Toshiが行く

日々の出来事や思いをそのままに

鼻毛

2024-11-18 08:59:34 | エッセイ

 

 

50歳になるかならない頃だったと思う。友人が、

「お前もいよいよ爺の仲間入りだな」と言った。

いささかむっとして「そりゃ、なぜだ」と問うと、

「鼻毛、鼻毛。鼻毛がひょろっと出ていても一向に気にしない、そんな爺になったわけだよ」

ずばっと返されてしまった。

以来、鼻毛チェックを欠かさず、鼻穴から出かかったら小さなはさみでカットしている。

たまに、それを怠ると今度は長女から「お父さん、鼻毛!」とやられる。

 

この鼻毛、言うまでもなく鼻で呼吸した時フィルターの役割を果たしており、

塵埃や微粒子が気管支に入り込むのを防いでいる。

そうとあって、都市部など空気が汚れているところに住んでいる

人ほど鼻毛が長くなるのだそうだ。

そう言えば、比較的市街地に近い所に住んでいるし、

中心市街地に出かけることも多い。

ただし、都市部うんぬんは医学的な根拠はなく、もっぱら加齢が主因らしい。

そう言われれば、確かに年を取るにつれ、鼻毛の成長が早くなったように思う。

薄くなった頭を見て、「こちらこそ、そうあってほしいのに。なぜだ。理不尽ではないか」

そんな恨み言を垂れることしばしばだ。

 

また、フィルターの役割を果たしているとあれば、

むやみに抜いたり、切ったりしない方がよいとも言われるが、

鼻毛が出ているとやはり体裁が悪いに違いない。

友人が鼻穴から出ている鼻毛を見て、「お前も爺の……」と言ったのは、

こちらの体裁を案じてのことでもあったのだ。

 

         

 

実は、この鼻毛、文字通りの意味である「鼻の穴の毛」以外にも、

いろんなことの比喩の言葉として用いられる。

「鼻毛が長い」──女の色香に迷っている様。

「鼻毛を伸ばす、鼻毛が伸びる」──女に甘く、でれでれしている様。

                 「鼻の下を伸ばす」に近い。            

「鼻毛を読む、鼻毛を数える」──自分に溺れている男のだらしない様を見抜

                いて、女が思うままにもてあそぶこと。  

等々、男にとってあまり芳しくない比喩だ。ちょっと堅いところも一つ。

「鼻毛通し」──日本刀の柄頭にかぶせた金物にあいた緒を通す穴のこと。

        「端毛通し」とも言う。

 

今朝も髭を剃ろうと鏡をのぞき込むと、

あらら、鼻毛も伸びてきている。例の小さなはさみを取り出した。面倒くさ!

 

 

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突然死そして早死

2024-11-12 06:00:00 | エッセイ

 

確か40歳ちょっと過ぎた頃だったから40年も前の話だ。

ちょうど一回り年長の医師と知り合いになった。

別に体調を悪くして診てもらったのではなく、仕事関係で付き合いが出来たのだった。

いつものように互いの暇な時間を見つけ、医師を訪ねて世間話をしていたら、

その医師がこんなことを言い始めた。

 

「あなた、何年のお生まれ?」「昭和17年です」

「ああ、そうですか。実はね、あなたの世代、突然死のリスクが高いんですよね」

死というものを、まだ意識することもない40ちょっと過ぎの男をつかまえ、

医師たる者が何たることを……。

 

「先生、何故なんですか。それって」少しばかりの憤りを込めて聞いてみた。

「そもそも、あなたたちは幼少期が食糧難だった世代です。

つまり栄養不足だったんですね。青バナを垂れた子が多かったでしょう。

あれもタンパク質の摂取不足です。突然死が多いのは幼少期の栄養不足が一因らしい」

そう言われれば、確かに垂れたハナを服の袖で拭い、

袖口がテカテカ、ゴワゴワとなった子が多かった。

 

                   

 

