今まで少しく千葉恭のことを調べてきて知ったのが、千葉恭自身が書き残している賢治関連の資料は少なからず存在しているのに、千葉恭と賢治との関係に言及している恭以外の賢治周辺の人物が書き残している資料はなさそうだということである(私の管見のせいかもしれぬが)。千葉恭は賢治とおそらく8ヶ月間強を下根子桜で一緒に暮らしているはずなのに、また二人の付き合いは大正13年~少なくとも昭和2年頃までの足かけ4年の長期間に亘っていると思われるのに、賢治の周りのだれ一人として千葉恭に関して言及した資料を残していない。もっと正確に言えば、一切そのような資料はいままで明らかになっていないと思うのである。
あまりにもこれは不思議なことである、千葉恭が著した資料以外に客観的に賢治と千葉恭の関係を示す資料はなぜ何一つ存在しないのだろうか。賢治から千葉恭に宛てた書簡などもあったそうだが、それは昭和20年の久慈大火の際に焼失してまったと千葉恭は言っていたそうだからやむを得ないにしても…。絶対未だ公になってない資料が必ずあるに違いない、そう思っていた矢先にある資料が眼に留まった。
1 賢治の〔施肥表 A〕の〔一一〕
それは賢治の肥料設計を多少検証をしてみようと思って『校本宮澤賢治全集十二巻(下)』掲載の17枚の〔施肥表 A〕を眺めていたときのことである。私は吃驚、そしてやった!と飛び上がってしまった。
驚いたのは〔施肥表 A〕の〔一一〕にである。その表には
場処 真城村 町下
そして
反別 8反0畝
とあったからである。
あれっ〝真城〟といえば他でもない千葉恭の実家のある所だ。そして閃いた、この〝真城村町下〟とは千葉恭の実家の田圃のあった場所でななかろうかと。それは、何かで千葉恭は実家には田圃が8反、畑が5反あると言っていたということを思い出したからである。確認してみると 「宮澤先生を追つて(二)」の中で千葉恭は
鋤を空高く振り上げる力の心よさ!水田が八反歩、畑五反歩を耕作する小さな百姓だが何かしら大きな希望が見出した様な氣がされました。
と言っている。たしかに実家の水田は8反であった。したがって千葉恭の実家では当時真城の〝町下〟というところに8反の田圃を持っていたという推論ができそうだ。
もしこの推論が正しければ、この施肥表は賢治が千葉恭に対して設計したやったものとなろう。ということは、この施肥表は千葉恭以外の人物が残した賢治と千葉恭の関係を示す客観的な、そして私にとっては初めての資料であると言える。私は居ても立ってもいられなくなり、早速千葉恭の三男M氏に電話をして長兄のEさんにお会いできないでしょうかとお願いしてみた。E氏は千葉恭の長男であり、実家の田圃について詳しく知っていると思ったから直接E氏をお訪ねして、当時〝町下〟に8反の田圃があったか否か、あればその場所を確認したかったからである。するとM氏は快くE氏の連絡先を教えて下さったので私は時を置かずE氏に電話をした。そしてE氏に事情を説明して、近々お訪ねしたいのですがとお願いしたところ快諾をいただきお邪魔できることになったのである。
2 3枚の〔施肥表A〕
おそらく賢治が千葉恭に設計してやったものであろうと思われる〔施肥表A〕〔一一〕の存在を知ることができたし、その件に関わって千葉恭の長男Eさんに会うこともできることとなった。思わぬ進展に嬉しくなったのだが、その喜びに浸りつつ『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』の続きの頁を捲っていったならばさらに確信が深まって行くのだった。
というのは、この施肥表〔一一〕の他に同著には同〔一五〕と〔一六〕が載っておりそれぞれの〝場処〟は
前者の場処は 真城村堤沢
と
後者の場処は 真城村中林下
となっていたからである。
すなわちこれら3枚の〔施肥表A〕の〝場処〟はいずれも千葉恭の帰農先、実家のある真城村のものであった。さらに、これらの3枚の左上隅には
〔一一〕の場合〝D〟
〔一五〕 〃 〝E〟
〔一六〕 〃 〝C〟
の記載がある。この『校本全集』に所収されている17枚の〔施肥表A〕のうちこれら3枚以外にはそんなアルファベットの記載はない。ということは、これら3枚はワンセットのものであり、同時期にまとめて賢治が設計した施肥表に違いないはず。それもC、D、Eの3枚があるということは少なくともA~Eの5枚はあったはずであろう。
