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《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
この度、『宮澤賢治と高瀬露』を出版いたしましたのでご案内いたします。
この本の構成は二部構成になっており、
Ⅰ 「宮沢賢治伝」の再検証㈡ ―〈悪女〉にされた高瀬露― 上田 哲
(『七尾論叢 第11号』(吉田信一編集、七尾短期大学発行)より転載)
Ⅱ 聖女の如き高瀬露 鈴木 守
となっております。(『七尾論叢 第11号』(吉田信一編集、七尾短期大学発行)より転載)
Ⅱ 聖女の如き高瀬露 鈴木 守
不思議なことに、上田哲の上掲論文が所収されている『七尾論叢 第11号』が所蔵されている図書館等は、私の調べた限りでは金沢大学付属図書館しかなく、一般市民が同論文を読むことは事実上困難である。
【参照:本書〝「「宮沢賢治伝」の再検証㈡― <悪女>にされた高瀬露―」の転載について〟】
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そこで、この論文を多くの人々に読んでもらいたいと願って、上田哲のご遺族から同論文の転載許可をいただき、その旨を当時の同論叢の編集委員であった三浦庸男氏(現在は埼玉学園大学教授)にご報告したところ、もはや七尾短期大学は存在していなこともあり、転載は問題ないだろうという御判断を頂戴したので転載させていただいた次第である。
【参照:本書〝「「宮沢賢治伝」の再検証㈡― <悪女>にされた高瀬露―」〟の1頁目】
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【参照:本書〝「「宮沢賢治伝」の再検証㈡― <悪女>にされた高瀬露―」〟の21頁目(最終頁、未完で終わっている)】
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一方の、後者については、当ブログの『聖女の如き高瀬露』を増補改訂したものである。その内容は次の〝目次〟のとおりである。
【参照:〝聖女の如き高瀬露〟の目次】
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また、
【参照:〝聖女の如き高瀬露〟の〝はじめ〟】
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である。
◇宮澤賢治研究の発展を希求する
さて、ここまで私なりに「人間賢治像」を自分の手と足で検証してきた。そしてそのことを通じて、『春と修羅 第一集』はこれからも誰にもスケッチできないものだろうと、また、『やまなし』とか『おきなぐさ』そして『よだかの星』や『銀河鉄道の夜』はやはりこれからもこよなく私が愛し続ける童話であろうと確信できた。しかしながら、『グスコーブドリの伝記』や『春と修羅 第三集』そして『雨ニモマケズ』に対する私の評価は一変してしまった。なぜなのだろうか。
それは、この拙著を著すことを通じて、昭和3年6月の上京は逃避行であったとも見られる賢治と、その頃、『二葉保育園』でスラム街の子女の保育のために献身していた聖女の如き伊藤ちゑとでは比べものにならないことや、この拙著の主人公高瀬露については、賢治が聖人君子に祭り上げられる一方で巷間露は<悪女>とされているが、実は露はそれと全く逆の〈聖女〉であったということなどを知ってしまったからだろうか。
あるいは、賢治は「農聖石川理紀之助に続く系譜を正しく継ぐ人」だと言う人がいたから過日私は潟上市に行ってみたが、この目で実際に石川の実践の一端を垣間見たならば、羅須地人協会時代に行った賢治の実践は石川のそれと比べれば全然叶わないものだったということが直ぐわかったからだろうか。
そこで私は悩む。誤解を恐れずに言えば、例えばこれらの三人に比して「人間賢治」が勝っていた点は一体どこなのだろうかと。言い方を換えれば、巷間言われている「人間賢治像」はどうやらかなり創り上げられたものではなかろうかと。もしそうであるとしたならば、もともと「真実は隠せない」はずで、真実は隠すものでもなければはたまた何時までも隠しおおせるものでもなかろうから、巷間流布している「人間賢治像」は逆に賢治のことを実は貶めているのではなかろうかと。だから、私たちはもうそろそろ《創られた賢治から愛すべき賢治に》という時代を受け容れてもいいのだと覚悟すべきではなかろうか、と。
それから、このこと以上に喫緊の重要課題が見つかった。それは、巷間流布している〈露悪女伝説〉は全くの捏造だったということがわかったからそのことを世間にまず知ってもらうことだ。そしてそれは私の願いでもあり、賢治の願いでもあるはず。なぜなら、『賢治を聖人君子にするために、<聖女>だった露を、あろうことか誰かがとんでもない<悪女>に仕立てしまった』ということがどうやら明らかになりつつある今、天上の賢治は、自分にもその結果責任があると受けとめ、一刻も早く露の冤罪が晴れることを願っているはずだからである。
ところで、賢治のことをよく知っているある人が「通説となっている賢治」は実はこうだったということを公に発言した途端、周りから一斉に集中砲火を浴びてしまってその人はその後一切口をつぐむしかなかった、という事実がかつてあったということを私は地元にいることもあって聞き及んでいる。ところがそれに近いことが今の世の中でもあるということを私自身が経験した。それは、先に私は次のような仮説
賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。
を立て、拙著『羅須地人協会の真実 ―賢治昭和二年の上京―』にてその検証ができた。ところがツイッター上で、『宮澤賢治奨励賞』受賞者H氏を含む仲間同士が、この拙著を『根拠なき「陰謀論」』であると決めつけたり、「稚拙滑稽噴飯墓穴唖然呆然」という言葉で誹ったりして面白おかしく論って下さったからだ。さらには、そのH氏からは『「理不尽なペンの暴力」を振るっていることになってしまわないか』『「フォースの暗黒面に堕ちていた」ということになりますが』とか、彼の仲間であるsignaless氏からは『このまま行くとほんとうに墓穴を掘ることになります』などの脅しのようなものを私のブログのコメント欄に直接書き込んで頂いたからだ。しかし、賢治も亡くなってはや80年以上が過ぎたのだから、もうそろそろこのような圧力を受けることなく自由に「宮澤賢治研究」ができる時代になってほしいし、その発展を希求する。
なお、拙著既刊は次のとおりです。
(Ⅰ)既刊『羅須地人協会の終焉-その真実-』
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(Ⅱ)既刊『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京』
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(Ⅲ)既刊『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて』
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―以上
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