平らな深み、緩やかな時間

382.最近の出来事と、晩年の梅原猛について①

私は社会的な問題に疎い人間ですが、最近のニュースで「このリアクションはないだろう!」と思わず心の中で叫んでしまった件が二つあります。
まずは前回も取り上げた「教員の働き方改革」に関するニュースです。

『「教員に寄り添っていない」文科省の抗議に学校現場から反発の声も』
https://www.asahi.com/articles/ASS5Q3387S5QUTIL01KM.html

『狙いは「ブラック職場」隠し? 文部科学省の逆ギレ抗議の怪しさ 教員の「定額働かせ放題」NHK報道めぐり』
https://www.tokyo-np.co.jp/article/329243


これは文部科学省が、NHKの報道に対して抗議文を出したというニュースです。
NHKは、公立学校教員の給与制度の改革に対して「定額働かせ放題とも言われる枠組みは残る」などと報道したのです。それに対して文科省は「一面的なもので大変遺憾」とする抗議文を出しました。これに現場の教員からは反発の声が上がっているのです。
「怒りを通り越してあきれている」という、ある高校の先生の感想に私は同意します。文科省の方にも、いろいろな思いはあるのでしょうが、それにしてもこの反応はないだろう、と思います。
この教員に対する不当な対応は、突き詰めれば教育を受ける立場の子どもたちに対する不当な、あるいは誠意のない対応ということになるでしょう。子どもたちは自分の権利を十分に主張できませんし、自己主張するだけの力もありません。為政者の立場からすると、こういう弱い立場の人たちは、もっともどうでもいい人たち、ということになるのでしょうか?このむごい仕打ちは、私たちの未来に良くない影響を及ぼすはずです。
そして、このような社会的な構造は、残念ながら世界のあちらこちらで見ることができます。次のニュースも、そのことと関連しています。
もう一つの出来事は、国際ニュースとして取り上げられない日がないイスラエルに関するニュースです。

『イスラエルとハマスの指導者の逮捕状、ICCが請求 ネタニヤフ氏は「虚偽」と強く非難』
https://www.bbc.com/japanese/articles/c6pp5eg0qj1o

こちらは、国際刑事裁判所(ICC)がパレスチナ自治区ガザ地区での戦闘をめぐる戦争犯罪容疑で、イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相らとイスラム組織ハマスの複数指導者らの逮捕状を請求した、というニュースです。
私が違和を感じたのは、ネタニヤフ氏が自らの逮捕状を「虚偽」と言ったことではなく、「アメリカのジョー・バイデン大統領もこれに同調し、イスラエルとハマスとの間に等価性はないと述べた」という部分です。
この不毛な戦闘に対してアメリカの責任をひしひしと感じるニュースが多い中で、ネタニヤフの犯罪容疑を虚偽だという主張にまで同調するというのは、やはり・・・と思わざるをえません。アメリカへの失望は、深くなるばかりです。
そしてここにも、自らの権利を十分に主張し難い非西欧社会の人たちに対する配慮のなさ、もっと言えば差別意識を感じます。パレスチナ自治区の人たちの命と、西欧社会の人たちの命が等価に扱われていない、というのは明らかです。アメリカの為政者の言い分としては、「ハマス」は過激派組織だから、という理由があるのでしょうが、ネタニヤフ氏も同等の罪深さがあるように見えます。この世界の非対称性を見ると、悲しい気持ちになります。
そういう時には、このことに関連した若い人たちのニュースに目を向けましょう。

『米ハーヴァード大の卒業式で学生らが抗議の退出、反戦デモ参加の学生の卒業求め』
https://www.bbc.com/japanese/articles/c800j8y8e4zo


このように現在の入り組んだ世界では、何が正しいのか、誰の言っていることがマトモなのか、などということは容易に判断できません。安易に他者に追随せず、つねに自分の頭で考えることが大切なのです。
これは創作活動においても、まったく同じことが言えます。誰かにほめられても、あるいはけなされても、そのことで一喜一憂するのは愚かしいことです。そんな時は、自分の表現したかったことが本当に相手(他者)に伝わっているのかどうか、ということを考えましょう。そして独りよがりの表現に陥らないためにも、いろいろな考え方を学びましょう。
私はそう思って、あまり出来の良くない頭で日々学習しています。例えば、次のようなテレビ番組はいかがでしょうか?

