平らな深み、緩やかな時間

96.柄谷行人『日本近代文学の起源』「風景の発見」について

「92. 2019年、夏。若い美術家の方へ。」で触れることができなかった本で、私が若いころに読んで影響を受けた本、目から鱗が落ちる思いをした思想や考え方について書いてみたい、という内容の続きです。
今回は、目から鱗が落ちるとは、このことか・・・、という話です。

それは、柄谷行人(1941 - )の若いころの著作『日本近代文学の起源』(1980)という本についての話です。柄谷は現在では、広く思想的な、政治的な発信をしていますが、1980年代には、最新の思想を独自の視点から解釈し、語ることのできる文芸評論家として影響力を持っていました。私は文芸評論などほとんど読んだことがなかったのですが、この『日本近代文学の起源』は簡単な内容ではないのに、不思議とスーッと読めました。というのは、はじめの章が「風景の発見」という、風景に関する文章だったからです。私には柄谷の難解な思想全般について語ることは到底できませんが、この『日本近代文学の起源』の中の「風景の発見」については、ぜひとも自分なりの受け止め方を書いてみたいと思っていました。今回は、そんな試みを綴ったものです。

さて、それでは柄谷はこの本の中で、風景についてどのようなことを言ったのでしょうか。冒頭に書いた、「目から鱗が落ちる」思いがした文章を、まず引用しておきましょう。

私の考えでは、「風景」が日本で見出されたのは明治20年代である。むろん見出されるまでもなく、風景はあったというべきかもしれない。しかし、風景としての風景はそれ以前には存在しなかったのであり、そう考えるときにのみ、「風景の発見」がいかに重層的な意味をはらむかをみることができるのである。
(『日本近代文学の起源』「風景の発見」柄谷行人著)

「風景」が「日本で見出されたのは明治20年代である」ということと、「風景としての風景」は日本では「それ以前には存在しなかった」という指摘を読んで、私はショックを受けました。もちろん、「見出されるまでもなく、風景はあったというべき」だと、誰もが考えるでしょう。明治20年代より以前にだって、日本の人たちの周囲には風景があったし、それを当たり前のように見ていたはずです。しかし、同じ視覚に映る風景であっても、「風景」という認識があるのとないのとでは、世界が違って見えていた、という話なのです。そのことを理解していただくためには、すこし説明が必要です。

