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”東北砕石工場(その1)”の続きである。
旧東北砕石工場の貯蔵サイロ内の
《1 ハッカー機?》(平成20年12月4日撮影)
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この機械で製品のタンカルを袋詰めして、前回報告したトロッコで陸中松川駅まで運んだのだろ。
《2 工具の展示》(平成20年12月4日撮影)
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もあり、石灰石粉の製造図が書いてある。
《3 東北砕石工場の説明板》(平成20年12月4日撮影)
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《4 東北砕石工場》(平成20年12月4日撮影)
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《5 現在操業中の工場》(平成20年12月4日撮影)
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現在でもこの東山町には石灰関係の工場が5社ほど操業しているという。この『旧東北砕石工場』は次の写真のように石灰山を背に山と一体化して造られているが、現在の工場は山を大々的に露天掘りしているのだそうだ。
《6 工場の外観》(平成20年12月4日撮影)
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《7 工場(見学ギャラリー)入り口》(平成20年12月4日撮影)
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《8 登録有形文化財》(平成20年12月4日撮影)
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建物の中にはいると
《9 工場案内》(平成20年12月4日撮影)
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があり、
《10 賢治と鈴木東蔵》(平成20年12月4日撮影)
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の写真があり、東北砕石工場の説明が書いてある。
鈴木東蔵のご子息鈴木 實氏は『宮澤賢治と東北碎石工場』で次のように述べている。
翌六年、父は元朝參りを濟ませ、事務員を伴って工場に行った。非常に字の上手な事務員でもあったので、彼に命じ、「東北碎石工場技師を命ず」と辭令を書かせ、賢治宛に發送した。それから二日程たつと、賢治から花巻に来て欲しいとの返事が屆いた。父は何か失禮なことでもしたのではないかと案じながらおそるおそる花巻に行ったと云う。その日は或る旅館に泊まり翌日參上したら、政次郎様から「仰せの通り賢治を技師として上げます。資本も必要であればお貸し致しましょう」、と話されたので、父は全くの意外のことに驚いた。契約書は、何囘か練り直して書き上げられ五百圓を借りて歸ることが出來た。當時の五百圓は工場にとってかなりの金額であった。かくして賢治と碎石工場の新しい關係が始まつた。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、筑摩書房)より>
と紹介している。
政次郎の父親としての心の内が伝わってくる。いよいよ倅の賢治が真っ当な仕事に就こうとしているのだと、さぞかし安堵したことであろう。
旧工場内にはいくつかのパネルが立ててある。
《11 工場の歴史》(平成20年12月4日撮影)
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大正13年東北砕石工場設立、昭和6年 賢治が技師として就任 その販路拡大に努める…等が書かれてる。
《12 工場内部》(平成20年12月4日撮影)
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《13 工場設立に関わった人びと》(平成20年12月4日撮影)
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《14 工場内部》(平成20年12月4日撮影)
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柱に懸けてある”就業中”の札に歴史を感じる。
《15 工場を訪れた賢治》(平成20年12月4日撮影)
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右から2番目の人が賢治である。このパネルには『はじめて工場を見学したときの賢治』というエピソードも書かれていて
工場を訪れたときの賢治は、黒の三つ揃いに鳥打帽子、革靴という服装でした。「革靴をはいて工場に来る人は、どんな裕福な息子か」と工場の人たちは思ったそうです。
賢治は、珍しくてしかたがないという様子でフレットミルの前に立ち、粉になるところを見て見ていたようで「さあ、あばいや(行きましょう)」と言っても動かなかったそうです。
とあり、そのフレットミルの
《16 ローラー》(平成20年12月4日撮影)
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がこれである。
