平らな深み、緩やかな時間

269.『100分DE名著「存在と時間」』②、黒澤明監督『生きる』

前回に引き続き、『100分DE名著「存在と時間」』からハイデガー(Martin Heidegger, 1889 - 1976)の思想について考えます。この著作の内容は、今年の春(2022年3月から4月)にNHKで放送されたものですが、残念ながら私は見ていませんでした。しかし、このところ「新しい実存主義」などに関する本を読んでいて、ハイデガーの『存在と時間』をぜひ理解しておきたいな、と思っていましたので、試しにこのテキストを読んでみました。すると不思議なことに、『存在と時間』がとても身近なものに感じられました。

今回は、さらに『存在と時間』をわかりやすく感じていただくために、後半で黒澤 明(1910 - 1998)監督の映画『生きる』を参照してみたいと思います。『生きる』を見たことがある方も、そうでない方も、よかったら最後までお読みください。

 

まずは前回のおさらいです。ハイデガーの哲学用語について、主なものだけでも押さえておきましょう。わからないところがありましたら、前回の私のblogを見ていただくか、『100分DE名著』を購読してください。

 

「存在者(ザイエント)」 りんごが在る、の「りんご」にあたるもの

「存在(ザイン)」    りんごが在る、の「が在る」にあたるもの

「現存在(ダーザイン)」 存在の意味を問う存在者(人間)のこと

「本来性」        人間が自分の本来の生き方を生きること

「非本来性」       人間が他者の思惑によって生きること

「実存」         時間の中で現存在が関わり合う存在(自分)のこと

「世人(ひと、せじん)」 世間、あるいはその場の空気、雰囲気のようなもの

「世界」         人間が関係する社会などの、人をとりまく全体のこと

「世界内存在」      人間が世界の中で存在すること

「世間話」        空気を読んだコミュニケーションによってできた話

「好奇心」        世間に迎合して、コロコロと態度を変えること

「曖昧さ」        世間に流されて「本来性」の意思表示ができないこと

「頽落(たいらく)」   世間話、好奇心、曖昧さが合わさって、退廃していること

 

これらの用語を頭に入れて、『存在と時間』をめくってみると、必ず以前よりも身近な本だと感じます。前回のblogでは、これらの用語を紹介しながら、ハイデガーが、「人間」は「頽落」しがちな存在である、と考えていたことを紹介しました。それは、彼があまり裕福ではない家庭に育った、苦労人であったことと関わりがあるようです。

 

そして今回は、はじめに人間が「本来性」の生き方を取り戻すにはどうしたら良いのか、ということについて考えてみましょう。そのために、なぜ「人間」は「頽落」しがちな存在なのかを考察してみます。

ハイデガーは、こんなふうに考えたのだそうです。人間は「世人」に同調していればとりあえず安心できる、だから「人間」は「世人」に同調して「頽落」するのだろう、というふうにです。そう言われれば、みんながこうしているから自分もこうしよう、という判断を、私たちは日常的に行なっています。それで概ねうまくいくことが多いですし、私たちが「世界内存在」である限り、それは避け難い傾向なのだ、とハイデガーも考えたのです。

しかし、この安心な状態が、必ずしも正しいことだとは限りません。学校でのいじめの問題は、その典型的なものでしょう。いじめの被害者の悲惨な状況に比べると、加害者の意識はきわめて低いものです。加害者の多くが、「世間話」や「好奇心」、「曖昧さ」に流されていじめに加担しているだけですから、それは当然です。残酷なことをしている、という意識すらないのです。日本は同調圧力の強い国だと言われますが、これは「頽落」の危険性が高い国だとも言えるのです。

それでは、どのようにしたら「頽落」の傾向から逃れることができるのでしょうか?ハイデガーが提示したキーワードは「死」と「良心」だそうです。「良心」が大切だというのはわかりますが、「死」がキーワードだというのは、どういうことでしょうか?

