今更ながら・・・ですが、今やから書ける事を少しだけ。
まずは、3年前の東日本大震災で命を落とされた方、あの日は助かったけど、その後に震災関連で亡くなれた方達のご冥福をお祈りすると共に、
この先も風化させる事なく、ちゃんと語り継いでいきたいと思います。
3年前の3月11日の事は、今でも鮮明に覚えています。
揺れ始めた時は、いつもの事ですぐに収まるだろうと思っていたのに、いつまでも揺れが続いていて、すごく気持ち悪いな・・・ってのが最初の印象。
すぐにネットで確認すると、東北を中心に激しい揺れがあったとの事で、慌てて宮城の友人に連絡をしたんです。
幸い、1人はすぐに電話で連絡がついて、無事を確認出来たものの、職場が石巻、自宅が東松島の友人とは、その後、1週間も連絡が取れなかったのです。
その日の夜に、SNSを通じて、友人の知り合いが電話で無事を確認出来ている事を教えてくれたモノの、自分自身で確認が取れてなかった事もあって、ずっと不安な毎日を過ごしていました。
宮城には何度も遊びに行ってて、飛行機から見る海岸線の景色とか、海から仙台空港に入っていく時の景色がすごく好きでした。
仙台から石巻に行く仙石線ですぐ横が海の部分を走る区間は、座ってしまうと目線の高さが海で、何かすごく不思議で・・・。
第二のふるさと・・・って言ってもいいくらいに、本当に好きな場所やったんですよね。
そんな場所が、地震の後からTVや新聞で入ってくる映像は変わり果てた景色になってて・・・本当に辛くて、悲しくて・・・。
地震から1年半後。
やっと行けた石巻市内は、あちこちに津波や地震の跡が残ってて、日和山公園から見た景色に言葉を失いました。
時間が経つにつれて、TVで被災地の様子を見る回数が減って、たまに見るといい事しか言ってなくて・・・。
でも、実際に被災地に足を踏み入れると、全然復興してない。
たしかに、そこにあったガレキは撤去されてても、そこにあった生活は無いどころか、メドさえ立ってない。
阪神大震災の後、驚くスピードで復興していった神戸に比べたら、復興速度が遅いってものじゃない。
ちょうど、石ノ森萬画館で企画展をやっていたのですが、本当に胸が締め付けられる想いでした。
それでも、復興マルシェで働いていらっしゃったみなさまや、石巻駅前の高校生カフェで出会った高校生達が笑顔で、
本当に前向きに頑張られてるのを見て、ほんの少しだけほっとした気持ちになれました。
私に出来る事は限られてる・・・というより、ほとんどないかもしれない。
けど、自分が経験した事を、きちんと言葉にして伝えていく事は出来る。
あの日の事、それからの事。
これからもちゃんと語り継いでいこうと思います。
そして、もうひとつ。
今年の「3.11」は今まで以上に忘れられない日になりました。
父方、母方と合わせて親戚はたくさんいるのですが、色々な事情からほとんど親戚間の付き合いが無い中、
唯一、ずっと付き合いがあった母の弟・・・・私にとって、叔父さんになるのですが・・・。
3月11日の朝、息を引き取りました。
まだ64歳・・・まだまだこれからって年齢でした。
でも、この年齢が仇になったんですよね。
病気の進行が早くて、春まで持たないかもしれない・・・そう聞いてはいたんです。
ただ、叔父が自分の病気の事は、家族以外に絶対に言うな・・・と言っていたらしく、私達は知らないフリをしてないといけなかったんです。
とは言え、叔母からうちの母に連絡は入ってて、話も全部聞いてはいたんですよね。
だから、知らないフリをして、近くまで来たから・・・って事にして、今度の土曜日に会いに行こう。
そう話してた矢先の出来事でした。
同じ京都市内に住んでいたとは言え北と南で、それぞれの家族に、それぞれの生活があって、滅多に会えない状況の中、
毎年お盆には、祖父祖母のお寺参りだけは必ず揃って行ってたんです。
