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2022年 7月26日(火) 加藤智大死刑囚(39)の刑が執行

2022年07月27日 | ヒトゴロシ

2008年(平成20年)6月8日
東京都千代田区外神田(秋葉原) 




2022年(令和4年)7月26日午前、
加藤は法務省(法務大臣:古川禎久)の死刑執行命令により、収監先の東京拘置所で絞首により死刑を執行された(39歳没)。
加藤は死刑確定翌年の2016年5月10日付で東京地裁に再審請求を申し立てており、アムネスティ・インターナショナルによれば、死刑執行時点では第2次再審請求中だった。
『毎日新聞』は、法務省が本事件の結果の重大性や社会的影響、事件発生からの時間の経過などを考慮した結果、執行の数年前から加藤をその対象者として検討していたという旨を報じている

秋葉原殺傷事件・加藤智大 死刑執行までに「14年」かかった理由


〈『交通事故だ』の声で、たちまち人だかりができたんです。そこへトラックから降りてきた男の人が、ためらう様子もなく、まっすぐ進んでくると、人垣を押しのけるような仕草をしたんです。すると、押しのけられた人が倒れていく。最初は何が起こったのか、さっぱりわかりませんでしたが、誰かの『刃物を持っているぞ!』という叫び声で、みんな状況を把握できないまま、クモの子を散らすように逃げ出したんです〉 

事件当時、本誌の取材にそう答えていたのは、現場に居合わせたメイド喫茶の店員だ。 7月26日、08年6月に秋葉原無差別連続殺傷事件を起こした加藤智大死刑囚(39)の刑が執行された。場所は収監されていた東京拘置所だった。 事件では通行人など7名が死亡、10名が重軽傷を負った。当時、現場となった秋葉原の歩行者天国は阿鼻叫喚の地獄絵図だったという。発生直後、本誌の取材に応じた目撃者の男性はこう証言していた。 〈『わーッ!ぎゃーッ!』という発作のような犯人の喚(わめ)き声があたりに響いて、まるで戦場にでもいるようだった。あたり一面は血の海でした〉 大学生、会社員、調理師など、加藤死刑囚となんの縁もゆかりもない人たちが犠牲となった。一命を取りとめた人の中にも、いまだに後遺症に苦しんでいる人もいるという。しかし、なぜ事件発生から死刑執行まで「14年」あまりもかかったのか。 「一つは事件の被害の大きさです。通常、事件発生から初公判までは数ヵ月程度ですが、秋葉原殺傷事件は約1年半かかっています。これは被害者が多いと、どうしても公判までに時間が必要になってしまう。さらに加藤死刑囚は一審、二審でともに死刑判決を下されましたが、弁護側が『犯行当時、責任能力がなかった疑いがある』と上告していました。結局、最高裁は加藤死刑囚の責任能力を認め、『酌量の余地は見出せない』と死刑判決が確定しましたが、このときですでに15年2月。事件から6年半以上が経っていました」(全国紙記者) だが、刑事訴訟法では刑の確定から執行まで「6ヵ月以内」と定められている。なぜ確定からさらに7年余りの時間を要したのか。 「この刑事訴訟法の規定はいわば『努力目標』のようなもので、法的拘束力があるわけではないのです。刑の確定から執行までは平均で5年程度と言われていますが、法相の思想信条や恩赦、共犯者の有無や政治的なしがらみなど、様々な要因に左右されることもある。確定から7年というのは決して長すぎるとは言えませんが、なぜこのタイミングだったかというのは、法務省や大臣は明らかにはしていません」(前出・記者) 古川禎久法相は26日の会見で「法務大臣として慎重なうえにも慎重な検討をくわえたうえで、死刑の執行を命令した」と語ったが、再審請求中だったかどうかなど、詳細についてはコメントしなかった。 被害者の知人の一人は「(14年が)長かった」と語っているという。なぜここまで時間がかかったのか。政府は説明するべきではないだろうか。

(FRIDAYデジタル 2022.7.27)

「ドアをバンバンと殴る」「刺激させちゃダメだ」拘置所での加藤死刑囚の“素顔”