ハイデガーはこのように考えました。「世人」の中に紛れている時、つまり「世人」に支配されている時の私たちは、「私」個人ではなくて「みんな」の中に紛れ込んでいる状態にあります。その状態では、個人的な判断が回避できるので、安心感があるのです。しかし、私たちが「みんな」でいられるのは、みんなと一緒に生きているときだけです。死んでしまえば誰もが一人ぼっちですから、人間は死ぬときに自分の「本来性」を意識するのです。それでハイデガーは、「頽落」から逃れられるのは「死」ぬときだと言ったのです。

しかし、本当に死んでしまえば「頽落」どころではなく、人間としての活動が終わっているわけですから、何を考えても意味がありません。そうではなくて、私たちが「死」を身近に意識したときに、「頽落」から解放される機会がある、とハイデガーは考えたのです。つまり、ちょっと逆説的になりますが、私たちは「死」の可能性と向き合うときに、はじめて生の「本来性」を取り戻すことができる、ということです。『100分DE名著』では、次のように書いています。

 

自分の人生をどう生きるのか、自分が何のために存在しているのか、という問いへと私たちを誘う、この死の可能性に直面することを、ハイデガーは「先駆」と呼びます。

 

<死に臨む存在>として可能性に向かう存在は、死がこの存在において、この存在にとって可能性としてあらわになるような態度で、死に臨むのである。このような<可能性に向かう存在>を、わたしたちは用語として「可能性への先駆」と呼ぶことにする。

 

私たちは、いつ、いかなる瞬間においても死を迎えうる。ハイデガーはこの意味において現存在を「死に臨む存在」とも呼んでいます。この厳然たる事実を直視するとき、私たちは世人の支配に囚われることなく、「誰でもない誰か」として生きるのではなく、自分自身の可能性から、自分自身の人生を歩めるのではないか。ハイデガーはそう指摘しています。

(『100分で名著「存在と時間」』「第3回放送」戸谷洋志)

 

上記の文章の真ん中のところが『存在と時間』からの引用だと思われますが、さすがにわかりにくいですね。それに比べて戸谷さんの文章は平易で素晴らしいです。

このように「死に臨む存在」となって、私たちは「本来性」を取り戻すはずなのですが、これがそう簡単にはいきません。すべての人が、死に際になって素晴らしい生き方をするわけではないのです。それまでさんざん「非本来性」の行き方をして、「世人」に流されてきたのですから、急に死に際になって良い生き方ができるわけではないのです。

そこでハイデガーがもうひとつのキーワードとしたのは、「良心の呼び声」です。「本来性」の生き方をするためには、「世人」に流されず、ときには孤独や不安に耐えなければなりません。その不安に打ち勝つためには、「そんな生き方ではだめだ」という良心の呵責が重要になります。その「良心の呼び声」から逃げ回っていては、いつまでたっても自分本来の生き方ができません。戸谷さんはそのことを、こう書いています。

 

たとえて言うなら、「良心の呼び声」は、「私」を呼ぶことによって、「私」を夢から覚めさせる声だと考えることができます。非本来性に陥っているとき、「私」は世人に支配され、「これだけが唯一の正解なんだ」という悪夢に囚われています。しかし、そうしてうなされている「私」に内側から「おい」と声をかけることで、良心は「私」を非本来的な状態から覚醒させるのです。

(『100分で名著「存在と時間」』「第3回放送」戸谷洋志)

 

さて、このように『存在と時間』が指し示す「人間」像を見ていくと、一人の人間の生き方が想像できます。

その人は「世人」に支配され、「非本来性」の生き方に長らく甘んじていました。そのために、きっといろいろな問題も生じていたのでしょうが、「みんな」の中に紛れて生きているので、自分でその責任を引き受けることもしませんでした。ところがその人は、ある日、自分の身体に大きな病があることに気が付きます。途端に「死」を身近に感じたその人は、それまでの「非本来性」の生き方を反省します。しかし、はじめのうちは「良心の呼び声」が十分に聞こえていなくて、無駄にお金や時間を浪費してしまいます。そして本当に追い詰められたときに「良心の呼び声」が聞こえてきます。その人は、「本来性」の生き方が欲望のままに生きることではないことに気が付きます。お金を浪費すれば幸せな気分になれると思っていたのは、実は「世人」からの誘惑にすぎませんでした。それは自分の欲望ではなくて、多くの人が抱く幻想に過ぎません。そこでその人は、「良心の呼び声」を意識することで自分の「本来性」に基づく生き方、一般的な言い方で言えば「生きがい」を見つけます。そして、充足した気持ちで死を迎えることになるのです。

