「5人家族のうち父、兄、妹が自死。母親は離婚後は疎遠に…」
京アニ放火・青葉真司被告が陥った過酷な家庭環境“負の連鎖”
高校卒業後、青葉は定職には就かず、コンビニでアルバイトを始めた。人生で最大のターニングポイントとなる事件が起きたのは、1999年12月、埼玉県春日部市内でひとり暮らしをしていた頃である。初老の男性が語る。
「うちの2階から青葉家の部屋が見えるんですよ。畳の部屋が血だらけになってたから、首つりとか、そういうのじゃないね」
方法はわからないまでも、父親がさいたま市緑区のアパートで自ら命を絶ったのだ。そして、実父の自殺は一家の崩壊を招く。自宅近くの公園の隅で青葉の妹が、暗澹たる思いに苛まれながら猫に餌をあげている姿が近隣住民に、頻繁に目撃されていた。
「本当によく見かけるものだから、『優しいのね』って声をかけたら、『私のことなんて誰もわかってくれない』って言うんですよ。なんか危機迫っているというか、そんな感じで」
なぜ父親は自殺したのか。息子と娘を残してひとりでこの世を去る。なぜそんな選択をしたのか。 「タクシーで事故を起こしてから、お父さんのやる気がさ、生きていく気力がなくなっちゃったんじゃないの」 前出の初老の男性は推測する。彼が言うように、父親は事故を契機に奔放の域を超えてしまったのである。勝手なまでに彼だけがラクになる道を選んだのかもしれない。
「葬儀は寂しいものでした。このへんの葬儀は、親戚とか隣近所のお手伝いもいただいて粛々と執り行われるんですが、そういった方たちもいなくて」 葬式をあげた住職は言った。喪主は、青葉ではなく離れ離れになっていた長男で、青葉や妹の姿は記憶にないという。仕事をなくし体も壊す。また葬儀には親戚も現れず。おそらく長男や、前妻を頼ることもできなかったか、頼るも門前払いされたのだろう。自殺は、拠り所をなくした果てのことのようだ。
父親の死後、アパートの家賃は滞納され続け、同居していた妹は人知れず姿を消す。近隣住民によれば、以前はバイト先である近くの弁当屋に向かう姿を「よく見かけた」という。 弁当屋を頼りに消息をたどると、前アパートから車で5分ほど走った場所に妹は引っ越していた。錆びついたトタンのボロ屋が並ぶ一区画。貧民窟だ。人の気配はなく、呼び鈴を押しても応答はない。室外機の上に古びた地方紙が重なり、家の周りはゴミだらけである。
真裏に住む女性は言う。 「16年前くらいに住みはじめたみたい。付き合いはほとんどありませんでした。で、そういえば姿が見えないなって。いつ出ていったのかもわかりません。みんな置いたままで。夜逃げみたいな感じです」 「その後、誰か他の人が住まれたんですか?」 「そのままになっています。大家さんも勝手に片づけたり、処分できませんからね」 「妹さんの消息はご存じですか?」 「……実は妹さんも自殺したんですよ」
父親の死から5年後の2004年、事もあろうに妹までもが自ら命を絶っていた。僕は、ある人から彼女が暮らしていた部屋を撮影した写真を見せてもらった。そこに写っていたのは、家具や家電はそのまま、足の踏み場もないほどにゴミが散乱する様子である。父親の後を追うように自死した妹の内側には、どんな心的情景が広がっていたのか。部屋が惨状を呈していたことから、精神がひどく蝕まれていたに違いない。
わずか5年の間に2人の肉親を失い、天涯孤独に陥った青葉は、ついに自暴自棄とも言うべき行動に出る。妹の自殺から2年後の2006年9月、春日部市内で女性の下着を盗み逮捕されたのだ。
このときは執行猶予付きの判決が下されたが、6年後の2012年6月には、茨城県坂東市内のコンビニエンスストアに包丁を持って押し入り、現金2万円を強奪。強盗及び銃刀法違反の疑いで逮捕され、懲役3年6月の実刑判決を受ける。
青葉はこの頃、茨城県内の雇用促進住宅に住んでいた。警察立ち合いのもとで部屋に入った管理人によれば、妹の住まい同様、彼の部屋もゴミ屋敷と化していたそうだ。
強盗事件については「仕事上で理不尽な扱いを受けるなどして、社会で暮らしていくことに嫌気が差した」と供述。
服役中は刑務官に繰り返し暴言を吐いたり、騒いだりして、精神疾患と診断されている。
