徒然なるままに~徒然の書~

心に浮かぶ徒然の書

寒牡丹

2020-01-07 14:34:08 | 随想

今あちこちで、冬牡丹というのか、寒牡丹というのか、わら帽子を冠ったボタンの花が美しい姿を見せている。

所謂寒牡丹と冬牡丹は同じ様に冬の寒さの中で花を咲かせる牡丹ではあるが、正確にはその作りは全く違っているらしい。

一方は春咲種の牡丹と言う植物を完全に騙して、花を咲かせる人間のエゴが見え隠れする。

他の一方はこれも騙す事には変わりないが、二期咲種の春咲芽を残すのか、秋咲く花芽か、

どちらかを残して寒の内に咲かせる小細工を労する人間の悪知恵である。

この地球上にあるもの、動物にしろ植物にしろ人間と言う生き物に奉仕するために存在しているのではない。

今、植物にしても人間の手を借りなければ花を咲かせることが出来ないものが随分と増えている。

それは本来己の環境に適した処に生育していたものを、人間などと言う生き物が勝手にその環境を破壊して、

己の環境の内で花を咲かせようとする驕りのために、人間の世界へ持ち込まれたものであって、ようようにして命脈を保っているに過ぎない。

花を咲かせ子孫を残すなどは論外と言える環境に放り込まれた様なものである。

このことは、何も寒牡丹に限ったことではない。

様々な所に人間という生き物のエゴが垣間見える。

人間と言う生き物を裸で南極や北極へ放り出したり、毛皮を着せて赤道直下へ連れだしたりするのと何ら変わりはない。

釈迦は生きとし生ける物すべからく仏性ありとは言うが、こんな人間と言う生き物の何処に仏性が潜んでいると云うのであろうか。

様々な生き物の生育環境を破壊し、種を絶滅に追い込んでいる人間と言う生き物、同種の人間と言う生き物さえも破滅させようかという、

こんなものに仏性などと言うものがあるというのだろうか。

釈迦の生きた時代、同時代に生きた人間と言う生き物と現代の人間と言う生き物の変容を流石の釈迦も予測すらできなかったのであろう。

いや末法の到来と言っているのだから、ある程度は予測していたのかも知れない。

それは何も釈迦に限らずキリストにしてもイースラムのヤハウエーにしての同じことだろう。

もっとも、キリストやイースラムのように人間しか相手にしないのと違って、少なくとも生きとし生けるものすべてに仏性ありと言うのだから、

犬や猫にも仏性ありと言うのだから、釈迦の方が幾らかは進歩してたと言えるのかもしれない。

さすればこの花にも仏性ありということになる。

では仏性とは何かということになると、これがまた人によって様々で、お釈迦本人に聞いてみないと、

人間などと言う生き物には解らないことなのだろう。