《17 工場の人たちと賢治のふれあい》(平成20年12月4日撮影)
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賢治は6回工場を訪れているが、その折にはタオルやお菓子、酒、米などのお土産を持参したのだそうだ。その展示である。
《18 工場内部》(平成20年12月4日撮影)
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《19 創業当初の工場内部の様子》(平成20年12月4日撮影)
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パネルの中の『小岩井農場へはじめて石灰を納めたときの話』が次のように記載されている。
最初に小岩井農場へ納入した製品は、手で砕いていた状態で人頭大の粗いものでした。しかし、サイズが大きすぎて苦情があり、工場から二人を現地に送りました。半月近くもかかって8トンの石を砕き、ようやく納品にこぎつけたということです。
《20 工具類》(平成20年12月4日撮影)
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《21 当時の工場の人びと》(平成20年12月4日撮影)
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上の方の写真には賢治の姿も見える。この写真を摸して作ったのが後に出てくる”群像”である。
《22 坑道》(平成20年12月4日撮影)
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《23 石灰岩》(平成20年12月4日撮影)
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「太陽と風の家」では幾種類かの石を売っていたので、「石灰岩」をほしいのですがといったならば”群像ひろば”からどうぞ持って行ってください、ということだったので貰ってきた物である。なお、後のマロニエはこれもミュージアムから了解の上で貰ってきた物である。
《24 「賢治デクノボーの道」から見た工場外観》(平成20年12月4日撮影)
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《25 「賢治デクノボーの道」の由来》(平成20年12月4日撮影)
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「賢治デクノボーの道」沿いには
《26 賢治詩碑》(平成20年12月4日撮影)
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あらたなる
よきみちを得しといふことは
ただ あらたなる
なやみの道を得しといふのみ
宮 沢 賢 治
や『群像ひろば』があり
《27 群像》(平成20年12月4日撮影)
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が立っている。中に賢治の像もある。
この道を陸中松川駅に向かうと
《28 「石と賢治のミュージアム」の標識》(平成20年12月4日撮影)
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が立っていた。いつの間にか周りは真っ暗だ。
ほどなくたどり着いた
《29 陸中松川駅》(平成20年12月4日撮影)
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にはちょうど列車がプラットホームに入って来たところだった。
石灰岩を砕いて篩でこした細粒を「肥料用炭酸石灰(あるいは”タンカル”)」と名づけ、炭酸カルシウムを主成分とする肥料の製造・普及をさせようとした賢治と東蔵。タンカルの散布によって酸性土壌を中和し、土壌改良して土地本来の生命力を回復しようと願って営業に東奔西走した賢治。
そのセールスによる心身の疲労困憊ぶりはいかばかりであっただろうか。次のような文語詩未定稿『〔ひとひはかなくことばをくだし〕』からそれが窺える。
ひとひはかなくことばをくだし
ゆうべはいづちの組合にても
一車を送らんすべなどおもふ
さこそはこゝろのうらぶれぬると
たそがれさびしく車窓によれば
外の面は磐井の沖積層を
草火のけぶりぞ青みてながる
屈撓余りに大なるときは
挫折の域にも至りぬべきを
いままた怪しくせなうち熱り
胸さへ痛むはかつての病
ふたたび来しやとひそかに経れば
芽ばえぬ柳と残りの雪の
なかばはいとしくなかばはかなし
あるいは二列の波ともおぼえ
あるいは二列の雲とも見ゆる
山なみへだてしかしこの峡に
なほかもモートルとゞろにひゞき
はがねのもろ歯の石噛むま下
そこにてひとびとあしたのごとく
けじろき石粉をうち浴ぶらんを
あしたはいづこの店にも行きて
一車をすゝめんすべしをおもふ
かはたれはかなく車窓によれば
野の面かしこははや霧なく
雲のみ平らに山地に垂るゝ
<『校本 宮澤賢治全集 第五巻』(筑摩書房)より>
賢治は陸中松川駅から汽車に乗り”たそがれさびしく車窓によれば”と窓辺にもたれて花巻に戻ったのだろうか。病身をおして駆け回る賢治の徒労感が痛々しい。
一関に戻る際、県道19号線脇から
《20 見下ろした『旧東北砕石工場』》(平成20年12月4日撮影)
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である。
以上で東北砕石工場の報告終わる。