これだけの枚数を真城村の人たちが賢治に肥料設計をしてもらったのはなぜか、それはあの千葉恭が仲間と語らって組織した「研郷會」の会員の何人かが賢治に肥料設計を依頼したからでなかろうか、私にはそのそのように推理できた。というのは、以前「宮澤先生を追つて(二)」で触れたように、千葉恭は帰農後もしばしば下根子桜を訪れて賢治から指導を受けていたということを次のように述べていたからである。
…農作物の耕作に就いては種々のご教示をいたゞいて家に歸つたものです。歸つて來るとそれを同志の年達に授けて実行に移して行くのでした。そして研郷會の集りにはみんなにも聞かせ、その後成績を發表し合ひ、また私は先生に報告するといつた方法をとり、私と先生と農民は完全につなぎをもつてゐたのです。
<『四次元 5号』(昭和25年3月、宮沢賢治友の会)より>
このような指導の一環として賢治からは施肥の指導も受けたことであろう。その具体的な一つの例がこれら3枚の施肥表であり、おそらくこの3枚は千葉恭及び「研郷會」の他の会員分2枚を千葉恭が取りまとめて下根子桜に持参してきて賢治に肥料設計を依頼したものに違いないと確信した。
なお、これら17枚の施肥表のうちの何枚かにはそれぞれの提供者名のメモがあると同『校本全集』の〝校異〟にはただし書きがある。したがってこの3枚の施肥表にも同様提供者名の記載があればことは簡単に解決して確信は事実に変わるはずなのだが、残念ながらこの3枚の施肥表にはその記載はなかった(おそらくこれらの施肥表の原本にはその提供者名のメモがあるのだと思うが、『校本全集』にはその氏名が書きされていないだけのことと思う。さもなければ貴重な資料の取り扱いのマナーに反するはずだからである。いつか機会があればこれらの原本を是非見せてもらいたいものである)。
こうなれば、ますます早く千葉恭の長男のE氏に会いたくなってきた。そして田圃の確認をし、千葉恭の実家の近くには〝町下〟だけでなく
〝堤沢〟及び〝中林下〟
という地名もあるのかを確認したくなった。もしこれらの地名がその辺りにあれば、これらの施肥表は99%、賢治が千葉恭を通じて肥料設計してやったものだろうと断言出来ると思ったからである。
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あまりにもこれは不思議なことである、千葉恭が著した資料以外に客観的に賢治と千葉恭の関係を示す資料はなぜ何一つ存在しないのだろうか。賢治から千葉恭に宛てた書簡などもあったそうだが、それは昭和20年の久慈大火の際に焼失してまったと千葉恭は言っていたそうだからやむを得ないにしても…。絶対未だ公になってない資料が必ずあるに違いない、そう思っていた矢先にある資料が眼に留まった。
1 賢治の〔施肥表 A〕の〔一一〕
それは賢治の肥料設計を多少検証をしてみようと思って『校本宮澤賢治全集十二巻(下)』掲載の17枚の〔施肥表 A〕を眺めていたときのことである。私は吃驚、そしてやった!と飛び上がってしまった。
驚いたのは〔施肥表 A〕の〔一一〕にである。その表には
場処 真城村 町下
そして
反別 8反0畝
とあったからである。
あれっ〝真城〟といえば他でもない千葉恭の実家のある所だ。そして閃いた、この〝真城村町下〟とは千葉恭の実家の田圃のあった場所でななかろうかと。それは、何かで千葉恭は実家には田圃が8反、畑が5反あると言っていたということを思い出したからである。確認してみると 「宮澤先生を追つて(二)」の中で千葉恭は
鋤を空高く振り上げる力の心よさ!水田が八反歩、畑五反歩を耕作する小さな百姓だが何かしら大きな希望が見出した様な氣がされました。
と言っている。たしかに実家の水田は8反であった。したがって千葉恭の実家では当時真城の〝町下〟というところに8反の田圃を持っていたという推論ができそうだ。
