(これは立見席(場所)で座席はないが、スタンドの最上部で全体を見渡せ、眺めは一番よいところ。但し料金は一番高い。)

当方が何故この千人灯篭踊りに拘ったかというと、踊りの輪が千人というスケールの大きさとともに、「揃いの浴衣姿の女性の幻想的な灯りの舞い」ということに魅力を感じたから。
ちなみに浴衣は薄紅色で女性らしく、踊りも「よへほ節」に合わせて優雅でしなやか、腰をやや屈め首を少しかしげる姿はこれまた女性らしい。この点富山の「おわら風の盆」の踊りと共通したものを感じた。

というのも、山鹿は温泉街として栄え、唄も踊りも元はお座敷唄、お座敷踊りだったとのこと。(この点が「おわら風の盆」と共通している。)
ちなみに「よへほ節」の元唄は下世話な内容だったようだが、昭和8年に野口雨情によって改作され、「灯籠踊り」は昭和30年ごろに藤間流の藤間勘太女がお座敷用の踊りとして考案した振り付けを屋外用に改変したものとのこと。
また「よへほ」の意味だが、熊本弁の「酔へ(え)、ほー(ほら)」からきているようである。
(「ほー」というのは熊本では他人に何かを促す時によく使われる言葉。つまりここではお酒を勧めているわけ。)

そして頭にのせる灯りのついた灯篭だが、今はLEDがあるのでそれだろうと推測はつくものの、昔はどうしたのだろうかとの疑問が湧く。(まさかロウソクを灯しているわけではないだろうから)
これについては、灯篭を頭に載せるようになったのは昭和29年からで、これは市の女性事務員の発案によるものとのこと。
また頭上の灯篭に灯りをつけるようになったのは昭和32年からで、当初は豆電球を使用し電池は帯のところに挟んでいたと。
因みに灯篭は全て和紙でできており、重さは卵一個分。電池を入れても卵三個分とのこと。(山鹿灯篭民芸館の係の人の説明)

*これらについては山鹿市役所商工観光課の人も次のように説明している。
「灯籠まつりの由緒は古く、今から約2,000年前の第12代・景行天皇の九州御巡幸にまで遡ります。」

「灯籠を頭に掲げて踊るようになったのは昭和29年、旧山鹿市合併の年からです。さらに『千人灯籠踊り』が始まったのは昭和32年、地域の伝統行事に光を当てて山鹿を盛り上げようと婦人会の方々が奮闘して1,000人の踊り手を集めたのだそうです。当初は、金灯籠も婦人会で手作りしていたとか。女性の力でここまで大きくなった祭りなんですよ。」


(参考)「よへほ節」

(現在のよへほ節)
ぬしは山鹿の骨なし灯籠 ヨヘホ ヨヘホ 
骨もなけれど肉もなし ヨヘホ ヨヘホ

洗いすすぎも鼓の湯籠 ヨヘホ ヨヘホ 
山鹿千軒たらいなし ヨヘホ ヨヘホ

心荒瀬の蛍の頃に ヨヘホ ヨヘホ
溶けし想ひの忍び唄 ヨヘホ ヨヘホ

山鹿湯祭り月さえおぼろ ヨヘホ ヨヘホ
花は夜桜袖に散る ヨヘホ ヨヘホ

袖にほんのり湯の花も香る ヨヘホ ヨヘホ
山鹿湯の町 忘らりょうか ヨヘホ ヨヘホ

肥後の小富士を 吹き来る風に ヨヘホ ヨヘホ
立つは浮名と 湯のけむり ヨヘホ ヨヘホ

山鹿灯籠は 夜明かしまつり ヨヘホ ヨヘホ
町は灯の海 人の波  ヨヘホ ヨヘホ

(歌詞の内容)
「骨なし灯籠 骨もなけれど 肉もなし」(山鹿灯籠の作り方を唄っている)
「山鹿千軒 たらいなし」(山鹿市の温泉の湯量が大変多いことを言っている)
「町は灯の海 人の波」(頭にのせたたくさんの「金灯籠」がゆれて、美しい波のようだと、祭りの幻想的な美しさを唄っている)


(オリジナルのよへほ節)
ぬしは山鹿の骨なし灯籠 ヨヘホ ヨヘホ
骨もなければ肉もなし ヨヘホ ヨヘホ
裏の山椒の木や仏か神か ヨヘホ ヨヘホ
忍び男のかげかくす ヨヘホ ヨヘホ
今宵忍ぶなら裏からおいで ヨヘホ ヨヘホ
表くんぐり戸ガラガラチャン音がする ヨヘホ ヨヘホ
裏の窓からこんにゃく投げて ヨヘホ ヨヘホ
今夜来るとの知らせかな ヨヘホ ヨヘホ
逢ひに来たもの何のただかへそ ヨヘホ ヨヘホ
裏の割木でどやてやれ ヨヘホ ヨヘホ
松の枯葉アレ見やしゃんせ ヨヘホ ヨヘホ
私もあの世に二人連れ ヨヘホ ヨヘホ


