「紫式部とその時代(人物)」
紫式部といえば源氏物語の作者、源氏物語といえば光源氏というプレイボーイの色恋の物語ということしか知らず、また平安時代についても公家社会の軟弱な時代と言うことで、さして興味もなかったが、NHKの大河ドラマ「光る君へ」が始まったことで、いろいろとその解説を見聞きするにつれ、その時代背景について俄然と興味が湧いてきた。
*NHK Eテレの「趣味どきっ!源氏物語の女君たち」(全8回)では、物語のキーパーソンとなる8人の女君の生き方を切り口に紹介、清泉女子大学文学部の藤井教授の解説付きで、取敢えずこの8人のキャラクターの背景を知っておけば大丈夫(物語の真髄が分かる)ということで、確かに(ああ、こういう内容なのかと)分かり易く面白かった。
(NHKのドラマも公家の顔が他のドラマでよく見られる眉毛を剃って上に短く描いたようなものではなく、
言葉も公家がよく使う「おじゃる言葉」かつオカマのような軟弱な物言いではなく、現代口語の日常会話のスタイルなので、すんなりと受け入れやすい。)
まず平安時代だが、厳しい階級社会・身分社会で、武力闘争はなくとも権謀術数をめぐらせた公家社会の熾烈な権力闘争、身分社会に於ける女性の立場や生き方など非常に興味深いものがあり、また藤原氏一族の天皇家との関係や繁栄の理由などについては一部学校の歴史で習ったもののうろ覚えで、認識を新たにした。
そして源氏物語については当時の朝廷・貴族社会の様子、女性の立場などをほぼ忠実に垣間見ることができ、単なる恋愛物語ではなく歴史的にも貴重な資料であることが分かった。
このようなものがよく書き残せたなと思うと同時に、作中での人間関係や生き方、それに伴う悩みや心情などは現代でも通じるものがあり、それらが素直に表現されていて、これが千年以上も前に書かれたものと思うと驚きである。
そこで今更ながらだが、この時代について当方が興味を持った、或いはドラマを見るうえで必要と思われること(背景)を「人物」「制度」「文学」に分けて整理してみた。
(NHKのドラマでは虚実入り混じっているので、史実として明らかにされているものを整理した)
(参考)NHKのドラマと史実との違いについては取敢えず下記参照
(この記事の後部に、ドラマ「光る君へ」に関連した記事のインデックスがあり、いろいろと参考になる)
「大河ドラマ「「光る君へ」は史実と違う?」(ホームメイト)
[天皇家と藤原氏一族]
[天皇家]
(61)朱雀天皇(930-946)(女御)煕子女王、藤原慶子
(父)醍醐天皇(第11皇子)
(母)藤原基経(摂政関白)の娘・中宮藤原穏子(やすこ)
(62)村上天皇(946-967)(女御)徽子女王、荘子女王、藤原述子、藤原芳子
(父)醍醐天皇(第14皇子)
(母)藤原基経(摂政関白)の娘・中宮藤原穏子(やすこ)
(63)冷泉天皇(967-969)(中宮)昌子内親王(朱雀天皇皇女)(女御)*藤原懐子、*藤原超子、藤原怤子
(父)村上天皇(第2皇子)
(母)藤原師輔(右大臣)の長女・中宮藤原安子(やすこ)
(64)円融天皇(969-984)(中宮)藤原媓子、藤原遵子(女御)*藤原詮子、尊子内親王
(父)村上天皇(第5皇子)
(母)藤原師輔(右大臣)の長女・中宮藤原安子(やすこ)
(65)花山天皇(984-986)(女御)藤原忯子、藤原姚子、藤原諟子、婉子女王
(父)冷泉天皇(第1皇子)
(母)藤原伊尹(摂政太政大臣)の娘・冷泉天皇の女御藤原懐子(ちかこ)
(66)一条天皇(986-1011)(皇后)藤原定子(中宮)*藤原彰子(女御)藤原義子、藤原元子、藤原尊子
(父)円融天皇(第1皇子)
(母)藤原兼家(摂政関白太政大臣)の次女・円融天皇の女御藤原詮子(あきこ)
(67)三条天皇(1011-1016)(皇后)藤原娍子(中宮)藤原妍子
(父)冷泉天皇(第2皇子)
