2023年04月28日(金)公開
1989年4月29日30日
よみうりランドEAST
よみうりランドEAST
1. 「TATTOO」
2. 「DESIRE -情熱-」
3. 「Fin」
4. 「SOLITUDE」
5. 「BLONDE」
6. 「I MISSED "THE SHOCK"」
7. 「SAND BEIGE -砂漠へ-」
8. 「AL-MAUJ (アルマージ)」
9. 「ジプシー・クイーン」
10. 「TANGO NOIR」
11. 「ミ・アモーレ〔Meu amor é・・・〕」
12. 「難破船」
13. 「飾りじゃないのよ涙は」
14. 「禁区」
15. 「少女A」
16. 「十戒 (1984)」
17. 「1⁄2の神話」
18. 「サザン・ウインド」
19. 「北ウイング」
20. 「Blue On Pink」
21. 「LIAR」
22. 「トワイライト -夕暮れ便り-」
23. 「セカンド・ラブ」
24. 「スローモーション」
2. 「DESIRE -情熱-」
3. 「Fin」
4. 「SOLITUDE」
5. 「BLONDE」
6. 「I MISSED "THE SHOCK"」
7. 「SAND BEIGE -砂漠へ-」
8. 「AL-MAUJ (アルマージ)」
9. 「ジプシー・クイーン」
10. 「TANGO NOIR」
11. 「ミ・アモーレ〔Meu amor é・・・〕」
12. 「難破船」
13. 「飾りじゃないのよ涙は」
14. 「禁区」
15. 「少女A」
16. 「十戒 (1984)」
17. 「1⁄2の神話」
18. 「サザン・ウインド」
19. 「北ウイング」
20. 「Blue On Pink」
21. 「LIAR」
22. 「トワイライト -夕暮れ便り-」
23. 「セカンド・ラブ」
24. 「スローモーション」
〈伝説のライブ映画公開〉中森明菜(57)
業界が今も語り継ぐ異様な“金屏風会見”とあの“事件”の真相。
そして彼女は表舞台から姿を消した
(2023 4/27 集英社オンライン)
歌手の中森明菜(57)が1989年に東京・よみうりランドEASTで行った野外ライブの映像が、デジタルリマスター版で全国の映画館にて上映されることが話題になっている。その1989年、彼女の身に何が起こったのか、今なお語られる伝説と騒動を振り返る。
“伝説の歌姫”中森明菜の復帰の動きが本格化している。 2014年に紅白出場、2015年にアルバムリリース以降沈黙していた明菜だが、昨年8月に新事務所を立ち上げて公式Twitterを開設、今年4月28日には、1989年に東京・よみうりランドEASTで開催した伝説のコンサートの映像が『中森明菜イースト・ライヴ インデックス23 劇場用4Kデジタルリマスター版』として全国の映画館で上映される。 「ライブ上映後には明菜が収録した音声メッセージが流れるようです。これは2014年以降初の肉声メッセージということで大きな話題となっています」(スポーツ紙記者) これまで活動休止と小さな復活を繰り返してきた明菜。今度こそ本格復帰となるのかは今後の行方を見守るしかないが、明菜が活動休止にまで追い込まれた最大の原因は、1989年に起きた一連の出来事にまでさかのぼる。 当時交際中だった近藤真彦とのスキャンダルは芸能史上に残るセンセーショナルで悲劇的なものだった。 1982年に『スローモーション』でデビューした明菜は、その類稀な歌唱力とルックスで、すぐにヒット曲を連発し85年『ミ・アモーレ(Meu amor é・・・)』、86年『DESIRE -情熱-』と、2年連続で日本レコード大賞を受賞するなど、スターとしての地位を不動のものにしていたが、その私生活においてもマスコミを騒がせていた。 デビュー翌年には同じくトップアイドルだった近藤真彦との交際が明らかになったからだ。 しかし2人の交際は順風満帆とは言い難いものだった。当時のトップアイドル同士の交際という事情に加え、事務所同志の軋轢と思惑、そして近藤には明菜以外の女性の影がつきまとうこともあったからだ。