加藤智大死刑囚を間近に見てきたという受刑者の男性。最近まで東京拘置所で加藤死刑囚の衛生係を務め、週6回接してきたといいます。 元衛生係(加藤大死刑囚を担当)
 「報道で見るよりは痩せていた。かなりやつれた感じはあった。非常に警戒心が強くて、ふさぎ込んでいるようなイメージ。(加藤死刑囚は)もうずっとクロスワードを解いているイメージしかない。よく好んで食べていたのがピーナッツ。1回で10袋ぐらい買って食べていた」 

普段は黙々とクロスワードパズルをやっていたという加藤死刑囚。時々、激高するときがあったといいます。 
元衛生係 「(加藤死刑囚の)部屋の前で食器を落としてしまったことがあって、そしたら、暴れるじゃないけど、ドアをバンバンと殴るようなことがあった」 
どれぐらい殴り続けてた? 
元衛生係 「4~5回、バンバンバンバンって感じ。必ず決まった所作を取らないと嫌がる人だった。例えばお茶の取っ手の角度や向き。それを誤ると暴れる行為につながってしまうので刑務官もすごく警戒していたし、『刺激させちゃダメだ』と周りも思っていた」


高校を卒業するまで、青森市内で生まれ育った加藤死刑囚。中学時代はテニス部で汗を流し、トップクラスの成績だったといいます。しかし… 中学の同級生 「自分を馬鹿にされたような言い方をされたりすると多分プライドが高いからすぐ怒ったり激高するかのように声を荒げたりとか」 中学の卒業アルバムには、加藤死刑囚の似顔絵と「キレたキレた!!あの加藤が…」と書かれていました。

仕事ぶりは優秀も「アスファルトに体重をかける形で押し倒して…」
岐阜県の短大を卒業後、2003年から2年間ほど仙台市の警備会社で働いていた加藤死刑囚。会社の同僚として付き合いがあったのが、大友秀逸さんです。 

元同僚 大友秀逸さん 
「非常に頭の回転が速い、気が利くタイプで。常に冗談を言ったりとか、自虐的な話をして受けを取ったりとか」 仕事ぶりは優秀だったといいますが、やはり感情が抑えられない面があったといいます。 元同僚 大友秀逸さん 「自分から考えて先回りして『こうしたらいいんじゃないか』とやる人だったんで、職場では優秀だなという評価。ただ、その反面感情が抑えられなくなって、ミスを繰り返す高齢男性をアスファルトに体重をかける形で押し倒してしまった」 職場では加藤死刑囚の先輩だったという大友さん。知人としてもう少しできることがあったのではないかと考えています。 元同僚 大友秀逸さん 「弟の話を楽しそうにしてくれたんだけど、やっぱり父親母親ってなると、もう完全に顔色が変わるというか表情が曇っちゃって。あの時にちょっと勇気を持って、僕も実はこういう家庭環境でいろいろあるんだよと話がもしできたら、彼自身が『いや実は僕の母親が』とかそういう話ができたら…」

加藤死刑囚に刺され、一時意識不明の重体となった湯浅洋さんです。加藤死刑囚から届いた手紙にはこう綴られていました。 
加藤死刑囚 「死刑は5分間の絞首だと聞いています。皆様に与えた苦痛と比べると、あまりに釣り合いませんが、それでも皆様から奪った命、人生、幸せの重さを感じながら刑を受けようと思っています」 湯浅さんは死刑判決を望んでいましたが、動機の解明には至らなかったと感じています。 湯浅洋さん 「なんで全然関係ない17の人を殺傷したのか。それはやはり知りたいなと。解明の機会がなくなるというのが一番悲しい」

「一番の原因は、そもそもの私の“考え方”」
凶悪な犯行に駆り立てた動機は何だったのか。裁判が始まると、加藤死刑囚は自らこう分析していました。 
加藤死刑囚 「原因は三つあると思っています。自身の考え方。掲示板での嫌がらせ。そして、掲示板に依存していた生活のあり方です。 加藤死刑囚は、現実は建前で、ネット上の掲示板が本音で、唯一の場所だったと語りました。その掲示板で嫌がらせをされたことが動機の一つだと明かしました。そしてこうも語っています。
 加藤死刑囚 「一番の原因は、そもそもの私の“考え方”です。私の“考え方”がまともだったら、事件は起こることがなかったと思います。」 