『脱成長!新・マルクスの世界 斎藤幸平』
https://www.nhk.jp/p/ts/XW1RWRY45R/episode/te/8PGKQ29249/

前編はまだ再放送(NHK +)で視聴でき、後編は5月22日(火)の放送です。日々の出来事に怒ったり、落胆したり、少しホッとしたり、ということも大事ですが、今の私たちに何ができるのか、どういう方向を目指して歩んでいけば良いのか、などということを考えるには、やはり知性と理性、そして感性の鍛錬が必要です。特に「脱成長」ということになれば、感性的にそれを受け入れられないと生活の中で定着することは不可能でしょう。そう、こういう新しいこと始める時には、感性が大切な要素なのです。

あるいは、感性が大切だという意味では、次のような音楽はいかがでしょうか。
ボブ・マーリー(Robert Nesta Marley 、1945 - 1981)さんの『One Love』という曲です。
https://youtu.be/UVstDw672_M?si=Wk7p5HbzfwS6viYl

今、マーリーさんの伝記的な映画が話題ですね。
https://youtu.be/RGDWGp18E7M?si=mOwrLqqs4RvLIi8E

私は映画を見ていませんし、マーリーさんの熱心なファンでもありませんが、映画を見る機会があれば、感想を書き留めておきたいと思います。
私たちの世代は、レゲエという音楽が世界的に広まっていく、まさにその場に立ち会いました。先見の明のあるミュージシャンたちがマーリーさんを見出しました。そしてマーリーさんが世界的なミュージシャンとして押し上げられると、音楽業界はレゲエをトロピカルな娯楽音楽として消費してしまいます。今、マーリーさんの子どもたちの世代によって、その反省がなされているのかもしれません。


さて、そんなことを考えていたら、数年前に亡くなった規格外のスケールを持った思想家のことを思い出しました。今回はその人の晩年の思想について考えてみよう、という一回めです。
その人は梅原猛(1925 - 2019)さんという哲学者、思想家、脚本家です。今の若い方は、彼のことを知っているのでしょうか?哲学にくわしい知り合いの若い方に聞いてみたら、彼は梅原さんのことを知りませんでした。そういうものなのかもしれません。
私たちの世代だと、梅原さんが書いた主に日本史に関する本を学生時代に読んだ方が多いのではないでしょうか。それらは「梅原日本学」と呼ばれる日本の歴史の本です。例えばその代表作である『隠された十字架 法隆寺論』(1972)という本では、法隆寺が聖徳太子一族の鎮魂のための寺である、という大胆な仮説が語られています。歴史に詳しくない私には、その説の学問的な価値はわからないものの、梅原さんの熱っぽい文体に熱中して読んだ覚えがあります。
梅原さんの文章は、素人の私が読んでも論理に飛躍があるように感じますし、直観による思い込みも激しいような気がします。そういう点で、歴史学者から多くの批判があったようですが、本人は意に介していなかったようです。梅原さんは西洋哲学を学んだ人ですから、日本史の専門家ではなかったはずです。しかし、それゆえに先入観のない目で歴史を見ることができるのだ、と本人は言っていたと思います。
そのような歴史学の本を何冊も書いた後で、梅原さんはスーパー歌舞伎『ヤマトタケル』などの台本を書くなど、創作活動にも意欲的に取り組みました。私はその舞台を見たことがありませんが、もしかしたら学問よりも創作に才能があった人なのかもしれません。

そんな梅原さんが晩年に出した著作が、『森の思想が人類を救う』(1995)という講演集、それからその講演内容がもととなった『人類哲学序説』(2013)という新書でした。実は『人類哲学序説』は、以前に読んだことがありました。『森の思想が人類を救う』という本は、今回はじめて見つけたので、、遡って読むことにしました。
そして、もう一冊見つけたのが『草木の生起する国: 梅原猛インタビュー 聞き手・東浩紀』(2019)という本です。この本は、東日本大震災の翌年、哲学者の東浩紀さんが聞き手となって、梅原さんにインタビューした内容を収録したものです。
今回、梅原さんの本に注目したのは、一つには原発の再稼働が話題になっていることがきっかけです。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240430/k10014436561000.html
もう一つは核のゴミの最終処分場のことが報じられていたからです。
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOJC011W10R00C24A5000000/