柄谷はこのエッセイで、明治時代にイギリスに留学した夏目漱石(1867 - 1916)のことを大きく取り上げています。漱石は帝国大学を卒業すると英語の教師になりますが、その7年後の明治33(1900)年から36年までイギリスに留学しています。イギリスに行く前から、仕事も家庭もうまくいっていなかったようですが、イギリスでも漱石は発狂したと噂されるほどの危機的な状況に陥ります。それは彼が、あることについて思い詰め過ぎてしまったからだと思われます。漱石は、それほどに何を思い詰めていたのでしょうか?
彼は、「文学とは何か」を考え、思い詰めていたのです。漱石は下宿にひとり立てこもり、文学書を読んでも役に立たないと考えてそれらを行李(手荷物)の底にしまってしまいます。そして「文学はいかなる必要があって存在し、発達し、衰退するのか」を思い悩むのです。ふつうに考えると、漱石はイギリスまで行って何をやっているのか、と疑問に思うでしょう。せっかくの留学ですから、イギリスの文学者の教えをこうとか、図書館に行ってたくさんの原書に触れるとか、いろいろなことが出来そうなものです。しかし漱石の生きた困難な時代が、彼にそんな悠長な時間を与えなかったのです。
漱石が生きた明治時代は、誰もが知っているように鎖国が解けて、西欧の文明が一気に日本に流れ込んできました。文学も絵画も彫刻も大混乱に陥ります。もちろん、日本にだって文学や絵画や彫刻にあたるものが、それまでにもあったはずです。しかし、例えば美術に関して言えば、ファイン・アートにあたる概念は、日本には存在しませんでした。日本の絵画や彫刻は、装飾品や調度品と深く結びついていましたから、それらは「いかなる必要があって存在するのか」と問われるようなものではなかったのです。文学においても、状況は同じでしょう。近松門左衛門の「戯曲」や曲亭馬琴の「読本」はありましたが、それらも西欧文学における「小説」とは異なるものだったのです。
その時代の中で、漱石は「多くの人は日本の文学を幼稚だ」と言い、「情けないことに自分もそう思う」と言っています。しかしその一方で、彼は西欧文学に追いつけばよい、という単純な考え方はしませんでした。これが漱石の特異なところだと思います。彼は日本の文学の発達した先が、ロシア文学やフランス文学などと「一様な性質のものに発展しなければならないという理由も認められない」という、客観的な視点も持っていたのです。だからこそ、彼は文学というものを自分なりに究め、これから進む方向を見定める必要があったのです。
興味深いことに、漱石は自分が子供のころから「漢籍」、つまり「漢文学」を学んでいたから、西欧の文学史が一筋の道に過ぎないことを理解できたのだと言っています。また同様に、「漢文学」を学んでいたから、「文学」に生涯をささげても悔いはない、と思ったのだとも言っています。このように言われると、漱石は「漢文学」を「西欧の文学」と同じような価値のものだと捉え、それを比較して考えたのではないか、と思いたくなります。しかし、そうではない、もっと入り組んだ事情があったのだ、と柄谷は言います。それは、どんな事情でしょうか?
そのことを説明するために、柄谷は美術家の宇佐美圭司(1940 - 2012)のエッセイを引用しながら、「漢文学」を「山水画」になぞらえて語り始めます。その説明を辿ってみます。
私たちは、古い日本の風景画を当たり前のように「山水画」と呼びますが、実は「山水画」は明治以前からそう呼ばれていたわけではありません。明治の近代化に伴って、「風景画」という概念が入ってきたときに、はじめて「山水画」と呼ばれるようになったのです。つまり、そのときから「山水画」は風景画の中のひとつのカテゴリーとして位置づけられたのです。それ以前の「山水画」は、「四季絵」とか「月並(つきなみ)」などと呼ばれていて、現在のような意味での風景画だとは思われていませんでした。「漢文学」も、同様です。古来、中国から漢字が入ってきて、日本でも漢詩や漢文が綴られるようになりますが、それらは現在のような意味での文学作品ではありません。「文学」という概念が入ってきた後に、それらを「漢文学」として位置づけられたのです。ですから、漢文学の教養は漱石の中で西欧の文学を相対化するひとつの要因にはなったでしょうが、「漢文学」そのものが西欧の文学と比較できるものではなかったのです。「文学」を探究していた漱石にとって、漢文学がなじみの場所だとしても、そこへ後戻りすることはできません。彼には「回帰する」場所はなく、いわば追い詰められた状況で「文学」を究めるしかなかったのです。
さて、漱石の「漢文学」の説明から、「山水画」が事例として取り上げられ、それが「風景」の発見という話につながっていきます。さまざまな西欧の文化が日本に入ってくる中で、「山水画」が「山水画」と呼ばれるようになり、そのおおもとである「風景画」というカテゴリーが形成されたのです。そのような状況下で、明治20年代に「風景」が日本で見出された、と柄谷は言ったのです。しかしその「見出された」という字面を追うだけでは、その「重層的な意味」を、つまりそのことの本当の重要性を理解することはできません。「重層的な」というのは、そのことが単に「風景」に関する問題なのではなく、人間の「内面」であるとか、「自己」の確立といった、人間の認識の根本の問題と重なることを意味します。そのことを正しく把握するためには、「風景」を見出す以前の人たちが、自分の周囲の風景を見ても、「風景」だとは認識していなかった、ということを実感できなければなりません。この実感を説明することは困難ですが、できるだけのことを試みてみましょう。
別な角度から考えてみましょう。視覚の中に映ずる像を「風景」として認識するには、その中心に自分がいる、ということを認識しなければなりません。さらに言えば、そのためにはそれをながめている自分を「内面」化し、外界と対峙する意識が必要でしょう。それが西欧の絵画や文学における「風景」の意味なのです。そして、この「内面」化という意識も、「風景」や「文学」とともに、この時代に西欧から持ち込まれたものなのです。柄谷はこの『日本近代文学の起源』において、「風景の発見」の次の章として「内面の発見」という章を置いています。話はすべてつながっているのです。
さらに考察を深めるために、私たちが風景画を描くうえで必要な技術として何気なく使っている「透視図法」という遠近法について考えてみましょう。この図法とともに西欧の「風景画」は発展してきたのですが、そもそも「透視図法」は自分自身を世界の中心に置き、その視点から見える外界を正確に写しとる、という技法です。この技法を了解するためには、外界と分け隔てた自己というものが世界の中心に存在する、ということを了解しなくてはなりません。もしも自己というものが確立しておらず、したがって内面も外界も存在せず、自分が世界の中心だなどと大それたことも考えたことがない、という人がいたら、その人に透視図法を理解させることは無意味でしょう。それに「透視図法」を知らなくても、絵を描くことは可能です。例えば日本の「山水画」にも、遠近を表すおおらかな概念があります。そればかりか、「山水画」では、一枚の絵の中に同じ人物がだんだんと遠ざかっていくような、多元的な時間の表現も可能です。いまここに、とりかえようのない自分がいて、その自分の目の位置が絶対的な視点となる、ということへのこだわりは、西欧の近代化の中で生じたことです。私たちはそれを自然なこととして受け入れていますが、漱石はそれが当たり前ではなかった時代に生まれ、それを受け入れざるを得ない激動の時に立ち合ってしまったのです。私たちが「風景の発見」の本当の意味を実感するためには、例えば「山水画」に対する歴史的な見方を一回外して、「山水画」を描いた人たちが自然のなかに抱かれるように生きていたことに思いをはせる必要があるでしょう。遠い山並みを、距離を置いた視点から描いたのではなく、過去にその山を越えた時の体験から厳しい山の稜線を描いたり、激しい風の中でうねる松林のなかに立ちすくんだ経験から揺れる枝並を描いたりしたことを肌で感じ取るのです。その想像力によって、私たちは近代の枠組みからすこし自由になれた、と言えるようになるのだと思います。
うまく説明できたのかどうか、自信がないのですが、私が「風景の発見」ということの意味に気づいたのは、その当時、フーコー(Michel Foucault、1926 - 1984)の『知の考古学』を読んでいたからかもしれません。「風景の発見」と「知の考古学」に共通するのは、近代的な自分を中心とするものの見方とか、いまの自分の位置から歴史を遡るという認識を外してみる、ということです。当時の私には、そのことがモダニズムによって行き詰って見える様々なことを突破する、ひとつの糸口のように思えたのです。
このことについて、もうすこし書いておきましょう。
1983年に思想書としては異例のベストセラーとなった『構造と力』のなかで、浅田彰(1957 - )は近代社会になって絶対的な中心となるものが引きずりおろされ、そのかわりにそのなかの一人一人が先行者に追いつき追い越せとばかりに走り続けることを求められる社会となった、と整理しました。資本主義の世界が利潤を求めてグローバルに広がる中で、人々はますます忙しくなり、自然は破壊され、格差は広がり・・・、という兆候が見えてきていた頃ですから、このような本が広く読まれていたのは、そのような意識がすこしは浸透していたのかもしれません。浅田は、そのような終わりのないレースから外れるためには、その外に出なければならない、と書いていました。その「外」というのはどこか、と言えば「動く砂の王国」である「砂漠」だと言うのです。この唐突に詩的な比喩表現があらわれたことに、いささか戸惑いましたが、当時20代前半の著者に対してこのような大きな問題の具体的な処方箋を求めること自体が、虫がいいことだったと思います。
この「外」へ、という考え方ですが、1985年以降、柄谷は『内省と遡行』(1985)、『探究Ⅰ』(1986)、『探究Ⅱ』(1989)という理論的な著書を発表して、「外部」という問題を追究していきます。柄谷の文章はどんどん抽象的になっていき、内容も言語、数学、貨幣、精神分析というふうに、文学から離れてしまいます。『近代日本文学の起源』ですら、「風景」という手掛かりがあったので難しい文芸評論に何とか食いついていった私ですから、議論が抽象的になれば、もう、お手上げです。それでも、字面だけは読み続けようと思い、頭に入らないままに柄谷の本を読み続けました。なぜ、こんなにも「外」、「外部」という問題が魅力的であったのかと言えば、「風景の発見」に見られたような、これまでのものの見方とまったく違った見方、認識の転換のようなものが、「外部」に出ることによって見えるのではないか、という期待があったからです。そのときに自分の描く絵画も、新たに展開できるのではないか、という下心もあったと思います。しかし、当たり前の話ですが、そんなにかんたんに「外部」に出られるはずがありません。新しい思想家によるおいしい話が次々と明らかになる、ということもありません。『探究Ⅱ』において、柄谷が言及したのはデカルト( René Descartes、1596 - 1650)、スピノザ(Baruch De Spinoza、1632 - 1677)、フロイト( Sigmund Freud、1856 – 1939)などで、むしろ哲学や精神分析の原点回帰のような顔ぶれでした。
柄谷の試みを見るまでもなく、私たちがものを考える手段としている言葉も、参照している本も絵画も、すべて私たちの世界の内部にあります。新しいテクノロジーを駆使したからと言って、それが「外部」に通じるという保証もなく、すべては私たちの内部で起こっているできごとなのです。いま制作されている新しい芸術作品が「外部」に近い場所にあるのか、と言えばそういうわけでもなく、夏目漱石の文学論のように100年以上前のエッセイが「風景の発見」を導き出すこともあるのです。私は他者によって「外部」へと導かれることを期待するのではなく、私の表現が見る人を「外部」へと導くような作品をつくるべきでしょう。いまだにそんな作品はできませんが、その最前線にいたい、とは常に思っています。