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旧東北砕石工場の貯蔵サイロ内の
《1 ハッカー機?》(平成20年12月4日撮影)
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この機械で製品のタンカルを袋詰めして、前回報告したトロッコで陸中松川駅まで運んだのだろ。
《2 工具の展示》(平成20年12月4日撮影)
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もあり、石灰石粉の製造図が書いてある。
《3 東北砕石工場の説明板》(平成20年12月4日撮影)
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《4 東北砕石工場》(平成20年12月4日撮影)
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《5 現在操業中の工場》(平成20年12月4日撮影)
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現在でもこの東山町には石灰関係の工場が5社ほど操業しているという。この『旧東北砕石工場』は次の写真のように石灰山を背に山と一体化して造られているが、現在の工場は山を大々的に露天掘りしているのだそうだ。
《6 工場の外観》(平成20年12月4日撮影)
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《7 工場(見学ギャラリー)入り口》(平成20年12月4日撮影)
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《8 登録有形文化財》(平成20年12月4日撮影)
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建物の中にはいると
《9 工場案内》(平成20年12月4日撮影)
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があり、
《10 賢治と鈴木東蔵》(平成20年12月4日撮影)
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の写真があり、東北砕石工場の説明が書いてある。
鈴木東蔵のご子息鈴木 實氏は『宮澤賢治と東北碎石工場』で次のように述べている。
翌六年、父は元朝參りを濟ませ、事務員を伴って工場に行った。非常に字の上手な事務員でもあったので、彼に命じ、「東北碎石工場技師を命ず」と辭令を書かせ、賢治宛に發送した。それから二日程たつと、賢治から花巻に来て欲しいとの返事が屆いた。父は何か失禮なことでもしたのではないかと案じながらおそるおそる花巻に行ったと云う。その日は或る旅館に泊まり翌日參上したら、政次郎様から「仰せの通り賢治を技師として上げます。資本も必要であればお貸し致しましょう」、と話されたので、父は全くの意外のことに驚いた。契約書は、何囘か練り直して書き上げられ五百圓を借りて歸ることが出來た。當時の五百圓は工場にとってかなりの金額であった。かくして賢治と碎石工場の新しい關係が始まつた。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、筑摩書房)より>
と紹介している。
政次郎の父親としての心の内が伝わってくる。いよいよ倅の賢治が真っ当な仕事に就こうとしているのだと、さぞかし安堵したことであろう。
旧工場内にはいくつかのパネルが立ててある。
《11 工場の歴史》(平成20年12月4日撮影)
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大正13年東北砕石工場設立、昭和6年 賢治が技師として就任 その販路拡大に努める…等が書かれてる。
《12 工場内部》(平成20年12月4日撮影)
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《13 工場設立に関わった人びと》(平成20年12月4日撮影)
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《14 工場内部》(平成20年12月4日撮影)
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柱に懸けてある”就業中”の札に歴史を感じる。
《15 工場を訪れた賢治》(平成20年12月4日撮影)
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右から2番目の人が賢治である。このパネルには『はじめて工場を見学したときの賢治』というエピソードも書かれていて
工場を訪れたときの賢治は、黒の三つ揃いに鳥打帽子、革靴という服装でした。「革靴をはいて工場に来る人は、どんな裕福な息子か」と工場の人たちは思ったそうです。
賢治は、珍しくてしかたがないという様子でフレットミルの前に立ち、粉になるところを見て見ていたようで「さあ、あばいや(行きましょう)」と言っても動かなかったそうです。
とあり、そのフレットミルの
《16 ローラー》(平成20年12月4日撮影)
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《17 工場の人たちと賢治のふれあい》(平成20年12月4日撮影)