「当時20代でトップアイドルだった近藤はもちろんモテましたからね。アイドル歌手の橋本美加子や美人モデルなど、マッチの“浮気情報”がしょっちゅうマスコミをにぎわせました」(前出スポーツ記者) 一方、明菜は近藤の女性関係に悩みながらも、マスコミのインタビューで結婚願望を口にするなど一途な思いを隠さなかった。山口百恵に憧れを持っていた明菜は結婚したら家庭に入り芸能界を引退したがっている、とのマスコミ報道もあったほどだ。 男の浮気と女の結婚願望―当時の芸能マスコミでも“結婚間近説”と“破局説”の情報が錯綜した。そんな時、決定的な出来事が起こる。1989年に写真週刊誌「フライデー」(2月14日号/講談社)が近藤真彦と松田聖子のNYでの密会をスクープしたのだ。 その報道は衝撃的だった。明菜の恋人のはずの近藤が、明菜の最大のライバルと目されていた聖子と密会していたのだ。そして当時、聖子には神田正輝という夫がおり、いわば不倫でもある。そして掲載された5枚の写真には2人が抱き合うようなシーンも映し出されていた。
「二人は、肩をぴったり寄せ合って何事か語りあい、時には、彼が彼女の頰に唇を寄せるような、仲睦まじいシーンさえ演じていたのである」(「フライデー」記事より) この一件は明菜に大きなダメージを与えた。思いつめる性格だと関係者が口を揃える明菜だったが、その憔悴ぶり、そして情緒不安定ぶりが頻繁に報じられていく。 そして「フライデー』報道から5カ月ほど経った7月11日午後、明菜はカミソリで左腕を切り自殺を図る。場所は近藤の自宅マンションの浴室、そして発見者は近藤自身。その様子を当時の芸能誌「週刊明星」(1989年7月27日号/集英社)は臨場感たっぷりにこう報じている。 《(近藤が)ドアをあけ、室内に入ると、バスルームの洗い場に、うずくまるようにして倒れている明菜の姿…。 よく見ると左腕のヒジの内側あたりから、鮮血が吹き出している。 「どうしたんだ!」 駆け寄ってそう声をかけるマッチ。明菜は、その声に、たった一言、「ごめんなさい……」》 幸い自殺は未遂で終わったが、この事件を境に明菜は表舞台から姿を消した。そんな明菜が姿をあらわしたのは自殺未遂から173日後の12月31日の大晦日。都内ホテルには、明菜の“緊急復帰会見”として300人もの報道陣が集められたが、その会見は異様なものだった。 明菜のファンに対する謝罪から始まった会見だが、「近藤さんに、私よりもっともっと辛い気持ちを与えてしまいました」と近藤へのおわびと感謝を明菜が口にしたところで、なんと会場に当事者である近藤が現れたのだ。 泣きながら近藤と握手をする明菜。そして近藤は明菜とオープンな交際を続けますが、婚約などはまったく考えていないと明言したのだ。騒然とする会場だったが、その一部始終はテレビで生中継され、視聴率は19.7%にもなった。 さらに異様な要素は2人の座る席の背後にもあった。そこにはなぜか金屏風が置かれていたのだ。 「実はこの会見について明菜は、近藤との“婚約会見”だと信じ込まされていたとも言われています。それまでの明菜は記者会見が苦手で新曲発表でもほとんど出てこなかった。 しかし会見を開いて、けじめをつけないと復帰もできない。さらにこの会見は近藤のためでもあった。自殺未遂の原因は近藤ではなく、明菜を支え続けるとアピールする必要が近藤にはあったからね。近藤は会見でも明るく爽やかに、かつ男気を見せる演出を続けた。明菜をダシにして、実際は近藤がみそぎを済ませたかのような会見でしたね」(会見に出席していた芸能記者)
この会見が明菜にさらなる追い打ちをかけたことは間違いない。明菜はこの“復帰会見”後、しばらくは近藤と交際を続行したといわれるが、ほどなく破局。その後は芸能活動、私生活ともに迷走を続けることになる。 そこには、近藤との関係だけでなく、それ以前から、そしてその後もずっと明菜を翻弄し悩まし続けたいくつもの問題が横たわっていた。そのひとつが家族との問題、さらにトップ歌手・明菜の周囲を取り巻く関係者の裏切り、そしてまた別の男の存在だ。
歌手・中森明菜を語る上で外すことができないのは家族、とりわけ母親の存在だ。
