私は夫と、滝川の古いアパートに住んでいた。
一階は4つに仕切られた車庫となっており、2階、3階が居住空間となっていた。
全部で4世帯、私達夫婦は3階に住んでいた。
アパートの階段をあがり、我が家の入り口を入ると、まず右手にお風呂場がある。
昔の作りなので、風呂場もゆったりとしており、湯船は足をすっかり伸ばしても余裕があり横幅も広く、素晴らしく大きなバスタブだった。私はこの浴槽が大好きだった。
居間へ通じるドアを開けると、これまた広々とした部屋の作りで、台所エリアと居間がアコーディオンカーテンで区切ってあるのだが、開け放つと全体で14畳程の一室となる、開放的な作りが気に入っていた。
ある日、夫を仕事へ送り出し、家に一人でいると、階下からだろうか、笛の音が聞こえてきた。
「ピーピー」と少し間隔を開けてはまた「ピーピー」と聞こえる。
階下に何時もは子供は居ないので、「親戚のお子さんでもいらしているのかな」と思った。
笛の音は、体育の先生が使うような形のホイッスルを幼児が弱々しく吹いているような、そんな感じの音に聞こえた。
家事などこなして、昼になった。
耳を澄ますと、まだ同じような調子で笛の音が聞こえている。
「よっぽど笛が好きな子なんだな」と思った。
昼食を取り、色々と雑事を済ませ、時計を見ると、午後3時をまわっていた。
なんと、まだ「ピーピー」と笛の音が聞こえるのである。
これはいささかおかしいと思った。子供が笛を吹いているのでは無い様だ。
「何の音なんだろう?」
確かめるために玄関に通じる居間のドアを開けた。
その時、音が玄関の向こう側からではなく、我が家の中から聞こえている事に気づき、ゾッとした。
明らかに左手にある、お風呂場の中から聞こえているのである。
風呂場の入り口はガラス戸であり、内側の外窓の陽光が明るく差し込み、中に人影がないことは明らかだった。
「まさか、そんなことはないだろう」と、恐怖半分、好奇心半分で恐る恐る風呂場の扉をゆっくりと開けてみた。
誰もいない。
そこへ、「ピーピー」という大きな笛の音!
ビックリして、音のする風呂場の床を見てみると、なんと
コオロギ!
こんなちっちゃな体から、よくもこんな大きな音が出るもんだ。
「なんだー、脅かさないでよー」
一気に緊張がほどけた。
それにしても、コオロギがこんなにきれいな笛のような音を出すとは。
コオロギ君も、風呂場の反響の効果で、自分の音色にウットリしたのではないだろうか。その証拠に、朝からほぼ一日中鳴いていた。
そんな悦に入っているコオロギ君を家宅侵入罪で強制退去させる事は出来なかった。
何処からともなく現れたのだから、いずこへと消えてゆくものと思い、私は風呂場の扉をそっと閉めた。
翌日風呂場を見てみると、予想通り跡形も無くコオロギは消えていた。
幻のコオロギ…。
いや、間違いなく、この目でしっかり見た。
確かにコオロギはいた…はず。