このように、『100分DE名著』の『存在と時間』が描く人間像から一人の人の生き方を想像したときに、これはどこかで見た物語だな、と思い当たりました。それが黒澤明監督の『生きる』という作品でした。前回のblogをご覧になった方から、よい映画だったというコメントをいただきましたが、黒澤監督の映画の中でも人間の生き方を描いた点では、もっともストレートな作品だと思います。とはいえ、私がこの映画を見たのは数十年も前なので、記憶が曖昧です。そこで映画の広報から、ストーリーを拾ってみます。

 

市役所の市民課長・渡辺は30年間無欠勤、事なかれ主義の模範的役人。ある日、渡辺は自分が胃癌で余命幾ばくもないと知る。絶望に陥った渡辺は、歓楽街をさまよい飲み慣れない酒を飲む。自分の人生とは一体何だったのか……。渡辺は人間が本当に生きるということの意味を考え始め、そして、初めて真剣に役所の申請書類に目を通す。そこで彼の目に留まったのが市民から出されていた下水溜まりの埋め立てと小公園建設に関する陳情書だった。この作品は非人間的な官僚主義を痛烈に批判するとともに、人間が生きることについての哲学をも示した名作である。

(東宝映画『生きる』広報の「あらすじ」より)

https://eiga.com/movie/4446/

映画の予告編の動画はこちらからどうぞ。だいたい映画の雰囲気がわかります。

https://youtu.be/9Gm5rDwO7Ns

 

1952年の作品なので、いまさらネタバレということもないでしょうから、補足して少し書いておきます。

上に書いてある公園建設のために主人公は奔走し、死ぬ前に完成した公園の中のブランコに乗りながら、自分の成し遂げたことを確認して人生を閉じます。彼の通夜では、役所の人間が集まって彼のことを偲びますが、次の日になればいつものように事なかれ主義の役所仕事に戻ります。

黒澤監督のわかりやすい演出は、ときに戯画のように人間の姿を大仰に描きます。それが鼻につくという人もいるかもしれませんが、最後まで責任を持って言い切っているところが素晴らしいです。

そして、もうおわかりだと思いますが、この映画ではハイデガーが提示したキーワードが次々と映像として表現されています。まずは主人公の「非本来性」の人生描写からはじまります。役所の歯車として右から左に仕事を終わらせるだけですから、主人公にこれといった落ち度はありません。しかし、この人生こそ「頽落」そのものなのです。そして主人公のレントゲン写真には胃癌が映し出され、ナレーションが、この主人公が自分の人生を見直すにはもうちょっと病状が進まないと・・・、というふうに語っていたように記憶しています。

その後、主人公が「死に臨む存在」となり、ドラマが動き出します。彼は「可能性への先駆」というべき存在となりますが、それでもまだ十分ではありません。「死」を前にしながら、お金と時間をいたずらに浪費する日々を過ごすのです。そんなある日、知り合いの若い女性の一言をきっかけにして、主人公は「良心からの呼び声」に気が付きます。そして自分の「本来性」に基づく人生を邁進して、具体的には小さな公園を建設して、その成果を静かに実感しながら亡くなったのです。

いかがでしょうか?ハイデガーが思想として語ったことが、みごとに映画化されていると思いませんか?

しかし、気になることがあります。ハイデガーが提示したのは、まさに黒澤監督の映画のような人間の在り方ですが、ハイデガー自身はナチスに加担してしまいます。ナチスに脅かされて、消極的に協力したというのではないのです。彼は「ナチスこそがドイツ人の歴史的運命」だと高らかに謳いあげたのです。フライブルク大学総長就任演説においては学生たちに向けて、ドイツのために「献身」することが義務だと言ったそうです。学長としてどころか、教師としても、一人の人間としても失格です。高潔な思想を持ったハイデガーが、どうしてこうなってしまったのでしょうか?