1965年7月、東京・大田区で生まれた明菜はその数カ月後に清瀬市へ転居、そこで2男4女の6人兄弟の5番目として育った。
父親は転居後も大田区内で精肉店を営んだ。仲良しで結束の堅かったという一家だが、幼い明菜は兄妹のなかでも母親・千恵子さんが大好きでいつもべったり側にいたという。
母親の千恵子さんが若い頃は歌手志望だったこともあり、母を喜ばせるため明菜は歌手への夢を抱く。そして3度目の挑戦で1981年『スター誕生!』(日本テレビ)に合格、瞬く間にスターへと駆け上がっていった。
そんな明菜の活躍を千恵子さんは喜んだ。そして明菜も自分の活躍を千恵子さんに報告し、甘えたという。
「母娘二人三脚で歌手になったという感じでした。また1986年に明菜が日本レコード大賞をとった時には、舞台で歌う明菜のそばで涙を流していました」(当時を知るスポーツ紙記者)
1965年7月、東京・大田区で生まれた明菜はその数カ月後に清瀬市へ転居、そこで2男4女の6人兄弟の5番目として育った。
父親は転居後も大田区内で精肉店を営んだ。仲良しで結束の堅かったという一家だが、幼い明菜は兄妹のなかでも母親・千恵子さんが大好きでいつもべったり側にいたという。
母親の千恵子さんが若い頃は歌手志望だったこともあり、母を喜ばせるため明菜は歌手への夢を抱く。そして3度目の挑戦で1981年『スター誕生!』(日本テレビ)に合格、瞬く間にスターへと駆け上がっていった。
そんな明菜の活躍を千恵子さんは喜んだ。そして明菜も自分の活躍を千恵子さんに報告し、甘えたという。
「母娘二人三脚で歌手になったという感じでした。また1986年に明菜が日本レコード大賞をとった時には、舞台で歌う明菜のそばで涙を流していました」(当時を知るスポーツ紙記者)
その後、千恵子さんのために地元清瀬市でカラオケスナックを開業するのだが、数千万円ともいわれた資金も明菜が出したといわれる。
さらに家族のためハワイに別荘を買うなど金銭的にも家族を支えていった。だからこそ、その関係は変わっていったのだろう。ひとつのきっかけは明菜が埼玉県にビルを建てたことだった。
「明菜は家族のためにビルを建てたんです。そこで兄の一人がカレーショップを、姉も夫と一緒にレストランをオープン、そして父親も精肉店をたたんで中華料理店をオープンさせた。ところが2年も経たない1987年秋頃には兄と姉の店は閉店してしまうのです」(前同)
立地条件も悪かったが、家族の結束を願う明菜は大きなショックを受けたといわれる。そして少なくない経済支援を家族にしてきたのに、と不信感を持つようになっていくのだ。さらにハードなスケジュールにもかかわらず手元に残る金が少ないという猜疑心も芽生えていった。
「家族が私のお金を使い込んでいる」
そんな中、1988年には千恵子さんのガンが見つかる。明菜は多忙だったこともあるだろうが、なぜか見舞いは数回のみ。さらに同時期、芸能界デビューした妹・明穂の存在も明菜を悩ませた。
さらに家族のためハワイに別荘を買うなど金銭的にも家族を支えていった。だからこそ、その関係は変わっていったのだろう。ひとつのきっかけは明菜が埼玉県にビルを建てたことだった。
「明菜は家族のためにビルを建てたんです。そこで兄の一人がカレーショップを、姉も夫と一緒にレストランをオープン、そして父親も精肉店をたたんで中華料理店をオープンさせた。ところが2年も経たない1987年秋頃には兄と姉の店は閉店してしまうのです」(前同)
立地条件も悪かったが、家族の結束を願う明菜は大きなショックを受けたといわれる。そして少なくない経済支援を家族にしてきたのに、と不信感を持つようになっていくのだ。さらにハードなスケジュールにもかかわらず手元に残る金が少ないという猜疑心も芽生えていった。
「家族が私のお金を使い込んでいる」
そんな中、1988年には千恵子さんのガンが見つかる。明菜は多忙だったこともあるだろうが、なぜか見舞いは数回のみ。さらに同時期、芸能界デビューした妹・明穂の存在も明菜を悩ませた。
明菜も妹の芸能活動を後押しし、明穂は当初ラジオパーソナリティやドラマに出演していたが、デビュー翌年の1988年にヌード写真集やセクシービデオに出演する。これに明菜は大激怒したという。