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賢治は6回工場を訪れているが、その折にはタオルやお菓子、酒、米などのお土産を持参したのだそうだ。その展示である。
《18 工場内部》(平成20年12月4日撮影)
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《19 創業当初の工場内部の様子》(平成20年12月4日撮影)
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パネルの中の『小岩井農場へはじめて石灰を納めたときの話』が次のように記載されている。
最初に小岩井農場へ納入した製品は、手で砕いていた状態で人頭大の粗いものでした。しかし、サイズが大きすぎて苦情があり、工場から二人を現地に送りました。半月近くもかかって8トンの石を砕き、ようやく納品にこぎつけたということです。
《20 工具類》(平成20年12月4日撮影)
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《21 当時の工場の人びと》(平成20年12月4日撮影)
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上の方の写真には賢治の姿も見える。この写真を摸して作ったのが後に出てくる”群像”である。
《22 坑道》(平成20年12月4日撮影)
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《23 石灰岩》(平成20年12月4日撮影)
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「太陽と風の家」では幾種類かの石を売っていたので、「石灰岩」をほしいのですがといったならば”群像ひろば”からどうぞ持って行ってください、ということだったので貰ってきた物である。なお、後のマロニエはこれもミュージアムから了解の上で貰ってきた物である。
《24 「賢治デクノボーの道」から見た工場外観》(平成20年12月4日撮影)
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《25 「賢治デクノボーの道」の由来》(平成20年12月4日撮影)
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「賢治デクノボーの道」沿いには
《26 賢治詩碑》(平成20年12月4日撮影)
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あらたなる
よきみちを得しといふことは
ただ あらたなる
なやみの道を得しといふのみ
宮 沢 賢 治
や『群像ひろば』があり
《27 群像》(平成20年12月4日撮影)
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が立っている。中に賢治の像もある。
この道を陸中松川駅に向かうと
《28 「石と賢治のミュージアム」の標識》(平成20年12月4日撮影)
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が立っていた。いつの間にか周りは真っ暗だ。
ほどなくたどり着いた
《29 陸中松川駅》(平成20年12月4日撮影)
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にはちょうど列車がプラットホームに入って来たところだった。
石灰岩を砕いて篩でこした細粒を「肥料用炭酸石灰(あるいは”タンカル”)」と名づけ、炭酸カルシウムを主成分とする肥料の製造・普及をさせようとした賢治と東蔵。タンカルの散布によって酸性土壌を中和し、土壌改良して土地本来の生命力を回復しようと願って営業に東奔西走した賢治。
そのセールスによる心身の疲労困憊ぶりはいかばかりであっただろうか。次のような文語詩未定稿『〔ひとひはかなくことばをくだし〕』からそれが窺える。
ひとひはかなくことばをくだし
ゆうべはいづちの組合にても
一車を送らんすべなどおもふ
さこそはこゝろのうらぶれぬると
たそがれさびしく車窓によれば
外の面は磐井の沖積層を
草火のけぶりぞ青みてながる
屈撓余りに大なるときは
挫折の域にも至りぬべきを
いままた怪しくせなうち熱り
胸さへ痛むはかつての病
ふたたび来しやとひそかに経れば
芽ばえぬ柳と残りの雪の
なかばはいとしくなかばはかなし
あるいは二列の波ともおぼえ
あるいは二列の雲とも見ゆる
山なみへだてしかしこの峡に
なほかもモートルとゞろにひゞき
はがねのもろ歯の石噛むま下
そこにてひとびとあしたのごとく
けじろき石粉をうち浴ぶらんを
あしたはいづこの店にも行きて
一車をすゝめんすべしをおもふ
かはたれはかなく車窓によれば
野の面かしこははや霧なく
雲のみ平らに山地に垂るゝ
<『校本 宮澤賢治全集 第五巻』(筑摩書房)より>
賢治は陸中松川駅から汽車に乗り”たそがれさびしく車窓によれば”と窓辺にもたれて花巻に戻ったのだろうか。病身をおして駆け回る賢治の徒労感が痛々しい。
一関に戻る際、県道19号線脇から
《20 見下ろした『旧東北砕石工場』》(平成20年12月4日撮影)
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である。
以上で東北砕石工場の報告終わる。
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