“考え方”とは、自分の言いたいことを言葉で伝えられずに行動で直接訴えてしまうことだといいます。 そうなった背景について、母親の育てかたの影響を挙げています。犯行後、自ら書いた本の中でこう記述しています。 
加藤死刑囚 「私にできるのは、泣くことだけでしたが、泣いたら泣いたで、母親は私を屋根裏に閉じ込め、口にタオルを詰めてガムテープを貼りましたから、そのうち泣くことすらなくなりました。何かを考えるのやめてしまったように思います。」
 1審の判決では、加藤死刑囚が「掲示板での嫌がらせをやめてほしいと伝えたかった」と述べたことを動機だと認定。その上で、「幼い頃に母親から虐待とも言える不適切な養育を受けたことにより、人格の歪みが生じたことが事件の一因となった」としています。

刑執行の「加藤智大」死刑囚 
拘置所で捧げた「朝の祈り」と嫌いだった女性タレント

(以下は「週刊新潮」2013年10月24日号に掲載されたものです) 

東京拘置所には、AからDまで4つの収容棟がある。多くは未決囚だが、ある棟の上階には死刑囚が収監されている。“死刑囚フロア”には、左右に各33の独房があり、死刑囚は30人前後。残りは、「特捜案件」と呼ばれる世間を騒がせた被告らが入っているという。そのフロアの住人の一人である加藤は、一審で死刑を宣告された後、12年9月12日の二審でも控訴棄却の死刑判決を受けて、最高裁へ上告した。  13年2月7日号で、本誌「週刊新潮」が掲載した東京拘置所の元衛生夫の手記ではこう触れている。 〈彼のことを“カトちゃん”と呼んでいましたが、とても大人しい人です。クロスワードパズルの本を購入して、房で問題を解いたり、枡目を塗りつぶしてばかりいました。車雑誌もよく読んでいました〉〈去年、カトちゃんは段ボール3箱分の訴訟資料を全て捨ててしまいました。担当官は“本当にいいの?”と何度も確認していましたが、本人は“いいよ”と言っていました。ちょうどその頃、手記『解』を書き終えたばかり。まだ上告中なのですが、執筆が終わったらもういらなくなったということなのでしょうか〉  身勝手な動機で7人もの命を奪った挙句、自らの罪と全く向き合おうとしない加藤。拘置所関係者によれば、こんな理解不能なことがあったという。 「拘置所では、決まった時間にラジオ放送があります。土曜日の午前10時は押切もえさんの番組で、なぜか、加藤はその後の昼食を食べないのです。理由を聞くと、加藤は彼女が嫌いなのでラジオを聞きたくないから、その時間にバリバリ音を立ててかっぱえびせんを食べる。それでお腹が空かないということでした」

 二審の判決から400日。最近になって、加藤にも心境の変化があるようだ。 「朝食前の7時頃、加藤が窓に向かってお祈りを捧げているのです」  こう語るのは、別の拘置所関係者だ。 「彼の後ろ姿を見ると、脇を締めて肘も体の前の方にやっている。頭もうつむき加減で、じっと祈っているのです」  刺殺された藤野和倫君の祖父、広治さんはこれを聞いて憤る。 「あれから5年も経つのです。今更、反省するなんてあまりにも遅すぎる。二審で、加藤は一度も出廷しませんでした。それなのに、最高裁に上告したのですから理解できません」  そもそも、加藤の祈りは被害者への贖罪のためなのだろうか。社会部記者によれば、 「彼の犯行動機の一つは、死にたかったから。二審で死刑を言い渡されて、死が現実のものになった。それで急に怖くなり、祈ることで心の安寧を求めているのではないでしょうか」  最高裁で二審の判決が覆る可能性は低い。専門家は14年3月に死刑が確定して、その後、早ければ3年半で死刑が執行されるとみている。

デイリー新潮編集部 「週刊新潮」2013年10月24日号 掲載

 
 

 

 

 


 
 
 

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