「あなた、ご兄弟は?」医師が続ける。

「兄3人に、姉2人の末っ子です」

「なるほど、そうだとお母さんのおっぱい、あまり飲めていませんね」

「さあ、どうでしたでしょう。よく覚えていませんよ」

「おっぱい、大事なんだがなぁ」

医師のつぶやきが重く響く。嫌になって早々に退散したのだった。

 

もう一つあった。こちらは早死の話だ。

「体育会系の人は、そうではない人よりも平均寿命が約6年短い」

という週刊誌の記事である。

その中で、さる医師が「若い頃に激しい運動をしてきた人は、

心臓の摩耗と機能低下を抱えていることが多い。その蓄積されたダメージが

年を取ってから露見することがある」と語っていた。

この話にまたまたぎょっとさせられた。

確かに、運動選手の心臓は普通の人より大きく、よく『スポーツ心臓』と言われる。

それが原因で突然死したスポーツ選手がいるにはいる。

かく言う僕も運動漬けとも言える大学生活を4年間送った身だ。

「平均寿命が約6年短い」なんて突き付けられると心は穏やかではない。

 

そんなこんなで脅され続けていつの間に82歳になった。平均寿命もクリアした。

「どうです先生!」と言ってやりたいが、あの先生、今もご健在だろうか。

 

 

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少々、厄介者

2024-11-04 09:46:06 | エッセイ

 

妻から頼まれた郵便振り込みの手数料は287円だった。

ズボンのポケットにはビニール袋に入れた

1円、5円、10円といった小銭でずしっと重い。

手数料はだいたいこのくらいだろうと見当をつけた妻から、

「この小銭で払ってきて」と持たされたものだった。

さすがに200円というのは100円玉2枚としたが、

あとはビニール袋から10円玉を8枚、5円玉を1枚、1円玉を2枚、

間違えないよう数えながら硬貨投入口に入れたのだった。

 

家には、小銭がまだたくさんある。

その小銭を貯め込んだ張本人は、他ならぬこの爺さんだ。

何か物を買うにも、食べるにも現金払いしかしなかったから

1円、5円、10円といった小銭が釣り銭として手元に戻ってきたのだ。

とはいえ、これら小銭は格別の使い道もなく、その都度、箱の中に放り込まれた。

気付くと、それは結構な量になり、小遣い銭として孫たちを喜ばせた。

孫たちはそれを1円、5円、10円と仕分けし、

計算すると時にそれは1万円ほどにもなることがあった。

もちろん、孫たちは大喜びだった。

 

 

ところが、このところ孫たちは少々まごついている。

以前は銀行に小銭を持ち込めば無料で両替してもらえたものが、

最近は手数料がいるようになっているのである。

金融機関によって多少違いはあるが、

ある地銀の場合、たとえば窓口での取り扱いだと、

硬貨1~50枚は無料、51~500枚だと330円、

501~1000枚で550円、1001以上は1100円となる。

両替機を使うと多少安くなるが、いずれにせよ手数料が必要だ。

 

極端な例で恐縮だが、1円玉50枚、5円玉24枚、10円玉3枚、

合わせて77枚200円を窓口に持ち込み、

100円玉2枚に両替してもらおうとすると、手数料330円がいる。

両替してもらって手にしたお金より支払うお金が高くなるという計算だ。

こうした例はほとんどないに違いないが、妙と言えば妙な話である。

このように小銭の両替に手数料が必要だということになったせいで、

孫たちも以前みたいには喜ばなくなった。

 

では手元に残った小銭はどうするか。

今度の郵便局での払い込み手数料みたいにもの、

あるいはスーパーでの買い物でたまに小銭を混ぜて支払う。

そういうふうにして、ボツボツと〝消化〟していっているのだ。

ただ、ここで注意しなければならないのは、

スーパーなどのセルフレジに小銭を大量に投入したことで

機械が故障するといったケースが頻発しているそうだ。

 

孫が喜んでくれると思い、せっせと貯め込んだ小銭、それが今は少々、厄介者かな。

申し訳ないことながら。

 