(参考)

山鹿探訪ナビ(山鹿市観光課)
https://yamaga-tanbou.jp/about/toromatsuri/#ticket

山鹿灯籠まつりDVD(山鹿市観光公式チャンネル)
https://www.youtube.com/watch?v=QPKQT-WlN14

夜がメインの山鹿灯篭まつり(千人灯篭踊り)(2024年)(低位置)
https://www.youtube.com/watch?v=N0wpoAorjFU

山鹿灯籠まつり『千人灯籠踊り』(2024年)(高位置)
https://www.youtube.com/watch?v=VXp0w-KSmC8

MY PHOTO(山鹿灯篭祭り)
https://photos.app.goo.gl/6hVHULCLLc6YV6739

 

コメント

オリンピックの若者たち

2024-08-31 16:10:13 | 話の種

「オリンピックの若者たち」

パリ・オリンピックも終了したが、今年もオリンピックでは様々な問題が浮かび上がっている。
曰く誤審問題・誹謗中傷問題・性別問題・紛争による参加国の問題など。
また各国のメダル争いも相変わらずの光景である。
しかし、これらの問題はさておき、私がオリンピックを見て感銘を受けたのはスケートボード、スポーツクライミングなど近年の新しい種目での若者たちのすがすがしさである。
これらの競技では、若者たちは国籍や勝敗など関係なく、自分の最高の技を披露することを目的とし、また相手も競争相手の素晴らしい演技には惜しみない拍手を送る。ここにはお互いの技を高め合い、競い合うというスポーツ本来の精神が宿っているように思える。

例えば東京オリンピックでのスポーツクライミングのボルダリングだが、選手同士が国籍に関係なく、どのようにルートを攻略するか相談し合う姿が強く印象に残っている。


これについてネット検索したところ、次のような記事があった。

〇「ライバル同士でルート相談「高め合う感じスポーツとしていい」」日刊スポーツ(2021年8月6日)

「2種目のボルダリングが行われる前に選手同士が互いにルートを相談し合う光景が、SNS上で注目されている。

高さ5メートル以下の人工壁に設定された複数の課題(コース)を制限時間内にどれだけ完登できたか競うボルダリングは、登る前にオブザベーション(下見)が許されている。限られた下見の時間で攻略方法を探ろうと、選手同士が知恵を出し合う様子が見られた。

決勝に残った日本勢の野中生萌(24=XFLAG)と野口啓代(32=TEAMau)も、互いに話し合う姿が見られた。
SNS上では「登る前に選手みんなで下見してどう登るか相談し合うのおもしろい!」「協力しながら高め合う感じ、スポーツとしていいなぁ」などの声が寄せられた。」


またスケートボードでも印象に残ったシーンがあったので、確か新聞記事の切り抜きを保存してあるはずと思い探したところ、下記記事が見つかった。

〇「スケボー、「新たな世界」開く「自分らしさ表現」価値置く」朝日新聞(2021年8月14日)(一部省略)

「スケートボード女子パーク決勝。最終滑走者だった岡本碧優(みすぐ)(15)は難易度の高い演技に挑戦し、転倒した。4位。技の難易度を下げて成功していれば表彰台の可能性もあった。控え場所へ戻ろうとしたところ、ブラジルや豪州の選手たちに突然、担ぎあげられた。「目標としていた演技ができなくて悔しい。でも、(担がれて)とてもうれしかった」

今大会で初めて五輪に採用されたスケートボードでは、演技が成功すれば他の選手たちも拍手を送り、失敗すれば我がことのように悔しがった。

日本勢の史上最年少出場で銀メダルを手にした開心那(ひらきここな)(12)が予選1本目の演技を終え、真っ先に駆け寄った相手はフィンランド代表リジー・アルマント(28)だった。都心の最高気温が34.4度だったこの日、アルマントは自らがさすパラソルを傾け、開を日陰に入れた。開は「五輪がすごい大会というのは分かっているんですけど……。全然緊張しなかった」。

英国代表の銅メダリスト、スカイ・ブラウン(13)は、金メダルの四十住(よそずみ)さくら(19)、開と3人で肩を組みながら記者会見場に現れ、言った。「一緒に表彰台に乗れてうれしい」