2016年1月に出所したあと、生活保護を受給しながら、さいたま市のアパートで暮らしていたが、音楽を大音量で流すなどの奇行が目立ち、住民とトラブルになっていた。
事件直前の夜に青葉が発した「黙れ! うるせえ、殺すぞ。こっち、失うもんねえから!」という言葉が思い出される。
その後、薬物療法を受け一時期はさいたま市浦和区にある更生保護施設にいたが、敷かれたレールに乗れば更生するとは限らない。いや、むしろ己の人生は両親や社会からのリンチだと悟ったのか、憎悪の火に油を注いだだけだった。
凶行の日は、出所から3年半が過ぎた2019年7月18日のことだった。
数週間前には、事件現場に持ち込まれた包丁6本をさいたま市内の量販店で、前日午前にはホームセンターでガソリン携行缶や台車を購入し犯行に及ぶ。ガソリンを撒き、ライターで火をつけ、京都アニメーションの第1スタジオは炎の海と化した。
青葉は自身の衣服にも引火した状態で逃走したが、現場から南へ100メートル離れた路上で火災被害から逃れた2人の男性社員に取り押さえられる。ほどなく駆けつけた京都府伏見警察署員が身柄を確保し、病院へと搬送。
危篤状態にありながらも奇跡的に快方に向かったことで2020年5月27日、殺人・殺人未遂・現住建造物等放火・建造物侵入・銃刀法違反で逮捕となった。建物は全焼。死亡者36人。負傷者35人。殺人事件では戦後最多の死者数を出しながら、奇しくも当の青葉だけは生き残っている。
青葉の半生を綴ったユーチューブ動画を公開すると、青葉をよく知る男性から連絡があり、僕はさらなる負の連鎖を知らされることになる。 「実は青葉の兄も自殺しているんです。5人家族のうち父、兄、妹が自死を選び、母親は離婚後に別家庭を持ったため疎遠に。そのことをどうしても伝えたかったのです」
2020年12月16日、青葉は前述の5つの罪で京都地検より起訴される。犯行動機などについては、身柄を確保された際に「俺の作品をパクりやがったんだ!」と声高に叫んだことからして、京都アニメーションに大きな憎悪を抱いていたことは明らかだろう。
実際、青葉は京アニ主催の『京都アニメーション大賞』へ小説を応募していた。だが同社は、彼の小説は形式的な一次審査で落選していたと説明し、そのうえで「盗用の余地はなかった」と反論する。
前出の青葉をよく知る男性は言う。 「もちろん青葉の起こした事件は許されることではないけれど、青葉という人物がなぜ生まれたのか正しく伝えてほしいんです」
2023.9.7. 高木 瑞穂,YouTube「日影のこえ」取材班班)
「1年後に作家デビュー、5年後に家、10年後は大御所」出所後の夢描く青葉被告の部屋に破壊プレステと切り刻まれた革ジャン 弁護側が精神状態を説明【京アニ裁判】
京都アニメーション放火殺人事件の裁判は2日目(証拠調べ)です。検察側が青葉真司被告が確保された直後の警察官との緊迫したやりとりを音声で公開した後、弁護側が説明に立ち、青葉被告がコンビニ強盗事件で刑務所に収容されてから、京都アニメーションで事件を起こすまで約7年間の精神状態を中心に説明しました。
2013年7月以降の刑務所での記録によりますと、青葉被告は幻聴・幻覚・不眠などによるイライラに悩まされ、自殺のリスクが高い「要注意者」に指定。部屋で不審な動きをして職員に注意された際は強く反発するなど、10回以上も懲罰を受けたうえ、2015年10月には「統合失調症」と診断されたということです。
刑務所の中で京都アニメーションの作品を鑑賞していて、2016年1月に出所する際のアンケートには、「1年後に作家デビュー、5年後に家を買う、10年後は大御所」と書き、自身の夢を抱いていたことが明かされました。
また出所後、青葉被告を担当した訪問看護の記録などによりますと、青葉被告は、主に不眠の影響で精神状態が常に不安定だったとし、2018年5月には、自宅アパートを訪れたスタッフに包丁を振りかざし、「付きまとうのをやめないなら殺すぞ」「今のままでは人を殺してしまう。人間は足を引っ張る人間ばかり信用できない」などと脅したり話したりすることもあったということです。
