「人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか」
日本の賃金がこれ迄上がらなかった理由については、企業(特に大企業)が内部留保として利益を貯め込んで従業員に還元してこなかった、一方中小企業は大企業からの値下げ圧力により賃金を上げる余裕はなく、非正規従業員・パートなどは立場の弱さから賃金は抑えられたままになっているなど、これ迄に述べてきた通りだが、今年になってようやく大企業を中心に改善の動きが見られるようになり、飲食業界なども人手不足が限界に達し、賃上げをせざるを得なくなっている。
しかし未だに多くの業界では人手不足が言われているにもかかわらず、相変わらず賃金は伸び悩んでいる。人手不足なら賃金を上げれば良いのではと思うがそうはならず、中でも注目されるのは、「病院の勤務医や看護師などの医療従事者」「介護士や保育士などの福祉事業従事者」「バス・タクシーなどの公共交通機関の運転手」「トラック輸送や宅配などの物流業従事者」などで、激務にもかかわらず賃金が安い業態ほど、この傾向が強いこと。
(*但し、医師、看護師、介護福祉士(単なる介護士ではなく)、保育士などは国家資格が必要という制度の問題などもあり、他の業種とは事情が異なり、以下の説明とは異なる面もあるので、例外としておくが。)
通常であれば需給の法則で、人手不足になれば賃金も上がるはずだが、そうはなっておらず不思議でならない。
そこで調べてみたところ、
「医療」は、国(厚生労働大臣)が診療報酬(事業者への点数制度による支払額)を定めている。
「介護」は、国(厚生労働大臣)が介護報酬(事業者への支給限度額)を決めている。
「バス」は事業者が上限運賃を定めるが(下限はその8割)、国(国土交通大臣)の認可が必要。
「タクシー」は国(運輸局)が運賃の上限/下限を認定し、その範囲内で事業者からの申請を認可する。
このように国がサービス価格を設定している業態は、事業者もその範囲内でしか従業員への給料は払えないということで、賃金が上がらない理由も分かり易い。(但し、分配の問題はあるが。)
では他の分野では何故賃金が上がらないのだろうか。
これについては、失われた30年と言われるように長期のデフレ経済下にあって、日本の消費者或いはサービスの利用者に於いては値上げへの抵抗感はかなり強く、供給側としたら値上げをしたら需要が落ちるのではとの不安があること、また日本の経営者には賃金は一度上げたら下げるのは難しいとの認識があるので、なかなか賃上げには踏み切れないでいると言うことが挙げられる。
更に、これらの業種は中小企業が多く(大手の下請けなども含め)、構造的な問題を抱えているということも考えられる。
例えば、2024年問題(時間外労働の上限規制)で話題となった物流業界である。
トラック運送や宅配ドライバーの過酷な労働環境(労働条件・勤務形態)は常々問題視されていたが、今回の長時間労働の禁止により、人手不足の問題が一気に深刻化した。
当初述べたように、それならば賃金を上げれば良いのではと思うが、これがなかなかそうはならない。
まずは荷主がそう簡単には配送料の値上げには応じないということ。
そして労働環境の悪さからそう簡単には人が集まらないということ。
*他の業種でも、人手不足に陥っているところは「過酷な労働状況」「労働条件の悪さ(賃金を含む)」がネックとなっているということは共通して言えることだと思う。
(*医療、介護などの資格を要する業種は、事業者がそこで働く人たちの使命感に甘えているところはないだろうか。)
ではなぜこれら業種の従業員がエッセンシャルワーカー(必要不可欠な労働者)とされているにもかかわらず、低処遇のまま安く使われるようになってしまったのだろうか。
田中洋子氏(筑波大学教授)は次のように述べている。(情報労連 2024.01-02)
[低処遇の背景]
(問題の根底にあるのは)構造改革や行政改革、「官から民へ」「小さな政府」という新自由主義的な政策の存在です。
こうした新自由主義的なイデオロギーに基づく経済とは、人件費をできる限りカットして、企業の都合に合わせて人を安く使うほど、企業の業績が良くなり、競争力が高まるとする考え方です。
(*当方としては、このように言い切るのはやや決めつけ過ぎではとも思うが。)
こうした考え方が1990年代から30年間で日本中に広がった結果、エッセンシャルワーカーの低賃金構造がもたらされた、というのが研究によって見えてきたことでした。