思い出してみると、東日本大震災の原発事故の直後は日本中が「原発なんて、とんでもない」という雰囲気でしたが、それは雰囲気だけのことだったようです。今では政府も電力会社も原発稼働に前のめりになり、そのことに反発する声もあまり大きくないようです。
しかし、本当にこれで良いのでしょうか?これは単なる発電のための電源の話ではなくて、もっと根本的な、これからの人間の生き方に関わることのように私には思えます。その時に、私はふと梅原猛さんのことを思い出し、その著書を調べてみると、東日本大震災後のインタビューの本がたまたま見つかったのです。
そしてインタビューの聞き手が、哲学者の東浩紀(1971 - )だったというのも、気になった点です。現在、もっとも意欲的に活動している哲学者が、梅原さんに対してどのようなことを聞くのか、お互いにどのように評価しているのか、興味があります。
さて、ここまで書くのに、だいぶ話が長くなってしまったので、今回は原発に対する考え方が梅原さんの思想とどのように関係しているのか、二人の哲学者はお互いをどのように評価しているのか、その辺りを探るところまでやってみることにします。

この『草木の生起する国』では、まず東浩紀さんが次のように梅原さんに問いかけます。

ぼくは梅原先生の本が個人的に好きで、かなり読ませていただいております。いままでは自分の仕事と接点を作るのが難しかったのですが、昨年(二〇一一年)、東日本大震災直後に梅原先生が「原発事故は近代文明そのものが起こした災いである」と発言されているのを拝見しまして、その真意についてぜひ伺いたいと思いました。
(『草木の生起する国』「文明の災い」梅原猛・東浩紀)

その問いに対して、梅原さんは次のように答えています。

お話のとおり、原発事故はひとつのきっかけになりました。いま、ヨーロッパをはじめとする先進国はほとんど、エネルギーの何割かを原子力に頼って文明を作り上げている。だから、原発事故によって文明そのものが問われているのだと思いました。また、わたしの生まれは仙台で、母方は石巻の渡波というところなのですが、ここは大震災でたいへん大きな被害を受けましたので、とてもひとごととは思えませんでした。さらに、被災地の悲惨な光景は、わたしの戦争中の体験に重なるものがありました。
(『草木の生起する国』「文明の災い」梅原猛・東浩紀)

この『草木の生起する国』はインタビューを記録した本なので、梅原さんの答えも端的な言葉になっています。この問いの内容について、『人類哲学序説』の「あとがき」では、もう少し根本的な考えを梅原さんは書いています。

私は若き日にかなり熱心に西洋哲学を研究したが、40歳ごろ、研究対象を主として日本文化に変更した。それは、近代西洋文明に疑問を感じ、人類文化を持続的に発展せしめる原理が日本文化のなかに存在するのではないかという予感を抱いたからである。
しかし、その日本文化の本質を明らかにするために、私は約50年もの時が必要であった。そこで見出した日本文化の原理が「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」という思想であるが、それを西洋哲学の原理とどう対決させるかが問題であった。
私は20年ほど前からその問題について考え続けてきたが、西洋哲学の巨匠たちを批判する勇気をなかなか持てなかった。ところが、東日本大震災が起こったことによって、私は西洋が生み出した科学技術文明を基礎づける西洋哲学を批判しなければならないと思った。
この大震災は原発事故を伴ったことにより、被害が拡大した。現在、世界のほとんどすべての先進国が、原子力発電を主要なエネルギー源として採用している。とすれば、原子力発電を主なエネルギー源とする現代文明のあり方そのものが問われなければならない。日本は原子力による二度の大きな被害を受けた。一度目は広島と長崎への原爆投下、二度目は東日本大震災における福島の原発事故である。大震災にあって、私はこの書を書くことを決意したのである。
(『人類哲学序説』「あとがき」梅原猛)

このように語るときの梅原さんの言葉は明快で、とてもわかりやすいものです。
東日本大震災のときに原発事故という大きな被害をもたらした科学技術の基礎には、西洋哲学があります。その西洋哲学に疑問を抱いていた梅原さんは、この事故を機に、いよいよ西洋哲学批判を展開する決心をしたというのです。梅原さんは、そのような危うい西洋文明に対し、人類文化を持続的に発展させる原理が日本文化のなかにあると予感し、そこに「草木国土悉皆成仏」という思想を見出したのです。
この梅原さんの思想の形成過程は興味深いものですが、今回取り上げると長くなるので次回に回すことにします。