「スケートボードが新しい世界をみせてくれた」と語るのは、オリンピアンの為末大さんだ。

五輪において、日本のスポーツ界はこれまでの社会の価値観を反映していたと指摘する。「常に、決められたレースの中でランキングや勝利を重視していた。だから、『勝たなければ意味がない』という考え方になっていった」

これに対し、スケートボードが違う評価軸を示したとみる。「勝ち負けよりも『楽しんで自分らしさを表現する』という部分を大事にしていた」。他の競技はもちろん、社会全体にもこうした考え方が広がることを期待する。」

 

コメント

米欧のダブルスタンダード

2024-08-29 20:38:37 | 話の種

「米欧のダブルスタンダード」 

この問題については、これまで諸問題に対する米欧の対応について当方疑問を抱くことが幾度かあったが、このダブルスタンダードがはっきりと世間に示されたのが、米欧のウクライナ問題に於ける対応と、イスラエルのガザ侵攻に対する対応の違いであろう。
そしてこのことを改めて強く感じたのが、今年の広島、長崎の平和祈念式典に於ける米欧の対応である。

今年の広島、長崎の平和祈念式典では、広島はイスラエルを招待したが(パレスチナは招待せず)、長崎はイスラエルを招待しなかったので(パレスチナは招待)、これに反発した米欧6か国(米、英、仏、カナダ、ドイツ、イタリア)の大使は長崎の式典には欠席した。
理由は「ロシアやベラルーシと違い、イスラエルは(イスラム組織ハマスの攻撃に対して)自衛権を行使している」(ロングボトム駐日英国大使)ということで、他の国も同様のようである。
これには当方愕然とした。

(参考:長崎の平和祈念式典についての大手新聞の記事で、パレスチナが招待されていることについて言及しているのは日経新聞だけで、他の新聞は全く言及がないようである。これには何か意図があってのことだろうか。)

当方若いころは、米国は自由及び民主主義の象徴として一番好きな国だったが、近年はその身勝手さが目につくようになり、これまでの米国経済の発展もその身勝手さによるものではないかと思うようになった。
(過去の自動車、半導体などの日米貿易摩擦、現在の半導体などの米中貿易摩擦など)

近年新興国や発展途上国の米欧離れが目につくのも、欧米流の価値観の押し付けということ以外に、このダブルスタンダード(二重基準)にこれらの国は嫌気が差しているからではないだろうか。
また近年民主主義の危機が言われるようになったのもこれらのことに起因しているものと思われる。

民主主義の危機ということについては「権威主義と民主主義」の項でも触れているが(参考:「権威主義と民主主義」https://blog.goo.ne.jp/sunny3/d/20230605 )、今回はこの米欧のダブルスタンダードについて過去の切り抜きをチェックしてみたところ次のようなものがあった。


〇「(日曜に想う)欧米の「二重基準」がもたらす代償は(編集委員・佐藤武嗣)2024年7月28日」

「米欧の首脳らが7月上中旬、ワシントンに集い、岸田文雄首相も参加した北大西洋条約機構(NATO)首脳会議。その共同宣言を見て、思わず、ため息をついてしまった。

宣言では、ウクライナに軍事侵攻したロシアを「国連憲章を含む国際法の明白な違反だ」と痛烈に批判。宣言文には「ロシア」が40回も登場し、ウクライナ勝利のための支援強化を確認した。残忍な戦闘を繰り返すロシアをNATO諸国が結束して非難するのは当然のことだ。

ただ、宣言文に「ガザ」や「イスラエル」の文言は見当たらない。国際司法裁判所(ICJ)がイスラエルのパレスチナ自治区への占領政策を「国際法違反だ」と勧告しても、ガザ情勢には見て見ぬふりだ。

トルコなどNATO内でも、バランスを欠いた対応に異を唱える国もある。スペインのサンチェス首相も「我々がウクライナを支援するのは国際法を擁護するからだ。ガザ問題にも同じ姿勢でなければならない」と、「二重基準」を改めるべきだと訴えた。確かにロシアの侵攻と、イスラム組織ハマスの攻撃への反撃としてのイスラエルのガザ侵攻では事情は異なる。だが、市民の巻き添えもいとわず、人道地域や病院、国連学校への爆撃を繰り返すイスラエルの行為は、国際法違反、人権侵害という点で、ロシアの蛮行と同じだ。

(中略)

民主主義国家の権威主義国家への対抗軸は、「力には力」ではなく、法の秩序や法の支配といった、理念や価値であるべきだ。欧米が、二重基準を続ければ、「法の秩序」を主張したところで、説得力を欠き、正当性が失われていく。それはロシアや中国など権威主義国家にとって好都合に働く。実際、欧米の二重基準を見透かし、中国は今月、パレスチナ自治区の各派代表を北京に招き、中東での仲介外交を演出した。