[コストカットの拡大]
それらは次のような形で社会に影響を及ぼしました。
一つ目は、コストダウンのための女性や若者を中心とした非正規雇用の活用です。1980年代まで、パート・アルバイトなどの非正規雇用は、家計補助型の働き方であり、社会問題化していませんでした。しかし、バブル崩壊後に男性正社員の雇用・給与が不安定化すると、これらは生計維持型に変化していきます。それでも企業はコストカットのため低賃金の非正規雇用を積極的に活用し続けています。
二つ目が、公共サービスの削減です。「官から民へ」の大合唱の下で、公務員の数や予算は劇的に減らされ、公共サービスは圧力にさらされました。その結果、公務の現場では大きく非正規化が進んでいます。特に、多くの専門職の人たちが非正規に追いやられました。その処遇は低く、フルタイムで働いても年収が200万円に届くか届かないかです。
三つ目は、請負や業務委託の拡大です。日本にはバブル崩壊前にも下請け構造はありました。しかし1990年代以降は、下請け企業への配慮がなくなり、買い叩けるだけ叩く、応えられなければ安い業者、海外の業者に出すということが広く行われるようになりました。その結果、低価格競争が進み、ピラミッド構造の中での「中抜き」も進みました。それが、実際に現場を担って働いている人たちの低賃金を生みだしました。
これら三つの出来事は、共通した考え方の下で進んできました。それがコストカットと市場競争に任せるという新自由主義的な考え方です。これらが政府や企業の方針となり、それが国民にも受け入れられていったことで、日本の低賃金構造が生まれたのだといえます。」
(参考)
「新自由主義とは」(東証マネ部 2023.11.19)
「新自由主義とは、政府の経済への介入を抑え、自由競争によって経済の効率化や発展を実現すべきという考えを指します。英国のサッチャリズムや、レーガノミクスが具体例です。
日本の新自由主義の例
日本でも、新自由主義に基づく政策がいくつか存在します。代表的な例が、以下の2つです。
・中曽根康弘首相による三公社の民営化
・小泉純一郎首相による聖域なき構造改革
日本で2人の首相が実施した政策について、詳しく解説します。
中曽根康弘首相による三公社の民営化
中曽根康弘は、日本の第71〜第73代内閣総理大臣(1982-1987)です。中曽根元首相は、サッチャー元首相やレーガン元大統領と同時期に、新自由主義に基づく政策を進めました。
国鉄(現JR)・電電公社(現NTT)・日本専売公社(現JT)の三公社の民営化を実現したことが、中曽根元首相が実施した政策における具体例のひとつです。
小泉純一郎首相による聖域なき構造改革
小泉純一郎は、日本の第87〜第89代内閣総理大臣(2001-2006)です。
小泉元首相は聖域なき構造改革を掲げ、不良債権処理の加速化、規制緩和、歳出の見直しなどを進めました。また、郵政民営化を実現したことも、聖域なき構造改革のひとつです。
その一方で、聖域なき構造改革が格差拡大につながったとの批判もあります。」
以上は低賃金構造の理由を説明したものだが、では人手不足の原因は何なのだろうか。
まず言えるのは「少子高齢化」。
少子化は言うまでもなく、賃金が上がらないので子供を育てる余裕がなく、先行きにも不安があるため。
高齢化は定年退職などによる労働者数の減少。(生活防衛或いは生きがいのために働く高齢者もいるが、働き場所・機会が限られていることもあり、絶対数は減っている。)
次は「需要と供給のミスマッチ」。
若者たちは人手不足を背景に割の合わない職場は敬遠するようになり、それがこれら過酷な労働環境の業種での人手不足を招いていると考えられる。
(更に先行き不安により、若者たちは「資格取得」「キャリアアップ」を目指すようになり、これら人手不足に陥っている業種では、それらは望めないということもあると思われる。)
そして「円安の影響」。
円安により日本での賃金が相対的に安くなったことから、日本で働く魅力が無くなり、海外からの出稼ぎ労働者の流入が減少傾向にあること。(他方日本を出て海外で働く人たちは増えている。)
*(参考)朝日新聞(5月30日)の記事。
(超円安時代)
「日本→母国、送金の目減り直撃」
「稼げる」一転「家族の生活に足りず」
「内定辞退し他国へ 人材確保に暗雲」
