寿産院事件
1944年(昭和19年)4月~1948年(昭和23年)1月
東京都新宿区で起こった嬰児の大量殺人事件。
被害者の数は103人というのが有力だが、正確な数は判明しておらず、
推定被害人数は85人から169人の間とされる。
Miyuki Ishikawa (石川 ミユキ Ishikawa Miyuki, born 1897, date of death unknown)
寿産院もらい子殺し事件
「わたしは誠心誠意やってきた。
もう少し母乳を飲ませてからでないと死ぬと断っても、
無理に預けていってしまう。
死ぬのは当然だ」
貰い子殺人
佐賀貰い子殺人事件(1905年発覚)
1902年、佐賀市内在住の40代の夫婦が、金目当てで生後6ヶ月の女児を養育費70円で引き取り1年後に餓死させた。ところが、医師が自然死の死亡診断書を書いたので事件は発覚しなかった。これに味をしめた夫婦は、行商人の女とともに、近隣各県から私生児を10円から25円の養育費で引き取っては殺害し土に埋めた。なかには生き埋めにされた新生児もいた。夫婦は逮捕され、被害者は60人よりも少し多いと自供した。1910年6月7日、夫婦に死刑、行商人の女に懲役12年の刑が確定し、夫婦は1913年2月8日に死刑を執行された。事件が発覚した頃、夫婦の蛮行に激怒した住民が夫婦の家を破壊したという。
板橋貰い子殺し事件(1930年発覚)
東京の板橋にあった岩の坂地区で貰い子が1年で41人が殺害された疑惑が発覚した。この地区の長屋の住民には、古くから上流階級などの不義の新生児などを貰い、子殺しをしていた者がいたとみられる。容姿の優れた女児と体力のある男児は育て、炭鉱夫や遊女として売ることもあったという。また、わずかな期間で不審な死に方をした新生児もおおかったが、犯罪として実証された事例はほとんどなかったようだという。なお、この事件をスクープしたのは東京朝日新聞の三角寛記者であるが、彼の経歴から事実が誇張された可能性もあるという。
川俣初太郎貰い子殺人事件(1933年)
東京目黒在住の33歳の男が、「子供やりたし」の広告をみてはその広告の主である産婆の下に行き、何十円かの養育費を受け取ったうえで殺害していた。5年で25人を殺害していたが、その多くは主人が女中に産ませた子供や、働くために子供を手放した職業婦人の子供だったという。男は後に死刑になった。
寿産院事件(1948年)
ミルクや食べ物をほとんど与えないなど必要な世話をせず、また、病気になっても治療をしないことによって、1947年1月からの一年間で、預かった112人の嬰児のうち、85人を死亡させた。これらの嬰児の大部分は私生児で、貴族の子も2人いたという。預かり料は嬰児一人あたり最高8400円で、1947年だけで90万円を荒稼ぎしていた。院長の女とその夫と助手の女が殺人罪で起訴され、1948年10月11日、東京地裁は、院長の女に懲役8年、夫に懲役4年、助手の女には無罪を言い渡した。