宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

166 小作人と農村劇

2009年07月23日 | Weblog
     <↑『宮澤賢治精神の実践』(安藤玉治著、農文協)より>

1.農村劇をやれ
 その後、松田甚次郎は故郷鳥越村に帰って賢治のこの”訓へ”のとおりに小作人となり、村社の八幡神社境内に土舞台を作ってそこで農村劇を行ったりして、毎年のように農村劇を公演したという。
【Fig.1 上演中の舞台】

  <『宮澤賢治精神の実践』(安藤玉治著、農文協)より>
 具体的には以下のとおりである。
昭和2年4月25日   鳥越倶楽部を結成する
  〃 9月10日   農村劇「水涸れ」公演
昭和4年       農村劇「酒造り」公演
昭和5年9月15日   農村劇(移民劇)公演
昭和6年9月     農村劇「壁が崩れた」公演
昭和7年2月     農村劇「国境の夜」公演
昭和8年2月     農村劇「佐倉宗吾」公演
昭和9年       農村喜劇「結婚後の一日」公演
昭和10年12月     「ベニスの商人」公演
  〃  暮     選挙粛正劇「ある村の出来事」公演
昭和11年4月     農村劇「故郷の人々」「乃木将軍と渡守」公演
昭和12年1月10日  「農村劇と映画の夕」公開
            (実家の都合により塾一時閉鎖)
            (昭和13年5月18日  「土に叫ぶ」出版)
昭和13年      農村劇「永遠の師父」公演
昭和14年8月15日  農村劇「双子星」公演
昭和15年       二千六百年奉祝の舞踏と奉祝歌公演
昭和17年2月     農村劇「勇士愛」公演
昭和18年3月21日   「種山ヶ原」「一握の種子」公演
昭和18年8月4日   松田甚次郎逝去(享年35歳)
<『土に叫ぶ』及び『宮澤賢治精神の実践』(安藤玉治著、農文協)の年譜より抜粋)>

2.小作人になれ
 そして賢治の”訓へ”のもう一つ
 農民として真に生くるには、先づ真の小作人たることだ。小作人となって粗衣粗食、過労と更に加わる社会的経済的圧迫を経験することが出来たら、必ず人間の真面目が顕現される。
のとおりに甚次郎が小作人になったことはもちろんである。
 盛岡高等農林を終えた甚次郎は古里鳥越に帰って早速父を説き伏せ、小作人となることを許された。そのことを
 父から六反歩の旱魃田の小作を許された時の喜びは何と言って言い現してよいかわからぬ。
 かうして私は帰農の人となったのである。

と甚次郎は『土に叫ぶ』において素直にその喜びを語っている。
 しかし、6反歩の小作では、小作料と肥料代を払ったら手許に残るのは僅かである。そこで甚次郎が採った考えは、金肥を全廃して身の回りにあるものを生かして土地を肥やすことだった。
 そのために行ったのが、村の衆から「松田の息子が又ボロ臭い着物を着て、下肥汲みに行った。あんなに汲んでどうするのだ」などと笑い物にされながらの自給肥料の増産であった。具体的には
・下肥汲み(知人や親類からの)→1年間で600貫の下肥を汲んだ
・川芥を集めて堆肥の材料に→3年間で800貫近く集めた
・落葉を   〃     →250貫ほど集めた
・これらの集めたもので1400貫の堆肥を作った
等であり、同著に詳しく書いてある。
 なお、この甚次郎のリサイクルの考え方は横井時敬博士の経済原則
「自己の労力を貨幣化することなしに、また貨幣化されたる他の労力を購入することなしに、家族的に独立経営し、農家生活の第一生活必需品の大部分と、第一生産手段の大部分とを自家生産し、それを基礎として能ふ限り多くの市場生産をあげんとするに、能ふ限りの経済的合理的ならしめんとするを以てす」
に依っているということも同著で触れている。
 そして、実際こうして作った堆肥を使った5反歩の田圃からの収穫は、初年度は平年作よりも2俵の増収、次の年はかなりの旱魃だったにもかかわらず平年作、更に次の年は反あたり6俵もとれるようになった。金肥代は要らず、5俵も増収してこんなよい方法はないということになったと、その成果の程が同著に書かれている。
 もちろん、自給肥料だけでは甚次郎の理想とする農業には近づけないので、甚次郎が行ったことは他にもまだある。
 例えば、最初に行ったことは緬羊の飼育である。それは、粗飼料でよいことと羊毛がホームスパンに出来ることなどからであった。
 その他にも、詳細は記さないが
・養蜂
・耕馬の育成
・サイロの建設と活用
・養鶏
・山岳立体農業
・麹、醤油、澱粉、味噌、水飴、缶詰作り
・ホームスパン(松田式紡毛機を発明)
なども行った。
 それは、甚次郎の
 日本の本当の農業は、家族的に勤労し、社会的に協働し、自作、自営、自給独立の過剰生産を以て、社会国家に献ずるの真意義をさとるにある。さうすれば自然と衣食が足るのである。営利主義的個人主義的経営は如何にこれを合理化した処で、直ちに行き詰まって来るのである。
という考え方に依ったものだったのであろう。