 

戦後になって、多くの学者がハイデガーを非難しましたが、戸谷さんは『100分DE名著』のなかでハイデガーの思想の欠点について考察し、それを乗り越えようとした二人の学者を取り上げています。二人ともハイデガーに学んだ弟子ですが、一人は若い頃にハイデガーの愛人でもあったハンナ・アーレント(Hannah Arendt、1906 - 1975)で、もう一人はハンス・ヨナス(Hans Jonas、1903-1993)です。二人とも、このblogで紹介した映画『ハンナ・アーレント』の中で描かれていた人物です。二人は親友だったのですが、ナチス戦犯アドルフ・アイヒマンの裁判を機に意見を違えてしまいました。他にも、アーレントはたくさんの避難を浴びましたが、その時にアーレントがどう振る舞ったのかが映画のテーマになっていました。

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/dcf20f5daed7e0c55f0e9715d05eb525

 

それではハンナ・アーレントがハイデガーをどのように批判したのか、見ていきましょう。彼女は、ハイデガーが社会全体を「世人」として遠ざけ、それを乗り越えるために「死の先駆」を想定したことを問題視しています。「死の先駆」が前提にしているのは、映画『生きる』の主人公のように死を前にして、孤独のうちにもがく人です。このような人間像の、どこが問題なのでしょうか?戸谷さんの解説によると、ハンナ・アーレントの意見は次のようなものです。

 

第3回でも述べた通り、「死への先駆」は現存在が他者と交換不可能な存在であることを思い知らせ、現存在を単独化させます。そこでモデルとなっている人間観とは、仲間付き合いを堕落と見なし、独りぼっちで生きていくことこそが人間らしい生き方であると見なすものであると彼女は指摘するのです。

しかし、人間が「仲間」から引き離され、独りぼっちになってしまうとき、それを好機とばかりに全体主義の脅威が忍び寄ってきます。アーレントは次のように指摘します。

 

自らと同じ類の他者とともにこの地上に住まうことがもし人間の概念には含まれないとしたら、人間に残されるのはただ、原子化された自己たちにそれらの本性には本質的に疎遠な共通の基盤を提供する機械的な和解だけである。そのことから帰結しうるのはただ、決意によって受け入れた根本的な責めをなんとか行為へと移すために、もっぱら自ら自身に没入している自己たちを一つの超ー自己へと組織化することでしかない。(『アーレント思想集成Ⅰ』斎藤純一ほか共訳)

 

『存在と時間』のなかで論じられる孤独な人間、すなわち他者とのつながりから切り離され、「原子化された」人間には、もはや親しい仲間と意見を交わしたり、連帯して活動したりすることができません。みんな独りぼっちだからです。そうした人々は、もともと馴染みのないイデオロギーによって、「機械的」に統治されてしまいます。

<中略>

世人の支配をあれほど痛烈に批判していたハイデガーの主張は、むしろ、全体主義の支配に対して極めて脆弱であるー彼女はそのように考えていたに違いありません。

(『100分で名著「存在と時間」』「第4回放送」戸谷洋志)

 

孤独な人間は、「全体主義の支配に対して極めて脆弱である」というアーレントの主張が胸に迫ります。彼女は、さまざまな人間が混在する「複数性」を重要だと訴え、他者との交わりを「非本来性」として斥け、孤独であることを「本来性」として推奨したハイデガーの思想を批判しています。さらにアーレントは「人間がともに世界を築くために他者と語り合い、連帯して行動する」ことを「活動」という概念で表現したそうです。この「活動」こそ、全体主義に対する有効な抵抗策なのだと彼女は主張したのです。

 

一方のハンス・ヨナスが注目したのが、ハイデガーの「決意性」という概念だったそうです。「決意性」とは、「良心の呼び声」に耳を傾けようとする意志のことですが、この概念では不十分だとヨナスは言います。なぜなら、それが本当の「良心」なのかどうか、ハイデガーの考え方だと自分一人で答えを見出さねばならず、たとえ間違っていてもそれを止める者がいないからです。

例えば、ハイデガーがヒトラーを支持し、ナチスに加担するという決断をした時、ハイデガー自身がそれを自分の「本来性」だと判断すれば、その決断は擁護されてしまいます。周囲の声は「世人」による「頽落」の誘いでしかないのですから、ハイデガーの判断を止めることは不可能です。それでは、その欠点をどのように補えば良いとヨナスは考えたのでしょうか?