日米中やアジアの国防相らがシンガポールに集った6月のアジア安全保障会議で演説し、ロシアの国際法違反を指摘したウクライナのゼレンスキー大統領に、カンボジア代表が「それならイスラエルにも国際人道法の順守を求めるべきではないか」と質問。会場の一部から起きた拍手について、会場にいた神保謙・慶応大教授は「欧米と東南アジア諸国の価値観の対立を代表させるもの。アジア諸国は欧米の二重基準に不信感を抱いている」と見る。国際秩序の帰趨(きすう)を左右するグローバルサウスも欧米の対応を注視している。

(後略)」

この他に朝日新聞には次のような記事があった。(どれもガザ問題についての記事で、いずれも一部抜粋)

〇(ガザの衝撃 問われる世界)米だけの「正義」ではなく(アメリカ総局長・望月洋嗣) 2023年11月5日

「ロシアによる露骨な侵略が起きたウクライナ情勢をめぐり、バイデン氏は「正義は力を生む(Right makes Might)」と語り、抵抗を励ました。米国が道義的な優位を得るのは難しくなかった。

一方、激しい空爆を続けるイスラエルに対し、国際的批判は日増しに強まっている。ユダヤ系米国人は政財界や言論界で強い影響力を持ち、米国はイスラエルの建国以来、巨額の軍事援助を通じて支えてきた。その米国内でも、パレスチナ側への同情論が広がる。

だが米国は10月18日、国連安全保障理事会で拒否権を使い、戦闘の中断を求める決議案を葬り去った。単独で反対した米国にどれほどの「正義」があったのか疑わしい。

冷戦後、圧倒的覇権を得た米国が、イラク戦争などで示したのは「力こそ正義(Might makes right)」と言わんばかりのおごりだった。覇権に影が差し、米国は中国との競争に目を奪われるようになっていく。その虚を突いたガザの衝撃はウクライナでは見えにくかった米国の「二重基準」も浮き彫りにしている。」

〇(ガザの衝撃 問われる世界)信頼損なう、欧州の二面性 (ヨーロッパ総局長・杉山正)2023年11月7日

「欧州が説いてきた理念が「二重基準」に揺れている。

ガザの人道危機が深刻化して、欧州首脳らの発言に人道や支援の必要性が強くにじむようにはなった。だが、首脳らからイスラエルを強く直接いさめる言葉はほぼない。
「イスラエルには国際法と国際人道法に沿った形での自衛をする権利がある」。決まり文句として使われる言葉には、人道危機を止めようとする意思は感じられない。

欧州の姿勢には歴史など様々な背景もある。

ブリュッセル近郊のデモに参加したモロッコ系の男性が言った。「欧州はホロコーストの罪悪感からイスラエルを止めようとしない」
ベルギー人でイスラム教徒の友人が私にこう語った。「人道主義は強者の都合でしか適用されない」

パレスチナ問題は、アラブ民族運動を支援しつつ、ユダヤ人の国家建設にも甘い言葉をかけ、仏ロと第1次大戦後の中東地域の分割を秘密裏に決めた英国の「三枚舌外交」に端を発する。欧州側の責任も大きい。」

(参考:パレスチナ問題及び英国の三枚舌外交については下記の項を参照)
(「パレスチナ問題」https://blog.goo.ne.jp/sunny3/d/20231014 )


なお、今年の広島、長崎の平和祈念式典の問題については、朝日新聞の社説は次のように述べている。

〇(社説)被爆地の式典 納得できぬ米英の欠席 2024年8月10日

「どの国・地域に声をかけるかは、基本的に式典の開催地が決めることだろう。ところが米英側は、長崎市の決定に対して「イスラエルをロシアなどと同列に扱うのは誤解を招く」と反発した。

ハマスの奇襲を受けて戦闘を始めたイスラエルと、一方的にウクライナに侵略したロシアとは異なるものの、イスラエルは多くの市民を巻き添えにしており、けっして見過ごせない深刻な事態だ。

しかし主要7カ国(G7)はロシアを非難する一方、人道を軽視するイスラエルへの対応は鈍いままだ。この「二重基準」を、米英は被爆地にも持ち込んだとも言える。

被爆地でも、さまざまな意見がある。広島は、政府が国家承認している国の大使を基本にイスラエルも招いたが、被爆者団体からはイスラエルを除くよう申し入れがあった。長崎の判断に対しては、紛争当事国を含めて全ての国を招き、平和を訴えるべきだとの声も出ている。」

 

コメント