(母)藤原兼家(摂政関白太政大臣)の長女・冷泉天皇の女御藤原超子(とおこ)(贈皇太后)
(68)後一条天皇(1016-1036)(中宮)藤原威子
(父)一条天皇(第2皇子)
(母)藤原道長(摂政太政大臣)の長女・一条天皇の中宮藤原彰子(あきこ)
(69)後朱雀天皇(1036-1045)(皇后)禎子内親王(中宮)藤原嫄子(女御)藤原生子、藤原延子(東宮妃)*藤原嬉子
(父)一条天皇(第3皇子)
(母)藤原道長(摂政太政大臣)の長女・一条天皇の中宮藤原彰子(あきこ)
(70)後冷泉天皇(1045-1068)(皇后)藤原寛子、藤原歓子(中宮)章子内親王
(父)後朱雀天皇(第1皇子)
(母)藤原道長(摂政太政大臣)の六女(道長・倫子夫妻の末娘)、後朱雀天皇の東宮妃藤原嬉子(よしこ)(贈皇太后)
(*紫式部の娘大弐三位が後冷泉天皇の乳母)
[藤原氏一族]
藤原兼家(摂政・関白・太政大臣)*(正室)藤原時姫、(室)藤原道綱母(蜻蛉日記の作者)、他
藤原道隆(兼家の長男)(摂政・関白・内大臣)*母は時姫
藤原道綱(兼家の次男)(大納言)
藤原道兼(兼家の三男)(関白右大臣・太政大臣)*母は時姫
藤原道義(兼家の四男)(治部少輔)
藤原道長(兼家の五男)(摂政・太政大臣)*母は時姫 *妻は源倫子(正室)、源明子、他
藤原超子(とおこ)(兼家の長女*母は時姫、冷泉天皇の中宮)*三条天皇の生母
藤原詮子(あきこ)(兼家の次女*母は時姫、円融天皇の中宮)*一条天皇の生母
源倫子(ともこ)(道長の正室、父は左大臣源雅信、母は正室藤原穆子)
源明子(あきこ)(道長の妻、父は左大臣源高明、母は藤原師輔娘の愛宮)
藤原通頼(道隆の長男)(権大納言)
藤原伊周(道隆の三男)(内大臣)*名前は(これちか)
藤原頼通(道長の長男)(摂政・関白・太政大臣)*母は倫子
藤原教通(道長の五男)(関白・太政大臣)*名前は(のりみち)*母は倫子
藤原定子(さだこ)(道隆の長女、一条天皇の皇后(中宮))
藤原彰子(あきこ)(道長の長女*母は倫子、一条天皇の中宮)*後一条天皇、後朱雀天皇の生母
藤原姸子(きよこ)(道長の次女*母は倫子、三条天皇の中宮)
藤原威子(たけこ)(道長の三女*母は倫子、後一条天皇の中宮)
藤原嬉子(よしこ)(道長の六女*母は倫子、後朱雀天皇の東宮妃)*後冷泉天皇の生母
藤原寛子(ひろこ)(頼通の長女、後冷泉天皇の皇后)
*平安時代の女性の名は、教科書などでは音読みで記載されることが多いが(詮子(せんし)、彰子(しょうし)、定子(ていし)など)、これは同じ名前がいくつもでてくるので、明治以降、便宜的に音読みが使われ、一般にも広がったようで、当時は訓読みで呼ばれていた可能性が高いらしい。(いくつかの例でそれが示されている)
[藤原道長]
平安時代の最高権力者藤原道長は、その絶頂期に娘四人を相次いで宮中に送り込み「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることのなしと思へば」という和歌を詠んだことで有名。
道長の長女彰子に仕えたのが紫式部。 源氏物語の主人公、光源氏のモデルは道長で、物語はその栄華の世界の写しと言われている。
[藤原氏について]
(ドラマでも姓は藤原氏ばかりで混乱するが、そのルーツは次の通り)
古代の代表的な氏名、源氏・平氏・藤原氏・橘氏(四姓「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」)の一つ。摂関政治を行った貴族。初め中臣(なかとみ)氏といい、大和朝廷の神事を司った。中臣鎌足が中大兄皇子(後の天智天皇)とともに大化改新(645年)の大業をなし、天智天皇より藤原朝臣の姓を賜ったことが藤原姓の始まり。藤原不比等の娘宮子が文武天皇妃として聖武天皇を生んだ。このことから皇室の外戚としてその力を確固たるものとした。不比等の子孫だけが藤原姓を許され、その4子が藤原四家(南家、北家、式家、京家)の祖となった。なかでも北家が藤原氏の主流となり、摂政・関白の地位に就いた。全盛を迎えたのは11世紀藤原道長・藤原頼通のころになる。