もしこの推論が正しければ、この施肥表は賢治が千葉恭に対して設計したやったものとなろう。ということは、この施肥表は千葉恭以外の人物が残した賢治と千葉恭の関係を示す客観的な、そして私にとっては初めての資料であると言える。私は居ても立ってもいられなくなり、早速千葉恭の三男M氏に電話をして長兄のEさんにお会いできないでしょうかとお願いしてみた。E氏は千葉恭の長男であり、実家の田圃について詳しく知っていると思ったから直接E氏をお訪ねして、当時〝町下〟に8反の田圃があったか否か、あればその場所を確認したかったからである。するとM氏は快くE氏の連絡先を教えて下さったので私は時を置かずE氏に電話をした。そしてE氏に事情を説明して、近々お訪ねしたいのですがとお願いしたところ快諾をいただきお邪魔できることになったのである。
2 3枚の〔施肥表A〕
おそらく賢治が千葉恭に設計してやったものであろうと思われる〔施肥表A〕〔一一〕の存在を知ることができたし、その件に関わって千葉恭の長男Eさんに会うこともできることとなった。思わぬ進展に嬉しくなったのだが、その喜びに浸りつつ『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』の続きの頁を捲っていったならばさらに確信が深まって行くのだった。
というのは、この施肥表〔一一〕の他に同著には同〔一五〕と〔一六〕が載っておりそれぞれの〝場処〟は
前者の場処は 真城村堤沢
と
後者の場処は 真城村中林下
となっていたからである。
すなわちこれら3枚の〔施肥表A〕の〝場処〟はいずれも千葉恭の帰農先、実家のある真城村のものであった。さらに、これらの3枚の左上隅には
〔一一〕の場合〝D〟
〔一五〕 〃 〝E〟
〔一六〕 〃 〝C〟
の記載がある。この『校本全集』に所収されている17枚の〔施肥表A〕のうちこれら3枚以外にはそんなアルファベットの記載はない。ということは、これら3枚はワンセットのものであり、同時期にまとめて賢治が設計した施肥表に違いないはず。それもC、D、Eの3枚があるということは少なくともA~Eの5枚はあったはずであろう。
これだけの枚数を真城村の人たちが賢治に肥料設計をしてもらったのはなぜか、それはあの千葉恭が仲間と語らって組織した「研郷會」の会員の何人かが賢治に肥料設計を依頼したからでなかろうか、私にはそのそのように推理できた。というのは、以前「宮澤先生を追つて(二)」で触れたように、千葉恭は帰農後もしばしば下根子桜を訪れて賢治から指導を受けていたということを次のように述べていたからである。
…農作物の耕作に就いては種々のご教示をいたゞいて家に歸つたものです。歸つて來るとそれを同志の年達に授けて実行に移して行くのでした。そして研郷會の集りにはみんなにも聞かせ、その後成績を發表し合ひ、また私は先生に報告するといつた方法をとり、私と先生と農民は完全につなぎをもつてゐたのです。
<『四次元 5号』(昭和25年3月、宮沢賢治友の会)より>
このような指導の一環として賢治からは施肥の指導も受けたことであろう。その具体的な一つの例がこれら3枚の施肥表であり、おそらくこの3枚は千葉恭及び「研郷會」の他の会員分2枚を千葉恭が取りまとめて下根子桜に持参してきて賢治に肥料設計を依頼したものに違いないと確信した。
なお、これら17枚の施肥表のうちの何枚かにはそれぞれの提供者名のメモがあると同『校本全集』の〝校異〟にはただし書きがある。したがってこの3枚の施肥表にも同様提供者名の記載があればことは簡単に解決して確信は事実に変わるはずなのだが、残念ながらこの3枚の施肥表にはその記載はなかった(おそらくこれらの施肥表の原本にはその提供者名のメモがあるのだと思うが、『校本全集』にはその氏名が書きされていないだけのことと思う。さもなければ貴重な資料の取り扱いのマナーに反するはずだからである。いつか機会があればこれらの原本を是非見せてもらいたいものである)。
こうなれば、ますます早く千葉恭の長男のE氏に会いたくなってきた。そして田圃の確認をし、千葉恭の実家の近くには〝町下〟だけでなく
〝堤沢〟及び〝中林下〟
という地名もあるのかを確認したくなった。もしこれらの地名がその辺りにあれば、これらの施肥表は99%、賢治が千葉恭を通じて肥料設計してやったものだろうと断言出来ると思ったからである。
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