すそ洗い 

R60
2006年5月からの記録
ナニをしているのかよくワカラナイ

谷崎潤一郎の女性たち

2023年08月08日 | 書籍
谷崎 潤一郎(1886年〈明治19年〉7月24日 - 1965年〈昭和40年〉7月30日)

1915年、谷崎は石川千代子と結婚したが、1921年頃谷崎は千代子の妹・せい子(『痴人の愛』のモデル。芸名葉山三千子)に惹かれ、千代子夫人とは不仲となった。谷崎の友人・佐藤春夫は千代子の境遇に同情し、好意を寄せ、三角関係に陥り、谷崎が千代子を佐藤に譲ることになったが撤回するという「小田原事件」が起きた(佐藤の代表作の一つ『秋刀魚の歌』は千代子に寄せる心情を歌ったもの。また、佐藤は『この三つのもの』、谷崎は『神と人との間』を書いている)。

結局、1926年(大正15年)に佐藤と谷崎は和解、1930年(昭和5年)、千代子は谷崎と離婚し、佐藤と再婚した。このとき、3人連名の「……我等三人はこの度合議をもって、千代は潤一郎と離別致し、春夫と結婚致す事と相成り、……素より双方交際の儀は従前の通りにつき、右御諒承の上、一層の御厚誼を賜り度く、いずれ相当仲人を立て、御披露に及ぶべく候えども、取あえず寸楮を以て、御通知申し上げ候……」との声明文を発表したことで「細君譲渡事件」として世の話題になった。

翌1931年(昭和6年)、谷崎は、古川丁未子と結婚するが、1934年(昭和9年)10月に正式離婚。翌年1月、同棲を続けていた森田松子と結婚式を挙げた。
松子が妊娠した際、「藝術的雰囲気を守りたい」という谷崎の意向で中絶したと、谷崎自身が『雪後庵夜話』に書いたためこの件が有名となり、それゆえに谷崎を批判する者も多い。しかし戦時下に書かれた『初昔』によれば、松子は3人の医師から健康上中絶を勧められたというのが真相で、そうでなければ松子の3人の姉妹や医師をどう説得したのか説明がつかない


昭和三四年二月一六日 潤一郎より渡辺千萬子

九日附お手紙拝見

私もあの日は重子さんが東京へ行かれることとは思ってもいませんでした いつまで待っても帰って来られないので女中に聞いて初めて知ったのは夕刻でした あんな風に時々重子さんにはびっくりさせられることがありますが そう云うところにあの人でなければ見られない面白味もあり長所もあるので私は困ることもあるが芸術的には惹きつけられることも多々あります 中々複雑な女性です 

あなたは立ち場が違うので困惑されるのは尤もですが何とかして将来はパパやあなたと重子さんとの関係がもう少し巧く行くようにと祈っています 折を見て重子さんに私から上手に忠告して見ようと思っています

大小のバアバが惠美子のことをあなたに隠すのはあなたに比較して惠美子があまり劣りすぎるからです 憐れむべきものを優秀な人の前で庇う心理が働いているのだと思います 二人のバアバは愚かな人ではありませんが何としても追い追い老年に向い時勢におくれて行くばかりなので いづれ遠からぬ将来には谷崎家も渡辺家も完全にあなたに支配して貰うようになるでしょう 私の死後は勿論ですが生きているとしても次第に老耄がはげしくなり あなたの智慧や監督にたよらなければ一枚の原稿も書けないようになるでしょう 私は私の崇拝するあなたに支配されるようになることを寧ろ望んでいる者です 近いうちにきっとそう云う時が来ます

あなたは「私には意地の悪い性質がある」と自分でも云っておられましたが病院のおじいちゃんも熱海の二人のバアバも君を尊敬し畏れている反面 君にそう云う短所のあることを認めているようです、あなたが自分でそう云う以上それは事実かもしれませんが私はまだ実際にあなたのそれを見せて貰ったことがありません あなたが私に遠慮しているのだとすれば私はむしろあなたを水臭く感じます あなたに意地悪されるくらいで私の崇拝の情は変るものではありません

橋本家高折家を通じて故関雪翁の天才の一部を伝えている人はあなた一人だと思います あなたの顔や手脚には その天才の閃きがかがやいて見えそれ故に一層美しく見えるのです しかし天才者には大概意地悪のような欠点があるものなのであなたの場合もそれなのでしょう

つまりあなたは鋭利な刃物過ぎるのです その欠点は直せるものなら直すに越したことはありませんが 少なくとも私だけには遠慮する必要はありません 私はむしろ鋭利な刃物でぴしぴし叩き鍛えてもらいたいのです そうしたらいくらか老鈍さが救われるでしょう あなたのことは正直に書き出すと際限がありませんから今日はこれだけにしておきます 