しかし、この明快な梅原さんの思想に対し、あまりに明快すぎて私は少し不安になります。西洋文明の危うさについて語る部分には共感が持てますが、その批判として成り立つ持続可能な原理が日本文化に存在する、という点はどうだろうか、と疑問に思うのです。その内容は次回吟味するとして、東浩紀さんのような世代の異なる哲学者が梅原さんをどのように評価しているのか、その声を聞いてみたくなります。
インタビュー集『草木の生起する国』の巻末に、東浩紀さんが書いた「追悼・梅原猛氏をしのんで」という文章があります。その中で、東さんの梅原さんへの評価と言える部分がありますので、抜き出してみましょう。

梅原氏の業績は多岐にわたり、大胆な主張が多いために反発も多い。代表作である『隠された十字架』『水底の歌』も、刊行当時に激しい批判に晒されたと聞く。ぼくは日本史の専門家でなく、その是非を判断する立場にない。とはいえ、かりに事実の記述に瑕疵があったとしても、「怨霊史観」「梅原日本学」と呼ばれるそれらの仕事が、いま日本に生きる哲学者がなにをすべきなのか、その問いに正面から向かいあった傑出した「歴史哲学」であったことはまちがいないと思う。事実の集積は歴史にならない。ひとは過去を物語に変えてはじめて未来に進める。そしてその物語の創出は哲学者の債務である。戦後日本は戦死者の慰霊に失敗し続けた国で、その歪みはいまだにわたしたちを苦しめている。日本史を怨霊の観点から再構成する歴史哲学は、そのような現代日本への批判を含んでいたのではないか。それは同時に、安全な「研究」しかしなくなった同時代の学会へのいら立ちも含んでいたことだろう。
(『草木の生起する国』「追悼・梅原猛氏をしのんで」東浩紀)

この文章を読むと、東さんが梅原さんをどう見ているのか、がよくわかります。梅原さんの本には多少の瑕疵があったとしても、その意義を損なうものではない、と東さんは言っているのです。人の思想を批判することは、頭の良い人ならば容易いことなのでしょうが、その批判に応えるだけの原理を創出することは、賢さだけでは何ともなりません。安全な場所から飛び出して、火の中に飛び込まなくてはならない、その覚悟が梅原さんにはあった、と東さんは評価しているのだと思います。
そして、梅原さんは東さんのことを、どのように評価していたのでしょうか?
私から見ると、梅原さんと東さんは、資質としては正反対の思想家のように思えるのですが、梅原さんは意外なことを言っています。

あなたの『動物化するポストモダン』を読み、子どものころのわたしもオタクではなかったかと思いました。わたしは婚外子で、しかも幼いころに母に先立たれて、預けられた先の親戚のおじさんとおばさんを親と思って育った。親戚の人や近所の人はみなその真相を知っていたのですが、自分だけが知らず、なぜか世間は自分に対して冷たい目を持っているという感覚だけがありました。それで小学校に入る前から孤独な自分の世界に閉じこもって、買ってもらった力士のブロマイドを毎日眺めたりして、いろいろな空想に耽っていました。あなたの言うオタクの元祖みたいなもので、そうした経験と自己の思想に夢中になることはどこかでつながっているように思います。
(『草木の生起する国』「実存を超えて」梅原猛・東浩紀)

この『動物化するポストモダン』は2001年に出版された東浩紀さんの主著になります。
「オタクから見た日本社会」という副題がついている通り、オタクの立場からカルチャー、サブカルチャーを論じた本ですが、わたしは当時、あまり真剣に読みませんでした。「オタク」という言葉にも、何か違和を感じていたからだと思います
しかし「オタク」とは正反対だと思っていた梅原さんが、自分は「オタクの元祖みたいなもの」だと柔軟に発言しているのですから、もう一度読み直さなくてはなりません。先ほど書いたように、梅原さんと東さんは正反対の思想家ではないか、というのはあまりに表面的で、私の理解が浅かったのかもしれません。
ということですが、東さんの主著の読み直しはもう少し先になります。
梅原さんの晩年の思想、日本文化に原理を置いたその考えについては、次回、もう少し詳しく追いかけてみます。「草木国土悉皆成仏」という難しい言葉の意味も、解き明かしてみることにします
そして、そのような日本の文化、あるいは梅原さんの晩年の思想を理解することが、私たちの感性をどのように変えるのか、もっと言えば、そのことが私たちの創作活動をどのように変えていく可能性があるのか、というところまで考察したいと思います。
もしかしたら、ものを見る時の私たちの立ち位置を変えるような、そんな大きな変化になるかもしれません。
どうかお楽しみに。
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