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”羅須地人協会について(その3)”の続きである。
残念なことに、下根子桜の賢治詩碑のある場所にいま宮澤家別宅(羅須地人協会の建物)はない。
この賢治詩碑の
《1 前の広場》(平成20年12月15日撮影)
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のどこにそのようにその建物は建っていたのだろうか。手掛かりは、名残の井戸と手水鉢が残っているだけのようだ。
《2 賢治が使用したつるべ井戸》(平成20年11月23日撮影)
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なお、
《3 つるべ井戸の屋根》(平成20年11月23日撮影)
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がちょっといい。
《4 手水鉢》(平成20年9月11日撮影)
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さらに、どのようないきさつでその建物が花巻農業高校に復元さたのだろうか。一方、『おくら』さへここにはない。
何故だろうということと残念だという思いがず~っとあったのだが、最近そのうちの一部分が分かった。
それは、『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)を見ていたならば、この場所に宮沢家の別宅(羅須地人協会の建物)が次のような配置で建てられていたことが分かったからだ。
《5 詩碑付近略図》
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<『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)より>
この上図のように
《6 羅須地人協会の建物(宮澤家の別宅)》(平成20年12月11日撮影)
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が建っていたわけだ。
とすれば、この写真左側の松の木などは次の写真の詩碑の左側の松の木になるわけだ。
《7「雨ニモマケズ」詩碑》(平成20年11月23日撮影)
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さらに、同著は言う。
私は序説で、豊沢町の宮沢家の別宅と書いたが、この地方では昔「田屋」と呼んでいたものとのこと。元来、豊沢町の宮沢家の始祖で賢治の祖父喜助の病気療養のために建てたもので、一時は賢治の妹年の病室にもなっていたという。賢治も亦、この家でやがて病気になったのである。父政次郎翁は引続いて三人の病舎になったので、この家を他に譲ってしまった。買った人はほぼ原形で移転したが、たまたま賢治在職中に新築された花巻農学校の後身花巻農業高等学校が、花巻空港に近い現在地に移転新築された時、その敷地に隣接した所にあったのを、同窓会の手で譲り受け、現状に復元したのであるとのことである。 それは、「小サナ萱ブキノ小屋」ではなく柿葺木造二階建ての普通の家で、階下に二間・階上一間あり、二階と下の一間の八畳の座敷には押入と床の間がついており、玄関・風呂場・便所もあり、下の八畳は三方をめぐって長い板廊下になっていた。炊事場は北裏の井戸端から一段低い所に別棟になっていたが、賢治は風呂をたてず、ここで水浴していたとのことである。
と。
因みに、
《8 北裏の井戸端の一段低い所周辺》(平成20年12月11日撮影)
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《9 一段低い所》(平成20年12月11日撮影)
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がここであり、別棟(炊事場等)がここにあったことになる。
さて、気になるのは『おくら』のことである。『詩碑付近略図』にはこの『おくら』は記載されていないから別棟のことだったのだろうか。
では、次は『おくら』へ行ってみよう。宮沢賢治詩碑入り口に戻ると茅葺きの
《10 同心屋敷》(平成20年12月15日撮影)
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が見えるはずである。なお、写真の右端の白い標識は『弥助橋跡』のものである。
同心屋敷の前の駐車場にある『新奥の細道』の
《11 コース案内図》(平成20年12月15日撮影)
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の中の現在地、赤丸付近が『おくら』のある場所である。
具体的にはこの案内図の逆方向にある
《12 同心屋敷側》(平成20年12月15日撮影)
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方向を見わたせば、写真の右奥のような小屋が見つかるはずである。つまり、
《13 これが『おくら』》(平成20年12月15日撮影)