この時期、自身もまた近藤真彦との交際に悩んでいた時期であり、1989年の自殺未遂へと時は進んでいく。
この時期、自身もまた近藤真彦との交際に悩んでいた時期であり、1989年の自殺未遂へと時は進んでいく。
「自殺未遂事件をきっかけに、明菜は母親だけでなく親兄弟と連絡を取ることはなくなった。明菜の入院の様子を母親がマスコミにしゃべったことで“自分を金で売った”と明菜が思い込んだとも報じられました。95年6月に千恵子さんは亡くなったのですが、明菜は逝去の前日に一度だけ病院へ見舞っただけで、通夜、葬儀に姿を現すことはありませんでした」(前同)
さらに2019年には妹の明穂さんも若くして亡くなっているのだが、やはり葬儀に明菜は現れなかった。2020年頃、清瀬の実家は売りに出されたが、現在に至るまで明菜と家族は断絶したままだだという。
近藤と破局し、家族とも断絶してしまった明菜。1990年7月には自殺未遂騒動以降初のシングル「Dear Friend」がリリースされ、ファンクラブも発足し、時にドラマ出演も果たしたが、その活動は往年の勢いとは程遠かった。
さらに2019年には妹の明穂さんも若くして亡くなっているのだが、やはり葬儀に明菜は現れなかった。2020年頃、清瀬の実家は売りに出されたが、現在に至るまで明菜と家族は断絶したままだだという。
近藤と破局し、家族とも断絶してしまった明菜。1990年7月には自殺未遂騒動以降初のシングル「Dear Friend」がリリースされ、ファンクラブも発足し、時にドラマ出演も果たしたが、その活動は往年の勢いとは程遠かった。
そうした孤独と人間不信の中で、90年代にはいくつものトラブルに見舞われている。所属事務所「研音」からの独立と新事務所設立、レコード会社移籍問題、賃貸マンションに関するトラブル、ギャラの搾取騒動、激やせ、過剰な飲酒などなどスキャンダルばかりがクローズアップされていく。
「この時期、明菜は人間不信を強めていった。とはいえ数々のトラブルの原因は自身にもあり、猜疑心、そして完璧主義もあってマネージャーや関係者が長続きしなかったという側面もあります。きちんとした大手事務所やマネージャーがいないことから、明菜を利用して金儲けを目論む輩も集まってくる。寂しがり屋の明菜はそうした人間を簡単に信じ、そして裏切られる。その繰り返しだった」(週刊誌芸能記者)
有名なのが1993年、明菜が“お母さん”と慕った製作会社社長の暴露騒動だ。この社長は、すでに進んでいた写真集製作の契約を明菜が履行しないとして9000万円もの損害賠償を請求、さらに『悲しい性』(講談社)という暴露本まで出版した。その後、明菜は裁判に勝訴したが、こうした裏切りやトラブルが明菜の周囲で横行していたことは間違いない。
それは“マッチ後”の男性関係も同様だ。近藤との破局後、明菜は諸星和巳、羽賀研二、保阪尚輝、東幹久、青年実業家、プロ野球選手、Jリーガーなど数多くの男性との関係が噂されたが、どれも決定的なものではなかった。
「この時期、明菜は人間不信を強めていった。とはいえ数々のトラブルの原因は自身にもあり、猜疑心、そして完璧主義もあってマネージャーや関係者が長続きしなかったという側面もあります。きちんとした大手事務所やマネージャーがいないことから、明菜を利用して金儲けを目論む輩も集まってくる。寂しがり屋の明菜はそうした人間を簡単に信じ、そして裏切られる。その繰り返しだった」(週刊誌芸能記者)
有名なのが1993年、明菜が“お母さん”と慕った製作会社社長の暴露騒動だ。この社長は、すでに進んでいた写真集製作の契約を明菜が履行しないとして9000万円もの損害賠償を請求、さらに『悲しい性』(講談社)という暴露本まで出版した。その後、明菜は裁判に勝訴したが、こうした裏切りやトラブルが明菜の周囲で横行していたことは間違いない。
それは“マッチ後”の男性関係も同様だ。近藤との破局後、明菜は諸星和巳、羽賀研二、保阪尚輝、東幹久、青年実業家、プロ野球選手、Jリーガーなど数多くの男性との関係が噂されたが、どれも決定的なものではなかった。