 ところで、いま巷ではエコロジーという言葉が氾濫し、もてはやされているが、いまから約80年も前の時代に持続可能な農業を実践して成果を上げていた甚次郎の先見性は流石であり、彼こそ究極のエコロジストの一人と言ってもいいのではなかろうか。とすれば、彼の考え方・生き方からは農家のみならず、いまを生きる一般市民が学ぶべきところも少なくないはず。かつてのベストセラー作家松田甚次郎は人々から忘れ去られてしまっているが、今後彼は再評価されていくのではなかろうか。

3.農村生活の向上
 ここでは、甚次郎が農村劇や農業以外に行った生活改善や農村向上などに関する主なことを『土に叫ぶ』からピックアップして報告したい。
(1) まずは「鳥越倶楽部」について
 甚次郎が帰郷して最初に行ったことは「鳥越倶楽部」の発足である。農村劇を実現するためにという深慮遠謀を持ちながら、昭和2年4月25日に15、6名の仲間と一緒に誕生させた会である。会則は次の3つのみ
一 天皇陛下の後光の下に、鳥越彌栄に全力を盡さん
一 我等は郷土文化の確立、農村芸術の振興に努めん
一 我等は農民精神を鍛錬し、以て農民の本領を果さん
であったという。当初その会で行ったことは、富田文雄氏の『農民読本』の研究や、ワンダーフォーゲルだったという。
 そしてこの会のメンバーに働きかけて、甚次郎が水不足の自分の田圃に水を掛けるための苦労・経験を素材にした農村劇「水涸れ」をその秋に公演できた。
(2) 昭和3年の日本国民高等学校入学について
 甚次郎は昭和2年の小作した水田から得た収入によって一年間日本国民高等学校入学し在学した。それは、
 精神鍛錬と農民の信念を確立するため、私は加藤完治先生が校長をして居られる日本高等国民学校に在学した。
のだという。
 なお、甚次郎不在のこの一年間「鳥越倶楽部」は周りから迫害を受け、農村劇も実演されなかったという。
(3) 昭和4年、鳥越倶楽部に女子部を設置、盆踊り復活・公開。
  禁酒運動を起こし、1週間毎晩、の各所で同志と共に「止めよ酒を、排せよ酒を」と声を嗄らして街頭演説を行ったりした。
(4) 昭和5年秋、第1回敬老会開催
(5) 昭和6年、大日本聯合青年指導者養成所入所し2ヶ月受講する。
(6) 昭和7年5月、寺崎睦子と結婚。
  8月、6坪の麹室建設 澱粉製造機を購入し片栗粉の自給開始。
  8月14日、「最上共働村塾」開塾。
 基営林署の番小屋を使って名もなし、塾則もないままに10人が参加して2週間の短期村塾を開いた。農村向上のために修行研究をしようと固い誓ふをたて、世にも最上なる村塾としよう、そして我等の共に働くことから出来たのだから、『最上共働村塾』と命名したのである。
  このころ、甚次郎は赤化思想の持ち主という風評が立つ。
(7) 昭和8年1月、小野寺武夫を訪ね居候。
  1月14日、『有栖川宮記念厚生資金』拝受。
   この奨励金拝受により赤化思想の持ち主という風評を払拭できたとのこと。
  4月12日頃、村塾舎完成。
  4月、「鳥越出産相扶会」結成。
  5月1日、農繁期託児所開設。
  10月30日、鳥越記念隣保館落成。
   この隣保館は、託児所、諸集会、敬老会、母の会、夜間青年学校、裁縫塾などに利用された。
【Fig.2 鳥越記念隣保館】

   <『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)より>
(8) 昭和10年6月、農繁期協働炊事場設置。
(9) 昭和11年6月、共同浴場完成。
  8月、実家の転落を見るに忍びず、村塾と実家の経営合併。
(10) 昭和12年8月、実家の都合などにより村塾を閉鎖。
  11月、塾生活を辞し鳥越の実家に戻る。
(11)昭和13年春、羽田書店主から10年の生活の記録を書いて欲しいと頼まれて執筆開始。
  肋膜炎と中耳炎を患い療養生活を送る。
  5月18日、『土に叫ぶ』というタイトルで出版。
 
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