あまり無遠慮に書き過ぎて赦して下さい

二月十五日
     潤 


右から次女松子(谷崎潤一郎夫人)その娘、四女信子、三女重子の姉妹。




妻の「姉」や「妹」に惹かれ…
 作家・谷崎潤一郎の「やばすぎる不倫騒動」とは


昭和5年(1930年)8月17日、奔放な愛欲を文学に昇華させた昭和の大文豪・谷崎潤一郎は、彼の最初の妻・千代との離婚を関係者に報告しました。しかし、これはただの離婚の通達文ではありませんでした。 

 谷崎は妻の千代を、自分の後輩にあたる詩人・小説家の佐藤春夫に譲り、「谷崎と佐藤はこれまで通りの交際を続けるから、皆様にもご了解願いたい」などと書かれていたのです。  

谷崎潤一郎は、生粋のスキャンダルメーカーとして知られ、20代後半に作家として頭角を現して以来、作品は内容、描写ともに際どく、私生活もやることなすこと全てにおいて悪目立ちし、いうなれば炎上しつづけていたのです。  

谷崎は生涯で3回結婚するのですが、大正4年(1915年)、彼が29歳の時に結婚した石川千代は彼の最初の妻にあたり、向島の芸者をしていた女性です。しかし、異様なのは谷崎が本当に惚れていたのは千代の「姉」でした。やはり向島の芸者あがりで、当地で「嬉野」という料亭をやっていたお初という女性です。  

学生時代からこの店に出入りしていた谷崎は、作家として成功した後はお初目当てで入り浸るほどの執着を見せていたのですが、お初からは「私には旦那(=後援者で愛人)がいるから……」と振られ、「私の妹ならあなたにお似合いよ」とあてがわれたのが、千代だったのです。  

谷崎はサディスティックであると同時にマゾヒスティックな傾向も強く持っており、彼にとって恋い慕うお初は女王さまにほかならず、彼女の命令ならば喜んで従ったのでしょう。  

気の毒だったのは、こんな奇妙な男と結婚させられた、もの静かで古風な千代でした。彼女は、お初とはまったく逆のタイプの女性だったのです。谷崎と千代は、小田原に住まいを移しますが、谷崎はすぐに自宅に寄り付かなくなります。  

それは谷崎が妻に興味を失ったことを意味していました。谷崎は千代の妹で、お初同様、自由奔放なせい子という娘に岡惚れし、彼女を横浜にあった「大正活映」という映画会社の看板女優にすると言い出して当地にも家を借り、同棲を始めてしまったのです。 

せい子は、谷崎初期の名作『痴人の愛』のヒロイン、ナオミのモデルで、彼女が自分に惚れた中年男性をいたぶる様は「ナオミズム」と呼ばれ、世間の話題をさらいました。  

大正9年(1920年)頃から、谷崎から見放された千代と、娘の鮎子が暮らす小田原の家を、谷崎が見出した後輩作家の佐藤春夫が訪れるようになります。佐藤は、谷崎からステッキで叩かれたりしている千代の姿を見て心を痛め、彼女の悩みを聞くうちに深い仲に陥ってしまったのでした。  

千代だけでなく、鮎子も佐藤に懐き、三人はまるで本当の親子のようにサンマを焼いて一緒に食べたりしたそうです。谷崎は千代に「私とは別に恋人を作りなさい」などと言っており、佐藤との関係が発覚してもケロリとしていましたが、それは彼の本命が千代の妹・せい子であり、彼女が成人したら結婚するつもりだからでした。  

しかし、せい子は谷崎を完全に金ヅルのおじさんとしか見ておらず、他の映画俳優と恋愛事件を起こしたり、徹底的に彼を拒絶します。せい子から振られ、千代からも去られるのが耐えられない谷崎は、かつて佐藤と交わした「妻とは別れる」という約束を反故にしたので、佐藤は激怒し、二人は絶縁状態となったのでした。  

佐藤は、要約すれば「今、一人で泣きながら昔を思い出してサンマを食べているよ」という『秋刀魚の歌』という詩文を発表し、谷崎家と佐藤の間に起きた事件を世間に公表してしまいました。  

興味深いのは、主に批判を浴びたのは谷崎ではなく、人妻の身でありながら、佐藤と恋仲に陥った千代だったという事実です。何事も女性のほうが責められがち、というのは現在と同じかもしれません。

(2023.8.8.歴史人)







「栄ちゃん、
 もうこれから信ちゃんの云う事なんぞ聴かないで、
 あたしの家来にならないか。
 いやだと云えば彼処にある人形のように、
 お前の体へ蛇を何匹でも巻き付かせるよ」














 
 
 

 

 
 

 

 

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