すそ洗い 

R60
2006年5月からの記録
ナニをしているのかよくワカラナイ

Deutsch Amerikanische Freundschaft

2020年03月25日 | 音楽
ドイチュ=アメリカニシェ・フロイントシャフト
デュッセルドルフの音楽ユニット。
グループ名独米友好協会は、東ドイツの(独ソ友好協会)と西ドイツの過激派ドイツ赤軍 (R.A.F)のパロディ。

1978年、Gevelsberg にてクラシック音楽とジャズを学んだロベルト・ゲアル(パーカッション、エレクトロニクス)、独学で音楽の素養を身に着けたガビ・デルガド=ロペス(ヴォーカル)、クルト・ダールケ(エレクトロニクス担当)、ミヒャエル・ケムナー(ベース担当。後に "Fehlfarben" に参加。)、ヴォルフガング・シュペルマンス(ギター)で結成。1979年、クルト・ダールケに代わり、クリス・ハース(クリスロ・ハースとしても知られる。エレクトロニクス、ベース、サックス担当。後にリエゾン・ダンジェルーズ "Liaisons Dangereuses" を結成。)加入。1981年のイングランド・ツアーのころには、中心メンバーであるロベルト・ゲアルとガビ・デルガド=ロペスのユニットとして認知されるようになる。グループのコンセプトが明確になってくるにつれ、商業的にも成功を修める。 
DAFは、エレクトロニック・ボディー・ミュージック、ノイエ・ドイチェ・ヴェレ、ハウス、テクノ、de: Neue Deutsche Härteのパイオニアと称され、後続のミュージシャン達のインスピレーションの源となっている。1980年から1982年にかけて、『小者・悪者』"Die Kleinen Und Die Bösen"、"Alles Ist Gut" をリリース。絶頂期を迎える。"Alles Ist Gut" で Deutscher Schallplattenpreis (ドイツレコード大賞)を受賞。 
誤って、単なるシンセ・バンドとされることがあるが、DAFはパンクバンドである。彼らが導入していた電子音響と荒削りでハードなサウンド・プロダクションは、後期にはエレクトロニック・ボディー・ミュージックとして結実していくことになる。 
歪みのあるベースラインを作り出すために、ローランドTB-303を導入していた最初期のグループであり、後のアシッド・ハウスの潮流に先鞭をつけた。 

1979-1981: ポストパンクからエレクトロニック・ボディー・ミュージック、ノイエ・ドイチェ・ヴェレへ
1979年、ファーストアルバム "Ein Produkt der Deutsch-Amerikanischen Freundschaft" の録音前にリードシンガーであるガビ・デルガド=ロペスはすぐに復帰するものの、いったんバンドを離れた。このため、ファーストアルバムは純粋なインストゥルメンタルとなった。"Produkt" は、タイトルのない1~2分程度のトラックを22曲収録。ノイズの入り混じった、フリースタイルなインスト作品である。英米のロック/ポップミュージック文脈から意図的に離れ、70年代末から80年代初期のドイツのパンク、ニューウェーブの幕開けを告げる作品となった。アルバムはキーボード担当のクルト・ダールケのレーベル "Warning"から発売。後にアタ・タックと改称されるこのレーベルは、初期ノイエ・ドイチェ・ヴェレの最重要レーベルとなる。(所属アーティストに、フェルファーベン "Fehlfarben"、 デア・プラン、アンドレアス・ドラウ、ピロレーターなど。)シンセサイザーのエキスパートであるクルト・ダールケがバンドを離れると、グループはヴァージン・レコードと契約。イギリスから国際的な成功へと向かうことになる。ダールケの後釜としてクリス・ハースが加入。ロベルト・ゲアルとともにDAFの特徴となるKorg MS-20を使ったシーケンサーサウンドを構築していく。新メンバーで『ケバブ・トラウム』"Kebab Träume"(DAFの代表作、発音は正しくは「〜・トロイメ」)と "Ich und die Wirklichkeit" のシングルを発表。ミヒャエル・ケムナーの脱退により、ロベルト・ゲアル/ガビ・デルガド=ロペス/クリス・ハース/ヴォルフガング・シュペルマンスの4人組となる。 
1980年、アルバム『小者・悪者』("Die Kleinen Und Die Bösen")発表。国際的な注目を浴びる。LPのA面はコニー・プランクのスタジオでの録音。(ちなみに、クラフトワーク、ノイ!、ウルトラヴォックスなども、このスタジオでレコーディングしている。) B面は、ロンドンのクラブ "The Electric Ballroom" でWireの前座として出演した際のライブ録音。ロベルト・ゲアル曰く、内容的には彼らを凌駕していた。『小者・悪者』("Die Kleinen Und Die Bösen")はロンドンのダニエル・ミラー傘下のミュート・レコードから発売され、大成功を修める。 
『小者・悪者』("Die Kleinen Und Die Bösen")は、エレクトロニック・ボディー・ミュージック、ノイエ・ドイチェ・ヴェレの草分けとなったアルバムである。前作 "Ein Produkt der Deutsch-Amerikanischen Freundschaft" の音色を引き継ぎつつも、楽曲は曲としての体裁を取り始め、シーケンサーの導入により、リズムに主眼が置かれた構成になっている。(ヴォルフガング・シュペルマンスのギターは、メロディーを奏でるのではなく、純粋に音を発する道具として使用されている。)ガビ・デルガドのアグレッシブにがなり立てるヴォーカルから放たれる歌詞は、論議を呼んだ。(『愉快な長靴』"Die Lustigen Stiefel"、『これが愛だ』"Das Ist Liebe" など。) その後、同じメンバー構成でのツアーを経たのち、ロベルト・ゲアルとガビ・デルガド=ロペスは活動のコンセプトの焦点を絞り込むことにし、クリス・ハースとヴォルフガング・シュペルマンスはバンドから脱退した。 