でも、去年は私が仕事で、日程が合わず・・・。
今年のお正月も、叔父一家が近くまで来たらしいのですが、たまたまうちが出掛けてて会えずで・・・・。
うちの両親は亡くなる10日程前に会いに行ってたのですが、その時はまだ座って話が出来てたらしいんですよね。
亡くなる週の初め頃から、急に起き上がれなくなって、絶対に入院したくないって言い張る叔父の意思を尊重して、
訪問介護の話が決まった翌朝の事でした。
亡くなった日の夕方に会いに行った時、かなり痩せてはいたけど、本当に安らかな顔で・・・寝てるみたい・・ってよく言うけど、
本当にそうなんですよね。
だから、全然実感が湧いてこなくて・・・・。
「今年は桜見られるかな・・・初夏まで持つかな・・・」って叔父は言ってたそうです。
葬儀の日は少し風は冷たかったけど、日差しはあたたかで・・・焼き場に向かう途中、早咲きの桜が何輪か咲いてる木を見つけました。
今週のあたたかさで、蕾もかなり膨らんできてて・・・。
もう一度、桜、見せてあげたかったな・・・って思います。
骨になった叔父を見て思いました。
言葉は悪いかもしれないけど・・・・何て言うか・・・あっけないなぁ・・・って。
2時間くらい前までは生前の姿がそこにあって、存在感もあって・・・。
生きてれば辛い事も、悲しい事も、嫌な事もたくさんある。
時には生きてる事すら辛くなって、そこから逃げ出したい想いが脳裏を掠める事もある。
それでも、生きてるからこそなんやな・・・って思った。
だから、これからも一生懸命に生きて、人生をめいっぱい楽しんで・・・いつくるか分からんけど・・・その時がきた時には、
「まだまだやりたい事はたくさんある。それでも、自分の人生、自分なりにめいっぱい楽しめた。色んな事はあったけど、悔いはない」
そう言える様に、毎日を頑張って生きようと思いました。
たくさんの犠牲者の方々と叔父の冥福を心より祈ります。
まずは、3年前の東日本大震災で命を落とされた方、あの日は助かったけど、その後に震災関連で亡くなれた方達のご冥福をお祈りすると共に、
この先も風化させる事なく、ちゃんと語り継いでいきたいと思います。
3年前の3月11日の事は、今でも鮮明に覚えています。
揺れ始めた時は、いつもの事ですぐに収まるだろうと思っていたのに、いつまでも揺れが続いていて、すごく気持ち悪いな・・・ってのが最初の印象。
すぐにネットで確認すると、東北を中心に激しい揺れがあったとの事で、慌てて宮城の友人に連絡をしたんです。
幸い、1人はすぐに電話で連絡がついて、無事を確認出来たものの、職場が石巻、自宅が東松島の友人とは、その後、1週間も連絡が取れなかったのです。
その日の夜に、SNSを通じて、友人の知り合いが電話で無事を確認出来ている事を教えてくれたモノの、自分自身で確認が取れてなかった事もあって、ずっと不安な毎日を過ごしていました。
宮城には何度も遊びに行ってて、飛行機から見る海岸線の景色とか、海から仙台空港に入っていく時の景色がすごく好きでした。
仙台から石巻に行く仙石線ですぐ横が海の部分を走る区間は、座ってしまうと目線の高さが海で、何かすごく不思議で・・・。
第二のふるさと・・・って言ってもいいくらいに、本当に好きな場所やったんですよね。
そんな場所が、地震の後からTVや新聞で入ってくる映像は変わり果てた景色になってて・・・本当に辛くて、悲しくて・・・。
地震から1年半後。
やっと行けた石巻市内は、あちこちに津波や地震の跡が残ってて、日和山公園から見た景色に言葉を失いました。
時間が経つにつれて、TVで被災地の様子を見る回数が減って、たまに見るといい事しか言ってなくて・・・。
でも、実際に被災地に足を踏み入れると、全然復興してない。
たしかに、そこにあったガレキは撤去されてても、そこにあった生活は無いどころか、メドさえ立ってない。