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《14 〃 》(平成20年12月11日撮影)
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である。
『おくら』の側の説明柱には
この「おくら」は「羅須地人協会」が桜の地にあった頃、その庭にあった建物である。
1936(昭和十一)年十一月、羅須地人協会が宮野目に移築される時、これを譲りうけた近所の一青年のもとに、ひそかに保存されていた。最近その経緯が明らかになったことから、地元の有志が相はかり、羅須地人協会ゆかりの建物としてここに移築、一部手を加え復元した。
羅須地人協会で、賢治の教えを受けていた地元の青年たちは、当時この建物を「おくら」と呼んでいたという。
呼び名の由来は賢治が名付けたものと言われている。「おくら」は、肥料や農具などを入れておく物置と厠を兼ねていた。
とある。
《15 〃 》(平成20年12月11日撮影)
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《16 〃 》(平成20年12月11日撮影)
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《17 〃の屋根》(平成20年12月11日撮影)
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では、近々花巻農業高等学校へ行ってみることにしたいのだが、それは後ほどということにする。次は、再び賢治詩碑へ戻って『賢治自耕の地(下ノ畑)』へ行ってみよう。ただし、それは続きへ
続きの
”羅須地人協会について(その5:下ノ畑)”のTOPへ移る。
前の
”羅須地人協会について(その3:賢治詩碑)”のTOPに戻る。
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”目次”へ移動する。
残念なことに、下根子桜の賢治詩碑のある場所にいま宮澤家別宅(羅須地人協会の建物)はない。
この賢治詩碑の
《1 前の広場》(平成20年12月15日撮影)
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のどこにそのようにその建物は建っていたのだろうか。手掛かりは、名残の井戸と手水鉢が残っているだけのようだ。
《2 賢治が使用したつるべ井戸》(平成20年11月23日撮影)
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なお、
《3 つるべ井戸の屋根》(平成20年11月23日撮影)
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がちょっといい。
《4 手水鉢》(平成20年9月11日撮影)
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さらに、どのようないきさつでその建物が花巻農業高校に復元さたのだろうか。一方、『おくら』さへここにはない。
何故だろうということと残念だという思いがず~っとあったのだが、最近そのうちの一部分が分かった。
それは、『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)を見ていたならば、この場所に宮沢家の別宅(羅須地人協会の建物)が次のような配置で建てられていたことが分かったからだ。
《5 詩碑付近略図》
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<『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)より>
この上図のように
《6 羅須地人協会の建物(宮澤家の別宅)》(平成20年12月11日撮影)
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が建っていたわけだ。
とすれば、この写真左側の松の木などは次の写真の詩碑の左側の松の木になるわけだ。
《7「雨ニモマケズ」詩碑》(平成20年11月23日撮影)
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さらに、同著は言う。
私は序説で、豊沢町の宮沢家の別宅と書いたが、この地方では昔「田屋」と呼んでいたものとのこと。元来、豊沢町の宮沢家の始祖で賢治の祖父喜助の病気療養のために建てたもので、一時は賢治の妹年の病室にもなっていたという。賢治も亦、この家でやがて病気になったのである。父政次郎翁は引続いて三人の病舎になったので、この家を他に譲ってしまった。買った人はほぼ原形で移転したが、たまたま賢治在職中に新築された花巻農学校の後身花巻農業高等学校が、花巻空港に近い現在地に移転新築された時、その敷地に隣接した所にあったのを、同窓会の手で譲り受け、現状に復元したのであるとのことである。 それは、「小サナ萱ブキノ小屋」ではなく柿葺木造二階建ての普通の家で、階下に二間・階上一間あり、二階と下の一間の八畳の座敷には押入と床の間がついており、玄関・風呂場・便所もあり、下の八畳は三方をめぐって長い板廊下になっていた。炊事場は北裏の井戸端から一段低い所に別棟になっていたが、賢治は風呂をたてず、ここで水浴していたとのことである。
