宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

「鈴木 守著作集」の目次

2022年01月17日 | 目次

          「鈴木 守著作集」の目次
・『ビジュアル線形代数 2次行列と1次変換』  (現代数学社、昭和63年)
・『見えてくる高校数学』  (森北出版、平成8年)

『賢治と一緒に暮らした男―千葉恭を尋ねて―』(自費出版、平成23年)

『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』(自費出版、平成25年)

『羅須地人協会の終焉―その真実―』(自費出版、平成25年)

「聖女の如き高瀬露」(上田哲との共著『宮澤賢治と高瀬露』所収、平成27年)

『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(自費出版、平成28年)

『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』(電子出版、平成29年)

『「羅須地人協会時代」再検証―「賢治研究」の更なる発展のために―』 (自費出版、平成29年)

『賢治の真実と露の濡れ衣』(自費出版、平成29年)

『本統の賢治と本当の露』(ツーワンライフ出版、平成30年)

・『宮沢賢治と高瀬露―露は〈聖女〉だった―』(森義真、上田哲、鈴木守 共著、露草協会編、ツーワンライフ出版、令和2年)

 Ⅲ「宮澤賢治伝」の検証 ― 宮澤賢治と〈悪女〉にされた高瀬露 ―  鈴木 守

・『筑摩書房様へ公開質問状 「賢治年譜」等に異議あり』(鈴木 守著、ツーワンライフ出版、令和3年)

 今から約三年前に出版した『本統の賢治と本当の露』「おわり」を見返してみる。私は次のようなこと、
 恩師の岩田純蔵教授(賢治の甥)の嘆きに応えようとして、今まで約10年をかけて「羅須地人協会時代」を中心にして検証作業等を続けてきたのだがその結果は、常識的に考えておかしいと思ったところはほぼ皆おかしかった。つまり、現「賢治年譜」は歴史的事実等には忠実ではなくて、正反対なものや果ては嘘のものもあるということを明らかにできて、幾つかの隠されてきた真実や新たな真実を、延いては本統の賢治を明らかにできた。
 そこで譬えてみれば、「賢治年譜」は賢治像の基底、いわば地盤だが、そこにはかなりの液状化現象が起こっているのでその像は今真っ直ぐに建っていないと言える。当然、それを眺める私たちの足元は不安定だから、それを的確に捉えることは難しい。まして、皆で同じ地面に立ってそれを眺めることはなおさら困難だから、各自の目に映るそれは同一のものとは言い難い。したがって、「賢治研究」をさらに発展させるためには、皆が同じ地面に立ててしかも安定して賢治像を眺められるようにせねばならないのだから、まずは今起こっている液状化現象を解消せねばならない。
 …略…私の一連の主張が世間から受け容れてもらえることは今しばらくは難しいであろうことを充分承知している。それは、このような主張は私如きが申すまでもなく、少なからぬ人たちが既に気付いているはずであるのにも拘わらず、このような液状化現象が長年放置され続けてきたことがいみじくも示唆していると私は考えているからでもある。おそらく、そこには構造的な理由や原因があったし、あるのであろう。
              〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版)138p~〉
をそこで述べていた。
 そして今回、拙著『筑摩書房様へ公開質問状 「賢治年譜」等に異議あり』(鈴木 守著、ツーワンライフ出版、550円(税込み))で論じた、昭和52年発行の『校本宮澤賢治全集第十四巻』における行為、
・なぜ、「賢治の書簡下書252c」を「新発見の」と形容して公開し、しかも関連する書簡下書群及び人権侵害の虞もあるあの推定群⑴~⑺を公開したのか。
・なぜ、「「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている」という非論理的な「理由」で、他人の証言内容を一方的に書き変えてしまったのか。
・「一次情報に立ち返れ」、という研究における大原則を蔑ろにしたが故の、「昭和二年は非常な寒い氣候…ひどい凶作」という誤認。
などは、この「液状化現象」の具体的な事例である。

 では、どうしてこのようなとても筑摩書房らしからぬ事柄が第十四巻で引き起こされたのか。三年前の私にはそれがとても不思議だったし、その理由や原因も全く分からなかった。

 それがこの度、その大きな原因が私なりにはっきりした。それは、「倒産(昭和53年)直前の筑摩書房は腐りきっていました」ということがなさしめたのだと領会できたからだ。それも「腐っていた」ではなく、「腐りきっていました」という表現だったからなおさらにだ。言い方を換えれば、前掲したような、筑摩らしからぬ事柄が倒産直前に起こったことと、『事故のてんまつ』の「絶版回収事件」とは根っこが同じだったのだ、と知ったのだった。
 ところが残念なことは、筑摩は『事故のてんまつ』の出版に関しては昭和52年のうちに絶版回収とし、厳しく「総括」し、その「総括見解」を公にして詫びたのだが、『校本全集第十四巻』の出版に関してはそれらを為さなかったことだ。しかも、これらの筑摩らしからぬ事柄については、その後平成になってから出版された『新校本年譜』でもほぼそっくりそのまま引き継がれているので、「液状化現象」は解消されずに残ったことだ。
 その結果起こったことの最たるものが、高瀬露はとんでもない悪女であるという濡れ衣が着せられて、それが等閑視されてきたという人権侵害である。その一方で、これと関連する書簡下書群の安易な公開によって、賢治には、「背筋がひんやりしてくるような冷酷さ」があったということを世に知らしめてしまい、賢治のプライバシー権を侵害してしまったことである。