さて、せっかく漱石の話が出てきたので、最後に彼の話を補足しておきます。
ここでは漱石のことを中心として論が進んでいきましたが、彼がいかに生きることに苦労した人なのか、この「風景の発見」を読んだだけでもよくわかります。漱石が留学中に文学を究めようとしたことや、漱石が幼いころに養子に出された、いわば「とりかえ」られた子供であったことが、ここで語られています。漱石にしみれば、自分自身のかけがえのないはずの人生が、親の都合による「とりかえ」によって左右されたものだと知っているわけですから、西欧の文学史がいかに圧倒的なものであっても、それが一筋の道に過ぎないのではないか、と疑うことくらい、当たり前のことなのかも知れません。
私には、漱石の中にもヘッセが創造した「荒野のおおかみ」(前回のblog)が、それもかなり手ごわい奴が住んでいたのではないか、と思えてなりません。彼は自分の疑り深さのために生きにくさを味わい、それゆえに文学的に大きな業績を残しました。漱石の偉大さが、彼の苦悩の代償なのかもしれない、と考えると、尊敬と同時に痛々しさも感じてしまいます。
それから、このような思考の末に、漱石は文学をどのように捉えようとしたのか、ということも書いておきましょう。例えば、ある時代の、ある国の、ある個人の文学を手本として考えることは、懐疑的な彼にはできないことです。それで漱石は、特定の時代や国、作家のことを考えるのではなくて、「古今東西にわたってあてはまる様に、作家も時代も離れて」、作品上にあらわれた特性のみを考えること、すなわち作品の「形式と題目」とによって考えるほかに致し方ない、という結論を出します。
柄谷はこの漱石の結論について、次のようにまとめています。