だが、1993年7月にある事件が起こる。当時のマネージャーで恋人と噂された男性E氏に大麻所持疑惑が持ち上がり、警察が男性ではなく明菜のマンションを家宅捜索したのだ。このことで明菜とE氏が恋人関係にあり半同棲していることも発覚、さらにこのE氏は当時、妻子持ちだったことも明らかに。
「このE氏は大麻疑惑だけでなく明菜に無断でヌード写真集企画を売り込んでいたと報じられています。やはり明菜の周りには一攫千金を狙う連中ばかりが集まってくるのです」(前同)
「このE氏は大麻疑惑だけでなく明菜に無断でヌード写真集企画を売り込んでいたと報じられています。やはり明菜の周りには一攫千金を狙う連中ばかりが集まってくるのです」(前同)
そんなE氏との関係は1999年頃まで続き、その後マネージャー解任と同時に破局したといわれる。そしてその後釜についたのが、マネージャー兼恋人としてその後20年以上明菜を支えることになるK氏だ。
明菜は2010年に一度活動休止をして復帰したが、思ったほどの活躍はできず、2017年から再び体調不良を理由に芸能活動の無期限休止を発表している。
それ以降、その動向はベールに包まれていた。この間、明菜は取材にも応じず、ほとんど外出もせずにこもっていたとされるが、その生活を支えたのがK氏だったのだ。
「K氏は明菜の事務所『FAITH』の代表、マネージャーとしてだけでなく、買い出しや食事の世話など、生活全般をサポートしていたようです。いうなら公私にわたるパートナーだった」(芸能記者)
20年にもわたる関係が突如、打ち破られたのは昨年22年8月。明菜は新事務所「HZ VILLAGE」を設立。公式Twitterを開設し、再始動を発表したのだ。だが新事務所の役員にK氏の名前はなく、破局したと噂されている。
明菜は2010年に一度活動休止をして復帰したが、思ったほどの活躍はできず、2017年から再び体調不良を理由に芸能活動の無期限休止を発表している。
それ以降、その動向はベールに包まれていた。この間、明菜は取材にも応じず、ほとんど外出もせずにこもっていたとされるが、その生活を支えたのがK氏だったのだ。
「K氏は明菜の事務所『FAITH』の代表、マネージャーとしてだけでなく、買い出しや食事の世話など、生活全般をサポートしていたようです。いうなら公私にわたるパートナーだった」(芸能記者)
20年にもわたる関係が突如、打ち破られたのは昨年22年8月。明菜は新事務所「HZ VILLAGE」を設立。公式Twitterを開設し、再始動を発表したのだ。だが新事務所の役員にK氏の名前はなく、破局したと噂されている。
だが一方で、K氏の姉が新事務所の監査役に就任したことで“復縁説”も報じられており、真相がハッキリしない状況である。
「K氏のことにしても芸能活動にしても、まだまだ紆余曲折あるでしょう。活動再開が発表されたとはいえ、実際には明菜本人の姿が表舞台にあらわれたわけではありません。22年年末の『NHK紅白歌合戦』に明菜が出場するとの報道もありましたが、結局出場しませんでしたしね。事務所役員もそうそうに入れ替わり、本格復帰にはまだ時間がかかりそうです」(前同)
数々のトラブルに見舞われてきた明菜だが、デビュー40周年を迎えた現在、本格復帰を待望する声はこれまでになく大きい。多くのファンのためにも早く元気な姿をあらわし、その歌声を聞きかせてほしい。
「K氏のことにしても芸能活動にしても、まだまだ紆余曲折あるでしょう。活動再開が発表されたとはいえ、実際には明菜本人の姿が表舞台にあらわれたわけではありません。22年年末の『NHK紅白歌合戦』に明菜が出場するとの報道もありましたが、結局出場しませんでしたしね。事務所役員もそうそうに入れ替わり、本格復帰にはまだ時間がかかりそうです」(前同)
数々のトラブルに見舞われてきた明菜だが、デビュー40周年を迎えた現在、本格復帰を待望する声はこれまでになく大きい。多くのファンのためにも早く元気な姿をあらわし、その歌声を聞きかせてほしい。
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