では、小銭を貯め込まないにはどうすればよいか。

簡単な話だ。現金を使わず支払いを済ませればよい。

今はクレジットカード、電子マネー、プリペイドカードなど

キャッシュレス決済の時代だ。

これだと、釣り銭として小銭を手にすることはない。

ということで、この爺さんもまさにおずおずと時代の流れに乗ることにした。

これで小銭は増えることはなく、

これまでにため込んでいたものをもボツボツと減らしていくのみだ。

 

そうこうしながら、ふと考えた。

キャッシュレス決済ということになると、

お金というものをまったく見かけなくなるのではないか。

小銭だけでなく1000円札も1万円札までも。

伴って、何だかお金のありがた味が薄れていくような。

年寄りはついそんなことを考えてしまう。

 

 

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3食昼寝付き

2024-10-26 06:00:00 | エッセイ

 

『主人在宅ストレス症候群』というのがある。

普段家にいない夫が一日中在宅するようになると

妻は大きなストレスを抱えるようになり、

それが原因で胃潰瘍や高血圧をはじめとする身体的不調、

それにうつ・パニック障害など心理的症状を引き起こすというのである。

そうであれば、長年仕事一筋だった夫が定年を迎えた

その時も要注意ということなのだろう。実際、このケースが多いのだそうだ。

74歳・主婦もそんな悩みを抱えて新聞の投書欄に投稿したのかもしれない。

 

この主婦の夫は退職して3年近くになるが、

毎日ソファでごろ寝して過ごしているのだという。

若い頃からコツコツと努力する人だったから、

そんな姿を見せられると、ついイライラさせられる。

それで、「何か好きなことでもやったらどう」と言ってはみるが、何もしようとしない。

そうとあって、ますますストレスが溜まってくると訴えるのだ。

 

実はこの話、他人事と笑い飛ばすわけにもいかない。

こちらも似たような状況なのである。

退職した後、日がな一日パソコン、あるいはテレビの前に

座り込んで過ごすことが多くなった。

カレンダーの予定表を見ると、今月の外出は合わせて7日だ。

エッセイ教室や歌のレッスンといった趣味のものもあるが、

あとは4度の病院通い。

こんな状況だから、まさに〝三食昼寝付き〟といったところで、

しばしば妻の不機嫌に直撃されることがある。

 

         

 

さて、あの主婦はどうしたか。続きがある。

ある日、夫からボソッと「放っておいてくれないか」と言われ、ドキッとしたという。

よくよく考えてみたら、夫にとって今が人生で一番好きに

している時間かもしれないと思ったからだ。

頑張らない老人がいても良いではないか。

それより食が細くなった夫の栄養状態だけに気を配り、

たくさん働いた夫にはそのご褒美として長生きしてもらおう。

そう割り切ったのだという。

なんとまあ、微笑ましくも羨ましいような話である。

 

でも、〝人生100年時代〟だ。余生は長い。

何もせずゴロゴロしてばかりで過ごせるはずはない。

あるいは、この奥さん、「コツコツ努力する夫のこと、

いずれ何か好きなことをやり出すに違いない」と読み、

「それまでは放っておこう」と考えたのかもしれない。

とにもかくにも、夫婦円満おめでとうである。

 

 

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よっちゃん

2024-10-23 13:35:24 | エッセイ

 

 

「吉一叔父さんの命日、分かりますか」

長崎の姪がよっちゃんの命日を尋ねてきた。

吉一というのは僕の2つ上の兄で、「よっちゃん」と呼んでいた。

「えっ、どうしたの?」突然のLINEにいささか虚を突かれ、

すぐには出てこなかった。

「先日、父の墓参りに行き、墓石を見たら

叔父さんの命日だけが刻まれていないんですよ」

父というのは13歳違いの長兄のことだ。

「えっ、おかしいな。ちゃんと刻まれていたはずなんだがね」

「それが、どう探してもないんです。一人だけ、寂しいじゃありませんか。

命日が分かれば、お参りもしてあげたいし……」

 