以上の引用から明らかなように、漱石は、歴史主義にひそむ西欧中心主義、あるいは歴史を連続的・必然的とみる観念に異議をとなえている。彼はまた、作品を「時代精神」や「作者」といったwhole(全体)に還元することを拒否し、「作物の上にのみあらはれた特性」に向かった。このような発想はフォルマニスト的なのだが、むろんそれに先立っている。
(『日本近代文学の起源』「風景の発見」柄谷行人著)

フォルマニストと言えば、美術で言えば優れたセザンヌ論を書いたロジャー・フライ(Roger Eliot Fry, 1866 - 1934)やアメリカのもっとも重要な美術評論家クレメント・グリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)が思い当たります。彼らは画面上から読み取れることを基本にして、絵画を評論しました。文学においては1910年代のロシアで、作品を主に技術的な側面から読み取る批評がフォルマニズムと呼ばれていたようで、漱石が「それに先立っている」と柄谷がわざわざ言っているのは、漱石が独自にそのような作品の見方に至った、ということをおさえておきたかったからでしょう。
文芸評論のことは、私にはよくわかりませんが、理論家の漱石がフォーマリズムの批評に到達したことは頷けます。しかし、それとは別にして、美術批評においてはフォーマリズム批評の功罪について問題になっているところです。私も、自分なりの批評の方法について、模索していきたいところです。


今回、柄谷行人や夏目漱石について振り返ると、その著作を読み返したい誘惑にかられます。とくに柄谷は、いま彼がやっていることがよくわからないので、その軌跡を辿りなおしたい気持ちになります。しかし、彼は私の興味の対象からはずいぶん離れてしまったような気がするので、二の足を踏んでいます。
漱石については、彼の心の闇が深い分だけ、まだまだ可能性があるような気がします。彼の後半の作品は、どれも言いようのない生きにくさ、懐疑や恐れが蔓延していて、それが半ばミステリーを読むときのような興味をそそります。
それから、彼が生きた明治という時代は、何もかもが急ぎ足で通り過ぎていった時代です。その落ち着かなさはいまも変わらないのかもしれませんが、たとえば日本画とか、彫刻とか、旧来、日本にあったと言われるもののその後の展開は、理想的なものだったとは言えないでしょう。いわゆる洋画とか現代美術とかいわれるものについては、世界との比較から非難されることが多いのですが、例えば日本画の現状はどうでしょうか。明治になって捨ててきたもの、取り入れたものを、もう一度、考えてみることは必要なことだろうと思います。最近では、日本の美術の工芸的な側面が強調されがちですが、個人的には手先の器用さばかりが強調されるそれらには面白みを感じません。本当に価値のあるものは、何だったのか、いまは自分のことだけで手いっぱいですが、いつか、自分なりに探究してみたいですね。どなたかこのような問題について、示唆していただける方がいましたら、教えていただけると幸いです。


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