「記録的な円安が続く中、日本で働き、故郷に仕送りをする外国人が苦境に立たされている。円で受け取った給与を母国の通貨に替えると、以前より大きく減ってしまうためだ。日本が働く場として選ばれず、「働き手の確保が難しくなってくる」と懸念の声が上がっている。」
人手不足により、経営者は従業員の賃上げの代わりに、様々な形での合理化を行っており、これも賃金が上がらない理由の一つと言える。
人手不足及び合理化が私たちの生活にどのような影響を及ぼしているかというと、
例えば、
・介護は施設や介護士不足で家族による自宅介護が増え、働きに行けない人も出てきている。
・保育は施設や保育士不足で、母親が勤めを断念するケースもある。
・バスは路線廃止や減便などを行っている。
・タクシーは国がライドシェアなるものの導入の検討を始めた。
・スーパーのレジなどは客に操作をさせるようにしている。
・飲食店では客にタブレットで注文させるようにしている。
・電話での問い合わせなどに対する応対は自動音声となっている。
勿論生産性の向上のためには合理化も必要だが、一方でこれらはどれも利用者に不便をもたらしたり、労務を転嫁したりしたものといえる。つまり、事業者は賃上げの代わりに、我々利用者に人手不足の穴埋めを押し付けていることになる。
(デジタル対応については、若い人たちは抵抗がなくむしろ便利になったと言う人たちもいるが。)
人手不足なのに賃金が上がらないということは、単にそこで働く人達だけの問題ではなく、サービスを受ける我々にもそのしわ寄せが来ているということで、困ったものである。
(参考)
冒頭で述べた、企業収益が従業員に還元されていないということについて、朝日新聞(5月24日)に下記報道があった。(これも賃金が上がらない理由の一つ)
「物価上昇、賃金に回らず 昨年度GDP分析、大半は企業収益に」
「2023年度に相次いだ値上げによる物価上昇は、多くが企業収益となり、賃上げにはほとんど回っていないことがわかった。」(中略)
「24年3月期決算で、上場企業の純利益の総額は3年連続で過去最高となり、値上げが利益を押し上げた企業も多かった。値上がりした分が賃金にどう回ったのかをGDPデフレーターから計算したところ、23年度の上昇分(4.1%)のうち、賃上げ要因は0.3%分にとどまった。割合では1割に満たない。」(以下略)
(参考)
朝日新聞の声欄の投稿。
・「人手不足 賃上げで解決できる」(会社員(35)5月22日)
「宅配の委託会社の正社員で働いている。委託元である荷主の正社員より荷物量は2倍、配達件数も2倍弱だが給料は3割低い。委託元では賃上げがあったが、我々には全くない。同じ仕事で給料も安く、逆に荷量と件数は多く、割に合わない。
委託料が上がらない限り、我々の給料は永遠に上がることはない。今まで数え切れないほど、社員が辞めた。全ては仕事量に対する安月給が原因である。給料が上がらない限り退職者は減らないのに、なぜかたくなに賃金を上げないのか。嫌なら辞めればよい、代わりはいくらでもいると言われているようなものだと思ってしまう。
退職者が毎月のようにいるため、有給休暇すら取れず、ストレスと不満がたまる。授業参観、子どものインフルエンザでさえ休ませてもらえない。自分が病気になった時でも出社をしてくれと言われたくらいだ。
賃金格差が生み出す、人手不足。退職者が出るたびそのしわ寄せは社員にくる。物価と食料は値上がりするが、唯一給料は上がらない不可解な現状である。全ては賃上げ、賃金格差是正が、問題を解決すると私は思う。」
・「物価とともに最低賃金も上げて」(成年後見人(51)5月22日)
「私は成年後見人の仕事をしていますが、それだけでは生活費が足りないので、要介護認定調査のアルバイトをしています。今年の春、大手企業での賃上げが相次いだというニュースを見て、もしかしたら私のアルバイト先でも、という淡い期待を持ちましたが、全く変わりませんでした。
介護業界は介護報酬(委託事業は委託料)に左右されるので、企業の賃上げとは無関係ということになるのでしょうが、他にも賃上げしづらい業界は多いと思います。
現状では個人が収入を増やす対策としてできることは、単純に仕事量を増やすほかはなく、しかし一人でこなせる仕事量には限界があり、これ以上は厳しい状況です。
物価高は今後も続くでしょうから、物価の上昇とともに賃金が上がるよう、大企業だけでなく非正規やアルバイトの最低賃金も大幅に上げてほしいと切に願っています。」