氏神は春日大社、氏寺は興福寺。
(参照)
「確かめよう、日本の歴史/藤原道長の家系図」(静岡県総合教育センター)
「藤原道長の家系図と年表」(ホームメイト)
[紫式部]
天延元年(973年)生まれ。(諸説あり)
藤原北家良門流の越後守・藤原為時の娘で、母は摂津守・藤原為信女。幼少期に母を亡くしたとされている。(父の藤原為時は官位は正五位下と下級貴族ながら、花山天皇に漢学を教えた漢詩人・歌人)
996年越前守になった父の赴任に同行、998年父を越前に残して京に戻り、遠縁で又従兄妹でもある山城守・藤原宣孝(20歳ほど年上で既に数人の妻と子もいた)と結婚し一女を産んだ。しかし結婚から3年ほどで夫と死別し、1002年頃から「源氏物語」を書き始めた。
1005年頃に評判を聞いた藤原道長に召し出され、一条天皇の中宮彰子(藤原道長の娘)に仕える間に、藤原道長の支援のもと「源氏物語」を完成させた。
「女房となった女性の名前の由来」
[紫式部、清少納言、和泉式部、赤染衛門]
紫式部: (973-1018)46歳没(諸説あり)
紫式部は通称(宮廷での女房名)で、元は「藤式部」(「藤原式部の女(娘)」の略称で、藤原は父親の姓、式部は父親の役職)だが藤式部という女房名は特に珍しい物ではなかったので、彼女の作品の源氏物語の登場人物である「紫の上」にちなんで、人々の間で「紫式部」とよばれるようになったと言われている。(一条天皇の中宮彰子に仕えた)
清少納言: (966頃-1025頃)60歳没?
清少納言は通称(宮廷での女房名)で、「清原少納言の女(関係者)」の略称。「少納言」については諸説あるが、家系(先祖、平安時代初期)に清原有雄という少納言(役職)がいたので、その先祖にちなんで付けられたと説が分かり易い。(一条天皇の中宮定子に仕えた)
読み方は(せい・しょうなごん)
和泉式部:(978年頃-1019年頃)42歳没?(没年不詳)
夫橘道貞(後に離婚)が和泉守、父大江雅致が式部省の官僚(式部丞)だったことからきた女房名。(一条天皇の中宮彰子に仕えた)
赤染衛門:(956年頃-1041年以後)85歳没?(没年不詳)
父が赤染時用で衛門府の官僚(右衛門志)だったことからきた女房名。(一条天皇の中宮彰子に仕えた)
(参考)
清少納言は一条天皇の中宮定子に仕え、紫式部は中宮彰子に仕えたので政敵ともいえるライバル関係にあったが、後宮における両者の活動時期には少しのズレがあったので、直接の面識はなかったのではと思われている。(ドラマでは会って話をしているが)
「女性名について」
紫式部、清少納言などのように官位を受けていない女房などは、通称として、姓は父親の名前(苗字)から一字とり、次に家族・親族で最も位の高かった位階を付けることが多い。
ではこれらの人たちの本当の名前は何かということだが、官位がないために正式に文献に記載されていないので分からない。
(*紫式部はドラマでは「まひろ」と呼ばれているが、これはドラマ創作上の名前)
一方、官位がある女性は、官位をもらう際に名前を届けるので、朝廷の公式文書に記載されることになる。
また、それ以外の女性については、例えば蜻蛉日記の作者は藤原道綱母、「更級日記」の作者は菅原孝標女(娘)というように父親あるいは息子との関係を示して文献上に表記されている。
女性で名前が残るのは次のような場合である。
1.歴代天皇の后妃たち
正式に天皇の后妃となった女性は朝廷の公式文書にその名を残す必要があったので、必ず本名を明かさなければならなかった。
(定子、彰子など)
2.神に奉仕した女性たち