長崎にある当家の墓には両親はもちろん、3人の兄と2番目の姉、

それと長女の連れ合い、つまり義兄も入っている。

本来なら、末っ子ながらこの僕が墓を守っていかなければならないのだが、

長崎を離れて40年以上、今は福岡に住んでいる。

役目がままならない僕に代わり長崎に住む姪たちが

親の墓参りをしながら、守ってくれているのである。

「分かりますか。分かれば、ちゃんと刻んであげたいと思っているんです」

急いで手帳をめくった。

ここには両親はもちろん兄姉たちの命日を書き留めている。

よっちゃんのそれは平成4年1月20日だった。

 

         

 

よっちゃんは、心を病んだ。

どんな事情があったのか東京の会社を辞め、母が一人暮らす長崎の実家に、

それこそ忽然と戻ってきたのである。

もともと寡黙な人だった。何があったのか、一言も語ることはなかった。

やがて、昼と夜が真逆の生活となり、

また理解しがたいようなことを口走るようになった。

 

看過できぬ状態に、兄や姉が皆で、「医者に診てもらえ」と説得するのだが、

「俺はどこも悪くない」と言い張るばかり。

ついに長兄が「いちばん仲が良かったお前が話をしろ」と

僕にその役を任せたのだった。実はそれを待っていた。

よっちゃんの気性は、やはり僕がいちばん分かっていたと思う。

2人だけになり、小さい頃一緒に遊んだ思い出話ばかりした。

少しずつよっちゃんの表情は和らいでいった。

頃合いを見計らい、「俺と一緒に病院に行ってみよう」と話しかけると、

黙って小さく頷いたのだった。

 

医師は小さい頃から今日までの、それこそよっちゃんの生涯を

本人から事細かに聞いていく。

そして、「このまま入院してもらい、すぐに治療を始めます」と診断したのだった。

覚悟はしていたが、やはり心は重く沈み込んだ。

病室まで付き添った。それも鉄格子の入り口まで。

その先へは入れず、看護師に伴われ病室へ向かう後ろ姿を見送るしかなかった。

こちらを振り向くこともない鉄格子越しのその姿を、溢れ出る涙が隠していった。

 

入院・治療の甲斐あって、よっちゃんの症状は見違えるほど軽減、

通院治療に切り替わり、僕らの気持ちをわずかながらも軽くした。

だが……よっちゃんは自ら死を選んだのである。

あれは平成2年の8月9日、長崎では例年通り原爆慰霊祭が行われた日だった。

11時2分に慰霊のサイレンが鳴り響いた直後、長崎の姉が

「よっちゃんが、よっちゃんがね。大ごとたい。あんた、急いで帰って来てやらんね」

ひどく切迫した電話をかけてきた。

詳しいことは分からないが、何か事故にあったらしい。

とにかく姉が告げた長崎の病院に車を走らせた。

 

 

どうやら一命はとりとめた。

だが右足の膝から下を切断せざるを得なかったし、

顔をはじめ体のあちこちにひどい損傷を負った。

それでも治療の甲斐あって、いったんは会話できるほどには回復したのである。

だが、その希望の日も長くはなかった。

引き続きの治療中、突然意識を失くし植物人間の状態となってしまったのである。

2人きりの病室。話しかけても無論返事はない。

ハンサムだったあの顔も失くしてしまった。

めくれた布団からわずかに足先がのぞいている。

「起きろ」と足の指をくすぐれば、わずかに動かし生きていることを示すだけで、

それ以上のことは何も起こらない。

ついには平成4年の年明け早々息を引き取ったのである。51歳であった。

 

自らの行く末に絶望したのか、

それとも老いた母にこれ以上の負担をかけまいとの優しさなのか──

「何故」と問うても答えず、

手帳に挟んだ写真のよっちゃんは薄く笑うばかりである。

 

 

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