 そもそも、現「賢治年譜」には、常識的に考えておかしいことが少なからず記載されている(たとえば、拙著『本当の賢治と本当の露』の〝2.「賢治神話」検証七点〟をご覧頂きたい)ということに研究者等が気付かぬはずがない。しかしながら、それらが訂正されそうな気配は相変わらずない。ということは、それぞれ諸般の事情があるからなのであろう。が、門外漢で非専門家の私は何も失うものはない。そこへもってきて、高橋征穂(露草協会会長)先輩からの助言もあり、私はもう筑摩に遠慮などせずに、はっきりと異議を申し立てる、

 いつまでもこれらのことを筑摩書房が等閑視していることは許されない。賢治研究の発展のために、そして賢治の名誉や露の人権等を取り戻すために、まずは、『校本全集第十四巻』についての「総括見解」を、『事故のてんまつ』の場合と同様に公開せよ。
 そしてまた、『新校本年譜』についても再検証せねばならないはずだ。
 それとも、このままでいいのだと仰るのですか。

という異議をである。
 それは、社史『筑摩書房 それからの四十年』の「あとがき」の中に、
 もしも、あのとき倒産していなかったら、筑摩書房はどんどん腐り続けていったことでしょう。しかし、幸いにして倒産した。倒産したから一から出直すことができた。もちろん、そのために払った犠牲はとても大きなものです。多くの人に迷惑をかけました。だけど、倒産しなかったなら、もっと大きな犠牲を払わなければならなかったのではないか。
というような省察があり、確かにそのとおりだと肯えるからでもある。つまり、もし、第十四巻に関してこの「省察」のとおりにしていなかったならば、その結果はどうなっているかということをこの「省察」自体が教えてくれるからである。
 そこで、はばかりながら正直に申し上げる、
 たしかに『事故のてんまつ』に関しては、この「省察」のとおり「一から出直すことができた」と言えると思うが、『校本全集第十四巻』に関しては一から出直したとは言えないのではないですか。
と。さらに危惧されることは、
 このまま等閑視を続けていれば、あまりにも安易な論理に基づいた、あるいは論理以前で、根拠さえも示さずに決めつけている個所が散見される現「賢治年譜」が、今後も人々に使われ続けることになる。すると、とりわけ、純真な子どもたちに今後も嘘の賢治を教え続けることになりかねず、それは避けねばならない。
ということである。そして懸念されることが、
 これらの筑摩らしからぬ事柄が引き起こされた最大の原因は、当時の「筑摩書房は腐りきって」いたからだということがもはや疑いようがないと認識してしまった私には、『校本宮澤賢治全集第十四巻』の記載内容はどこまでが本当のことなのだろうかと、延いては『新校本年譜』についても同様に疑心暗鬼に陥ってしまったことだ。また、そのような疑心暗鬼をこの拙著を読んだ方も抱くであろう。
ということだ。
 ついては、筑摩書房様にはこのような疑心暗鬼の払拭にも取り組んでいただきたい。あるいは逆に、私の主張(検証できた仮説等)には間違いがないものと確信はしているが、もし間違っていると仰るのであれば、その反例等を突きつけていただきたい。その場合には私は潔く当該の仮説等を棄却いたしますので。例えば、なぜ「新発見の252c」とし、はたまた、「判然としている」と断定できたのかというその典拠を突きつけていただきたい。

【新刊『筑摩書房様へ公開質問状 「賢治年譜」等に異議あり』(鈴木 守著、ツーワンライフ出版、550円(税込み))の表紙】

【目次】

【序章 門外漢で非専門家ですが】


【終章】




 なお、当地(お住まいの地)の書店に申し込んで頂ければ、全国のどの書店でも取り寄せてくれます。
 また、近々アマゾン等でネット販売もなされる予定です。
 是非ご購読頂き、理不尽にも着せられてしまった高瀬露の濡れ衣を一緒に晴らしてまいりませんか。 

【表紙の中の白い片栗】

 この三輪の白い片栗は、令和3年4月27日に種山高原で出会ったものであり、

 白い片栗はまるで、賢治、露、そして岩田純蔵先生の三人に見えた。
 そして、「曲学阿世の徒にだけはなるな」と檄を飛ばされた気がした。

                           著者 鈴木 守

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