1981-1982: デルガド=ロペスとゲアルのデュオ
こうして、DAFはよく知られた黄金デュオの構成となった。1981年から1982年にかけてリリースされた一連のアルバム "Alles Ist Gut"、つづく『愛と黄金』"Gold Und Liebe" 、"Für Immer" が商業的にも作品の質的にもブレイクスルーとなる。示唆に富んだ歌詞も多く、『デア・ムッソリーニ』"Der Mussolini"、同性愛のエロスを漂わせる『泥棒と王子』"Der Räuber und der Prinz"、"Greif Nach Den Sternen"、"Die Götter Sind Weiß"、"Ein Bisschen Krieg" などが代表作。こうした曲調は彼らのパブリック・イメージとも重なっていった。『デア・ムッソリーニ』"Der Mussolini" という曲名、レザージャケットに身を包んだいでたち、短く借り上げた髪型 (ゲルマン版グレース・ジョーンズとも。)などもあって、ファシズムを連想させると繰り返し非難を浴びた。また、戦前の流行歌や童謡の使い古されたキッチュな言い回しを引用した、ときにナチの記憶を呼び起こすことも辞さない歌詞は、いわれなき非難を強めることにもなった。DAFはメディア上での釈明などするわけもなく、むしろ「アナーキストのスキンヘッズスタイルからナチ・スタイル」までの幅広さを皮肉混じりに吹聴し、自分たちは少しばかりファシストの危険な香りに魅せられているだけだ、とうそぶいた。 

1982-1986: 解散とソロ活動
アルバム "Für Immer" のリリース後、DAFはいったん解散。ゲアルとデルガド=ロペスはそれぞれ、"Night Full Of Tension"(ロベルト・ゲアル)、英語詞による "Mistress" (ガビ・デルガド=ロペス、1983)などをソロアルバムとして発表する。 ゲアルは、"Night Full Of Tension" で機材を駆使するインストゥルメンタリストの一面に加えて、はじめてヴォーカルを披露するなどしたが、結果できあがったのは、これといって取り立てるところのないシンセポップのアルバムであった。81年のユーリズミックスのアルバム "In The Garden" へのゲアルの参加への見返りとして、ユーリズミックスのアニー・レノックスが参加したこのアルバムは、ミュート・レコードから発表された。 デルガド=ロペスはシーケンサーからしばし離れ、"Mistress" では、ファンクやジャズ色を押し出した。著名なスタジオミュージシャンも多数参加した、6曲収録のこのアルバムはヴァージン・レコードから発表された。 