青葉被告の室内には、破壊されたパソコン2台とプレイステーションが散乱していたほか、切り刻まれた革ジャンパーや布団が散らばっていたということです。 青葉被告は、薬を飲んだり、睡眠が十分なら精神状態が安定することもあったそうですが、2019年3月に突然連絡が取れなくなったといいます。 そこから、事件に近づく約3か月間面会できなかった訪問看護施設側は、薬が服用できていないことから「対人トラブル」が起きないか懸念していたことも、弁護側から説明されました。
(2023.9.6.MBS NEWS)
「元夫にそっくり」「もう面倒見ていられない」
青葉真司被告と母親、ギクシャク関係の果てに
第2回公判が6日、京都地裁(増田啓祐裁判長)で行われた。検察側は、青葉被告の母親の供述調書を読み上げた。夫との離婚が原因で青葉被告と離ればなれとなり、被告が成人してからも関係をうまく築けなかった母親の葛藤が浮かび上がった。 青葉被告は埼玉県内で生まれ、両親、兄、妹と5人で暮らしていた。 母親は「子供の頃は可愛らしい元気で活発な子で、コミュニケーションを取って友達を作ることもできた。手がかかる子ではなかった」。学校の成績は普通で、面倒くさがりな一面もあったが、「手伝いをすると『お母さんやったよ』と得意げに報告していた」。 青葉被告が小学3年の時、夫と離婚。親権は父親が持ち、母親は3人の子どもと離ればなれになった。再会したのは元夫が亡くなった1999年。「3人とも家を出て行った私を恨んでいるようで、険しい表情だった」 次に会ったのは、2006年。青葉被告が埼玉県内で下着泥棒をして、逮捕されたと聞いた。面会に行ったが、会ってもらえなかった。妹となら会うのではないかと思って一緒に連れて行ったが、青葉被告は自分を見るなり「何しにきた。それはないだろ」と怒って退室したという。 この事件後、母親は再婚相手の夫と住む茨城県内の家に青葉被告を引き取り、一緒に住むようになった。 ところが被告は夫に「夢はないのか」と問われ、口論に。その時、青葉被告は「犯罪を犯したからやりたいことをやる立場にはない」と早口でまくし立てた。「気に食わないことがあるとまくし立てるところは、元夫とそっくりだと思った」 青葉被告は自室に引きこもるようになり、母親は部屋の前に食事を置くなどしていた。青葉被告は半年後「仕事を見つけたい」と言って家を出た。 青葉被告は茨城県や栃木県内で職に就いたが、いずれも長続きしなかった。 母親は、雇用促進住宅に住む青葉被告に週1回、2~3千円や1週間分の食料をもっていくようになった。「低カロリーの納豆は体に良い」と言っていた息子は「小説を書いている。女子高生がキャピキャピするもので、会社とやりとりしている」と明かしていた。 その後も金銭や食料の援助を続けていたが、青葉被告は2012年でコンビニ強盗事件を起こした。 奪った金額は2万1千円。一部は母親がコンビニに弁償した。 「もう面倒は見ていられない」 以来、母親は被告と会うことも、連絡を取ることもやめたという。
(2023.9.6.京都新聞)
初公判で明かされた「青葉被告」の歪な成育歴
“ゴミ屋敷での極貧生活”“小学生時代から万引き常習”“下着泥棒で逮捕”
の転落人生
36人が命を落とし、32人が重軽傷を負った「京都アニメーション放火事件」を引き起こした青葉真司被告(45)。9月5日に開かれた初公判で、検察側は青葉被告の自己愛的なパーソナリティーについて、彼の“成育歴に起因する”と主張している。
検察側の冒頭陳述で指摘された彼の“成育歴”を抜粋すると、<9歳のときに両親が離婚>、<父親による虐待や貧困>、<転校や不登校を経験>。社会に出てからも<生活が困窮し、食品を万引き>するようになり、ついには<下着泥棒や女性への暴行で逮捕>。まさに転落の一途を辿っている。 事件の発生当時、青葉被告の周辺を取材した「週刊新潮」の記事は、今回の冒頭陳述の内容をさらに深く掘り下げていた。彼が「京アニ放火事件」に手を染めるまでの半生を、改めて振り返ってみたい。(以下、「週刊新潮」2019年8月1日号掲載の記事を加筆・再構成しています。日付や年齢、肩書などは当時のまま) ***