阪神大震災の後、驚くスピードで復興していった神戸に比べたら、復興速度が遅いってものじゃない。
ちょうど、石ノ森萬画館で企画展をやっていたのですが、本当に胸が締め付けられる想いでした。
それでも、復興マルシェで働いていらっしゃったみなさまや、石巻駅前の高校生カフェで出会った高校生達が笑顔で、
本当に前向きに頑張られてるのを見て、ほんの少しだけほっとした気持ちになれました。
私に出来る事は限られてる・・・というより、ほとんどないかもしれない。
けど、自分が経験した事を、きちんと言葉にして伝えていく事は出来る。
あの日の事、それからの事。
これからもちゃんと語り継いでいこうと思います。
そして、もうひとつ。
今年の「3.11」は今まで以上に忘れられない日になりました。
父方、母方と合わせて親戚はたくさんいるのですが、色々な事情からほとんど親戚間の付き合いが無い中、
唯一、ずっと付き合いがあった母の弟・・・・私にとって、叔父さんになるのですが・・・。
3月11日の朝、息を引き取りました。
まだ64歳・・・まだまだこれからって年齢でした。
でも、この年齢が仇になったんですよね。
病気の進行が早くて、春まで持たないかもしれない・・・そう聞いてはいたんです。
ただ、叔父が自分の病気の事は、家族以外に絶対に言うな・・・と言っていたらしく、私達は知らないフリをしてないといけなかったんです。
とは言え、叔母からうちの母に連絡は入ってて、話も全部聞いてはいたんですよね。
だから、知らないフリをして、近くまで来たから・・・って事にして、今度の土曜日に会いに行こう。
そう話してた矢先の出来事でした。
同じ京都市内に住んでいたとは言え北と南で、それぞれの家族に、それぞれの生活があって、滅多に会えない状況の中、
毎年お盆には、祖父祖母のお寺参りだけは必ず揃って行ってたんです。
でも、去年は私が仕事で、日程が合わず・・・。
今年のお正月も、叔父一家が近くまで来たらしいのですが、たまたまうちが出掛けてて会えずで・・・・。
うちの両親は亡くなる10日程前に会いに行ってたのですが、その時はまだ座って話が出来てたらしいんですよね。
亡くなる週の初め頃から、急に起き上がれなくなって、絶対に入院したくないって言い張る叔父の意思を尊重して、
訪問介護の話が決まった翌朝の事でした。
亡くなった日の夕方に会いに行った時、かなり痩せてはいたけど、本当に安らかな顔で・・・寝てるみたい・・ってよく言うけど、
本当にそうなんですよね。
だから、全然実感が湧いてこなくて・・・・。
「今年は桜見られるかな・・・初夏まで持つかな・・・」って叔父は言ってたそうです。
葬儀の日は少し風は冷たかったけど、日差しはあたたかで・・・焼き場に向かう途中、早咲きの桜が何輪か咲いてる木を見つけました。
今週のあたたかさで、蕾もかなり膨らんできてて・・・。
もう一度、桜、見せてあげたかったな・・・って思います。
骨になった叔父を見て思いました。
言葉は悪いかもしれないけど・・・・何て言うか・・・あっけないなぁ・・・って。
2時間くらい前までは生前の姿がそこにあって、存在感もあって・・・。
生きてれば辛い事も、悲しい事も、嫌な事もたくさんある。
時には生きてる事すら辛くなって、そこから逃げ出したい想いが脳裏を掠める事もある。
それでも、生きてるからこそなんやな・・・って思った。
だから、これからも一生懸命に生きて、人生をめいっぱい楽しんで・・・いつくるか分からんけど・・・その時がきた時には、
「まだまだやりたい事はたくさんある。それでも、自分の人生、自分なりにめいっぱい楽しめた。色んな事はあったけど、悔いはない」
そう言える様に、毎日を頑張って生きようと思いました。
たくさんの犠牲者の方々と叔父の冥福を心より祈ります。
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