と。
因みに、
《8 北裏の井戸端の一段低い所周辺》(平成20年12月11日撮影)
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《9 一段低い所》(平成20年12月11日撮影)
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がここであり、別棟(炊事場等)がここにあったことになる。
さて、気になるのは『おくら』のことである。『詩碑付近略図』にはこの『おくら』は記載されていないから別棟のことだったのだろうか。
では、次は『おくら』へ行ってみよう。宮沢賢治詩碑入り口に戻ると茅葺きの
《10 同心屋敷》(平成20年12月15日撮影)
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が見えるはずである。なお、写真の右端の白い標識は『弥助橋跡』のものである。
同心屋敷の前の駐車場にある『新奥の細道』の
《11 コース案内図》(平成20年12月15日撮影)
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の中の現在地、赤丸付近が『おくら』のある場所である。
具体的にはこの案内図の逆方向にある
《12 同心屋敷側》(平成20年12月15日撮影)
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方向を見わたせば、写真の右奥のような小屋が見つかるはずである。つまり、
《13 これが『おくら』》(平成20年12月15日撮影)
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《14 〃 》(平成20年12月11日撮影)
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である。
『おくら』の側の説明柱には
この「おくら」は「羅須地人協会」が桜の地にあった頃、その庭にあった建物である。
1936(昭和十一)年十一月、羅須地人協会が宮野目に移築される時、これを譲りうけた近所の一青年のもとに、ひそかに保存されていた。最近その経緯が明らかになったことから、地元の有志が相はかり、羅須地人協会ゆかりの建物としてここに移築、一部手を加え復元した。
羅須地人協会で、賢治の教えを受けていた地元の青年たちは、当時この建物を「おくら」と呼んでいたという。
呼び名の由来は賢治が名付けたものと言われている。「おくら」は、肥料や農具などを入れておく物置と厠を兼ねていた。
とある。
《15 〃 》(平成20年12月11日撮影)
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《16 〃 》(平成20年12月11日撮影)
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《17 〃の屋根》(平成20年12月11日撮影)
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では、近々花巻農業高等学校へ行ってみることにしたいのだが、それは後ほどということにする。次は、再び賢治詩碑へ戻って『賢治自耕の地(下ノ畑)』へ行ってみよう。ただし、それは続きへ
続きの
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前の
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1.「宮沢先生遺墨の店」のオリジナルな中型封筒
2.宮沢先生遺墨の店のパンフレット(賢治先生略歴と遺墨複写版目録(18点)と「野原ノ松ノ林ノ」の写真)
3.キャビネ版の賢治の写真2枚(椅子と農学校の田圃)
4.絶筆の和紙の短歌
5.和紙の「雨の中なる真言なり」の拓本(黒地に白字)
6.白布きれ地の「快楽もほしからず・・・」
以上しめて@500円。
この「遺墨の店」がまだ営業中なのかなと思ってWebで調べたらまたまた貴殿のここへ行きあたった。
〒025花巻市桜町四ノ二八五 郵便振替口座 盛岡四五三とある。以上お知らせまで。
お早うございます。
いつもいろいろとありがとうございます。
さて、石川様におかれましてはこの度「宮沢先生遺墨の店」の出版物を入手なされたということですが、そのリストを拝見してすごい物を掘り出されたのではないでしょうか、と思いました。
ところでその「宮沢先生遺墨の店」は高橋慶吾が経営していたもので、その看板の本物がいまは宮城県の「賢治とモリスの館」にあるということです(『賢治とモリスの環境芸術』(大内秀明編著、時潮社))。
したがいまして、上掲の「おくら」に張り付けてある「宮沢先生遺墨の店」の看板は、この建物が「宮沢先生遺墨の店」であったことを意味するものでないのかもしれません。
ちなみに、この建物については上掲書によれば、協会員の一人である伊藤與藏が
別荘の庭には外便所の建物がありました。白壁の建物で当時としては立派なものでした。先生はそれを普段よく手伝ってくれる近所の、渡辺多助という人にくれてやりました。
と言っているところの、その建物かと思われます。
鈴木 守