伊勢神宮の斎宮や賀茂神社の斎院がこれに相当する。
未婚の内親王あるいは女王が選ばれて当代の帝の世のために神に奉仕した。
(恬子内親王、選子内親王など)
3.身分高き女性たち
例えば源倫子だが、この人は藤原道長の妻だったというだけで無く、後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の祖母になり、朝廷から従一位という最高の位を戴いたので、公式の記録に残っている。
その他、摂関家をはじめとする由緒ある貴族の場合は、その家系図を作る上での必要性から妻や娘の名前も記録に残したものと考えられる。
(参考)
源氏物語に出てくる「女三宮」だが(物語での架空の人物かつ主要人物)、朱雀帝の第三皇女で、名前ではなくこのように表記されている。(女は娘の意味で、三番目の宮様ということ)
*「宮・上・君」の使い分け(源氏物語)
宮:性別に関係なく中宮、親王、内親王に用いられる。
上:性別に関係なく高貴な人に用いられる。
君:性別に関係なくある程度高貴な人に用いられる。(「上」よりも下位、もしくは親しみのある関係に用いられる。)
(参考)女性の名前が不詳な理由
日本の歴史において、有名な女性でも名前が伝わっておらず不明なことが多い。
なぜ、女性の名前が不詳であり分かっていないのか。
まず、男性も女性も同様に、名前が無かったと言う事はあり得ない。
平安時代の女性にも、当然「名前」、つまり実名・諱(忌み名)・個人名があったはずである。
ただ、この頃は女の子の名前は身内(家族)だけで言っていたと理解する方が分かり易いかも知れない。
人の妻となった女性を他の者が名前で呼ぶのが失礼な時代で、その女性の夫は当然、妻のことを名前で呼んでいただろうが、しかし、周囲の人間や友人などは、他人の妻である女性を名前で呼ぶのはタブー(失礼)だったとされていた。また女性が他人、特に男性に本当の名前を知られるというのは、その人に自分のすべてを支配されることを意味すると言う観念もあったこともある。
(参考)平安時代の女性の名前の読み方については下記参照
「第48話 斎宮百話 女性に名前をたずねるなんて…」(斎宮歴史博物館)
(参考)女性の名前に「子}が多い訳
昔は「子」という字は男性名に用いられており、中国の孔子,孟子,韓非子や日本の小野妹子や蘇我馬子などがその例。
「子」という文字が女性の名前に用いられるようになったのは平安時代からで、嵯峨天皇が自身の娘たちに「子」の付く名前を授けたことが由来であるとされている。
それを機に、「子」という字は高貴な女性の名前に使われるようになり、時代を経るにつれ一般の女性にも使用されるようになった。
*平安時代初期、嵯峨天皇(第52代天皇、786-842)が皇女の命名を改めた時、内親王には「子」を付けて、臣籍降下した皇女は「姫」とした。
現在の天皇家にもこの命名法が引き継がれている。
(Yahoo!知恵袋回答より)
(嵯峨天皇には子供が50人もいたために全員を皇族としておくのは難しく、男子女子ともに大量の臣籍降下を行った。(天皇1人,男性皇族4人,女性皇族12人,臣籍降下男性18人,臣籍降下女性15人)。つまり33人を臣籍降下。
このときに臣籍降下に伴い男子女子ともに全員に源姓を賜った(嵯峨源氏)。そして皇族女子には全員に[子]の字を与え,臣籍降下した女子には全員に[姫]の字を与えた。(男子は皇族は2文字名前,臣籍降下した男子は1文字名前とした))(Yahoo!知恵袋回答より)
(参考)「平安時代/有名女性の結婚年齢」(推定)
源倫子 (24歳頃)
清少納言 (16歳頃)
紫式部 (26歳頃)
和泉式部 (18歳頃)
赤染衛門 (20歳頃)
藤原道綱母(19歳頃)
菅原孝標女(33歳頃)
中宮定子 (14歳頃)
中宮彰子 (12歳頃)
*年齢は数え年