未曾有の惨劇の直後、京都府警が身柄を拘束したのは、現場にガソリンをぶちまけ、火を放った青葉真司容疑者(当時41)だった。自身も重度の火傷を負い、いまも生死の境を彷徨う「爆殺犯」。その人生を辿ると、暗く荒涼とした軌跡が浮かび上がってきた。 1978年に3人きょうだいの次男として生まれた青葉容疑者は、埼玉県内の小学校に進学する。低学年の頃に親しかった同級生によれば、 「青葉と遊んでいたのは僕ともうひとりの友だちくらい。何を考えているか分からない、クラスでも浮いた存在の奴でした。同級生と並ぶと頭ひとつほど背が高く、体格も良かった。当時流行っていた『北斗の拳』のラオウと青葉の“ば”をかけて“バオウ”というあだ名で呼ばれていましたね」 この友人は彼の自宅アパートを訪れた日のことを鮮明に覚えている。 「ひと言でいうとゴミ屋敷です。食べ終わったコンビニ食品の容器やゴミ袋が部屋中に散乱していて足の踏み場もないほど。2段ベッドで妹と寝ていましたが、よくこんな部屋に住めるなと衝撃を覚えました。家が貧しかったのは事実で、いつも同じGジャンやトレーナーを着ていた。もうひとつ忘れられないのは彼から“万引き”に誘われたこと。スーパーかコンビニでお菓子を盗もうって。まだ小学校低学年だった僕は、事もなげに万引きを持ちかける青葉に驚かされました」 お菓子を買う金にも窮していた極貧少年は、10代に入る前から日常的に万引きに手を染めていた。
ほどなくして青葉容疑者の両親は離婚し、きょうだい3人と父親の暮らしが始まる。中学時代の様子について、彼と同じ柔道部に所属していた同級生はこう話す。 「2歳年上のお兄さんが柔道部の部長だったせいか、本人はかなり威張っていた印象です。練習熱心な割に強くはないんですが、サボっている同級生に“なんで練習に来ないんだよ”と注意してくる。あと、乱取り稽古で得意技の内股をかけるときに、相手の金的を勢いよく蹴り上げるんですね。金的への攻撃は反則技なので練習相手と揉めることもしばしば。誰も青葉と組み手をしたがらなかった」 青葉容疑者はこの中学校を途中で「転校」するのだが、 「担任の先生がホームルームで“おい、青葉を知らないか?”と生徒たちに聞いたんです。みんなキョトンとしていましたよ。学校にも知らせず、突然いなくなったという感じです。仲の良い友だちもおらず、結局、どこへ転校したのかも分からずじまいだった」(同) 人知れず埼玉県内の別の中学へと移った青葉容疑者だったが、次第に学校から足が遠のき、当時の同級生は卒業アルバムの写真(掲載)を見ても「ほとんど記憶にない」と口を揃えるのだ。 中学を卒業すると流転の人生に拍車がかかる。 埼玉県内の定時制高校に通いながら、県庁の文書課で文書の集配をする非常勤職員として働いた青葉容疑者。 その後、職を転々とするうちに、「タクシー運転手だった父親が事故でケガをして廃業に追いこまれ、まもなく自殺した」(当時の自宅の近隣住民)という。
20代になると、きょうだいとも距離を置くようになり、春日部のアパートでひとり暮らしを始める。そして、2006年に最初の「事件」を起こす。 当時の大家が明かすには、 「いきなり警察がやって来て“下着泥棒の捜査でご協力を”という。彼の名前を言うので部屋を教えました。午前中でしたが、コンビニの夜勤明けだったのか彼はまだ寝ていた。警察に叩き起こされ、そのまま連行されていきましたよ」 それから6年後にはコンビニ強盗で逮捕。服役後はさいたま市内のアパートに移ったが、隣室の住人は、 「7月14日の深夜、隣の部屋から“うわぁぁ!”という叫び声がして壁をドンドン! と何度も叩いてきたんです。恐る恐る隣の部屋のドアをノックすると、飛び出してきた彼に胸ぐらと髪の毛を掴まれた。“お前殺すぞ!”“こっちは失うものは何もねぇんだよ!”と大声で繰り返されて……。180センチ近い長身で、でっぷりとした体からはすえた臭いがしました。本当に殺されるかと思いましたよ」 その4日後、失うもののない男は「本当に」大量殺人事件を引き起こす。
(2023.9.6.デイリー新潮編集部)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます