すそ洗い 

R60
2006年5月からの記録
ナニをしているのかよくワカラナイ

Henry Lee Lucas ヘンリー・リー・ルーカス 1936- 2001

2022年06月14日 | ヒトゴロシ
(1936年8月23日 - 2001年3月12日)



「他人といると、緊張しちゃって落ちつかないんだ。ずっと人といるのに馴れてなかったからかな。ほんと、ずっと一人だったからね――話すのも苦手だな。医者ってさ、俺のこと、どこもおかしくないっていう奴、けっこういたな。でも俺みたいな低脳にだってわかる。俺はおかしいって、わかってる。だってそうじゃなかったら、あんなに殺しばっかりするはずないもんな。でも仕方ないのさ。なにかが俺にそうさせるんだ。でもそれって治療できないんだろ? だったら、しょうがないじゃないか」

「人間? うん、それは俺にとって何でもなかった。ただの、白紙だった」




1936年8月23日、ヘンリー・リー・ルーカスはヴァージニア州ブラックスバーグにて、丸太小屋の中で産み落とされた。10歳の時、兄弟との喧嘩で左目の視力を失った。ヘンリーの母・ヴァイオラは売春婦であり、息子に対して自分が客と性行為に及んでいる場面を見せ付け、息子に女装させた。




1949年12月、ヘンリーの父は、吹雪が吹き荒れる中で酔っ払った状態で家に帰る途中に倒れ、低体温症で死亡した。ヘンリーは小学校6年生のときに学校を辞め、家から逃げ出し、ヴァージニア州の周辺をあてどもなく放浪していた。
1954年6月10日、ヘンリーはヴァージニア州リッチモンドの周辺で12件以上の強盗を働いた廉で有罪判決を受け、懲役4年の刑を宣告された。1957年に脱獄するもその3日後に捕縛された。1959年9月2日に釈放された。
1959年の終わりごろ、ヘンリーはミシガン州テカムサにて、腹違いの姉・オパールと暮らしていた。ヘンリーは獄中にいた頃にできた文通相手と結婚するつもりであった。この年のクリスマス、母ヴァイオラが息子の前に現れた。ヴァイオラは息子の結婚を認めず、ブラックスバーグに戻るよう強く要求した。ヘンリーはこれを拒み、この結婚についてたびたび言い争った。
1960年1月11日、ヘンリーは母ヴァイオラを殺害した。年老いた母の世話をするために家に帰るべきかどうかについて話し合っている最中の出来事であった。ヘンリーによれば、ヴァイオラが箒で頭を殴ってきた時、彼女の首を刃物で刺したという。ヘンリーはその場から逃亡した。のちにヘンリーは以下のように供述した。
「俺が覚えているのは、おふくろの首のすぐそばに平手打ちを叩き込んだんだが、その直後におふくろが倒れ込んだのを見て、身体を掴もうとしたんだ。だが、おふくろは床に倒れた。俺がおふくろの元へ戻ったとき、彼女は死んでいたんだ。そのあとだよ。俺が自分の手にナイフを握っていて、おふくろの首が切り裂かれていたことに気付いたのは」
ヘンリーは「母を殺したのは自衛のためだ」と主張するも却下され、第二級殺人の罪で20~40年の禁固刑を宣告された。刑務所で10年間服役したのち、ヘンリーは1970年6月に釈放となった。過密状態と化していた刑務所の緩和が釈放の理由であった。





2001年3月12日午後11時、ルーカスが獄中で死んでいるのが発見された。死因は心不全であった。




 
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「殺尼魔」大米龍雲 | トップ | Provisionally Entitled »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ヒトゴロシ」カテゴリの最新記事