1986-2003: "1st Step to Heaven"、

ソロ活動
1986年、DAFとしての活動を再開。英語詞でディスコサウンドを取り入れた "1st Step to Heaven" は主にアメリカのマーケットを念頭に製作された。ゲアル、デルガド=ロペスともにサウンド構築、ヴォーカルの両方に参加したが、大いに疑問が残る結果となった。楽曲中、"Absolute Body Control" のみが往年の革新的な業績に匹敵しうる出来だが、批評家とファンは大きな失望を示した。DAFは再び分裂し、ガビ・デルガド=ロペスがDAFの名前を引き継いで活動を続けた。1987年には、ロベルト・ゲアルに代わってクラウス・ヤンクーン(DJウェストバムの音楽上のパートナー)を迎え、マキシシングル "The Gun" を発表。ドイツ最初期のハウスのレコードと言われている。1988年 、ヴァージン・レコードから1981から1982年のクラシックチューンを収録した "Best of DAF" を発売。ゲアルとデルガド=ロペスは、DJ、ソロ・アーティストとして、ハウス、テクノの分野で活動したが、かつてのDAFほどに耳目を集めることはなかった。 
ガビ・デルガド=ロペスはサバ・コマッサ(Saba Komossa)とのユニット "Delkom" で活動。リエゾン・ダンジェルーズ "Liaisons Dangereuses" の1982年の"Los Niños del parque" のリミックスなどで仕事ぶりを見ることができる。
ロベルト・ゲアルは、1989年に交通事故に遭い重傷を負う。この時仏教を知り、後に改宗することとなる。1993年にドイツのDisko-Bレーベルから "Psycho" プロジェクトのリリースを行った。 
2003-2006: "15 Neue DAF-Lieder"、三度目の解散[編集]
2000年、ロベルト・ゲアルとガビ・デルガド=ロペスは、本来のDAFとして活動を再開。2003年にシングル "The Sheriff"(副題はバンド名と相反して『反米ソング』。プロモーションビデオの最後に星条旗を燃やすという表現を用いた。)と、80年代初期のサウンドを髣髴させるアルバム "15 Neue DAF-Lieder" を発表。ワールド・ツアーを行い、日本でも石野卓球主催のイベントWIREに出演した。
2004年、ベルリンにてクリス・ハース死去。
2005年11月のガビ・デルガド=ロペスの説明によると、DAFとしての活動やニューアルバムの予定は考えていないとのこと。バンドとしては、三度目の解散となる。ロベルト・ゲアルがDAFの活動用に用意していた音素材や楽曲は、解散にともない、彼のソロアルバム "Dark Tool Symphony" で使われることとなった。 

2009-2020: 結成30周年ツアー、再来日。ガビ・デルガド=ロペス死去[編集]
2009年、ロベルト・ゲアルとガビ・デルガド=ロペスは結成30周年ツアーのため、DAFとして活動再開。イギリス、ベルギーでツアーを行っているほか、ミュート・レコードからベスト盤 "Das Beste von DAF" を発表している。 2014年には再来日。ライブを行っている。 以後、単発的にライブを行っていたが、2020年3月22日、ガビ・デルガド=ロペスが死去。享年61。

ディスコグラフィー
  • Produkt Der Deutsch Amerikanischen Freundschaft, アルバム (1979)
  • 『小者・悪者』Die Kleinen Und Die Bösen, アルバム (1980)
  • 『ケバブ・トラウム』Kebab Träume / Gewalt, シングル (1980)
  • Ich Und Die Wirklichkeit, シングル (1980)
  • Alles Ist Gut, アルバム (1981)
  • 『愛と黄金』Gold Und Liebe アルバム (1981)
  • Für Immer, アルバム (1982)
  • Live in Berlin 1980, アルバム (1983)
  • 1st Step To Heaven, アルバム (1986)
  • The Gun, マキシシングル (1987)
  • Best Of DAF, アルバム (1988)
  • Hitz Blitz (1986-1987年のアメリカ向けコンピレーション盤) アルバム (1989)
  • Der Sheriff, シングル (2003)
  • 15 Neue DAF-Lieder, アルバム (2003)
  • Das Beste von DAF, アルバム (2009)
 
 
 

 
 


 





 
 



 
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 満員電車と新型コロナ | トップ | クラスター »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

音楽」カテゴリの最新記事