 

彼(ヨナス)は何よりもまず、この本(『存在と時間』)のなかには私たちが「何をするべきなのか」「何をするべきではないのか」という倫理の視点が欠けている、と指摘します。確かに、ハイデガーは決意性を発揮することで人間が責任の主体になる、と考えました。しかし、そのとき責任の概念が関わっているのは、自分の人生を自分で選び取るということであって、何を選ぶべきか、選ぶべきではないか、という問いは抜け落ちてしまっているのです。

そもそも責任とは、人間が他者に対して守るべき倫理であるはずです。「自分が選んだことであれば、他人がどうなってもいい」という考えは、むしろ無責任であると言わざるをえないでしょう。こうした観点からヨナスは、責任を自分自身に向かうものではなく、他者に対して引き受けるものとして位置づけようとします。

(『100分で名著「存在と時間」』「第4回放送」戸谷洋志)

 

そしてさらにヨナスは、それでは責任が向かうべき「他者」とはどのような人なのか、と問いかけます。傷つきやすくて、自分自身では生命を守ることができない者、そして私たちが現在行なっている行為が影響を及ぼす者として、ヨナスは「未来の子どもたち」に対してこそ、私たちは責任を負わなければならない、と考えました。

 

ハイデガーが言うように本来性が重要なのであれば、私たちは自分の本来性だけではなく、子どもたちが「本来性」を発揮できるようになること、つまり子どもたちが自分で自分の人生を選択できるようにしてやること、そうした選択が可能な世界を守り、残すことに対しても責任を負っているに違いありません。ヨナスはだからこそ私たちは「未来への責任」を負っている、と考えたのです。

こうした未来への責任には、貧困や飢餓の解消、地球環境の保全と並んで、戦争の回避や全体主義的支配の防止が含まれています。ヨナスは、二度とナチスが引き起こした惨事を繰り返さないこと、同じような犠牲者を出さないことこそが、現代社会を生きる私たちの責任であると考えました。こうした彼の考え方は、現在、環境問題などの分野で論じられている「世代間倫理」の礎になっています。

(『100分で名著「存在と時間」』「第4回放送」戸谷洋志)

 

ちなみに「世代間倫理」について、この本では「注」がついていて次のように書いてあります。「現在世代と過去世代・未来世代との間に成立するとされる倫理。今日では、特に地球環境問題との関連において、未来世代に対する世代間倫理が注目されている。」

残念ながら、今の世界はまったくこのような倫理を考慮する状況になっていないように見えます。本当に悲しいと思いますが、ハイデガーでさえ大きな過ちを犯したのですから、道はまだまだ遠いと言わざるを得ません。その間にも、地球環境が破壊されていることを思うと、果たして地球上がどうしようもなくなってしまうまでに、人間は何かを改善することができるのだろうか、と不安になります。私たち一人一人も、連帯して何か「活動」しなければならないのだと思います。

 

さて、ここで再び、映画『生きる』のことを考えてみましょう。主人公が死を前にして迷走しますが、その時に知り合いの女性が「あなたも何か作ればいいじゃない」という趣旨の助言をします。年の若い女性が、年長者の初老の男に対して助言するところが素敵ですが、この女性が「未来」を見据えていたことを思えば必然的な出来事でしょう。そして主人公は「決意」を秘めて、「世人」の世界へと回帰します。そして、役所という一人だけでは何もできない「世界」で、厄介な「世人」たちとともに、子どもたちのために、あるいは「未来」の人たちのために公園を設営するのです。

私は先ほど、『生きる』の物語は『存在と時間』を表現したものではないか、と書きましたが、むしろ映画は思想を超えて、その欠点を補った「未来」を照らし出していたのではないでしょうか。映画『生きる』の中には、ハイデガーばかりでなく、アーレントの「連帯」や「活動」、ヨナスの「未来への責任」という思想まで含まれていたように思います。

思想は芸術を導くものですが、ときに芸術は思想を超えて未来を暗示します。今回は、その好例を取り上げてみました。

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