日本では、夏は戦争の体験を語り継ぐ季節でもあります。
若い頃は、ああ、またか、ぜんぜん実感が湧かないんだけど・・・、などと斜に構えていましたが、やはりこういうことは大切なことなんだなあ、と最近、つくづく思います。愚かな戦争、紛争、殺戮が世界中で止まないことに絶望感すら抱いてしまいますね。でも、あきらめないで、できることからやりましょう。
その関連でしょうか、画家、香月泰男(かづき やすお、1911 - 1974)さんのシベリア抑留体験を描いた『シベリア・シリーズ』の特別展が、山口県立美術館で8月25日(日)まで開催されています。
https://y-pam.jp/exhibition/
その展覧会に合わせて、NHK「日曜美術館」で次のような番組が放送されました。
鎮魂 香月泰男のシベリア・シリーズ
初回放送日:2024年7月28日
シベリア抑留を中心に自らの過酷な戦争体験を、57点もの絵に描いた香月泰男の『シベリア・シリーズ』。戦後の復員直後から亡くなるまで27年間にわたって描き続けた、香月の畢生のシリーズ作品である。番組では、香月泰男の没後50年を記念して『シベリア・シリーズ』が一堂に展示されるのを機に、一見しただけでは分からない象徴化された作品を、絵に添えた香月の言葉を朗読しながら味わっていく。
https://www.nhk.jp/p/nichibi/ts/3PGYQN55NP/episode/te/J82X91YNQW/
私は香月さんの『シベリア・シリーズ』について、特別な思い入れがあって、これまでもblogで書いてきました。振り返ると3回も書いていますね。
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/1ee6ca14da5d254b3f04f92d43dba255
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/81ae913814ae0923434e896eb8b8e6c5
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/81ae913814ae0923434e896eb8b8e6c5
したがって、ここで改めて書き添えることはないのですが、この機会に番組を見たり、美術館の近くの方は展覧会を見に行ったりされると良いかと思って、ご紹介しておきます。
香月さんの『シベリア・シリーズ』は、「反戦の絵」というふうに構えて見る必要はありません。絵として本当に素晴らしいです。黒い炭の色と土の色が主調なのに、色彩も美しいです。香月さんは、「絵を描こう」と思って描いていないのですが、それが結果的に、当時の日本の絵画の水準を超えることになりました。
展覧会場が遠い方も多いと思いますので、映像だけでもご覧ください。
次にオリンピックの話です。
今年の夏はオリンピックのシーズンでもありますね。
7月26日(木)の朝日新聞の朝刊『天声人語』に次のような記事が載っていました。
「オリンピックが嫌いだ」。翻訳家の岸本佐知子さんが、たっぷりのユーモアを込め、随筆集『ねにもつタイプ』に書き綴(つづ)っている。いわく、「朝から晩までオリンピックオリンピックとそのことばかりになるから嫌いだ」
(朝日新聞 7月26日『天声人語』より)
岸本さんのエッセイは評判を聞くものの、これまで読んできませんでした。それで、これは面白そうだと思い、さっそく『ねにもつタイプ』を買ってみました。このオリンピックのくだりは、「裏五輪」というエッセイに書かれています。
『天声人語』に書かれた部分の続きを読んでみましょう。
参加することに意義があるとか言いながらメダルの数に固執するから嫌いだ。口では「ゲームを楽しみたいと思います」と言いつつ目が笑っていなくて嫌いだ。メダルを取らなかった選手と種目は最初から存在しなかったことになるのが嫌いだ。国別なのも嫌いだ。閉会式と開会式だけちょっと好きだ。あとはぜんぶ嫌いだ。
(『ねにもつタイプ』「裏五輪」岸本佐知子)
思った通り、面白いですね。とくにいいなあ、と思ったのは「国別なのも嫌いだ」というところです。私も、ワールドカップとかオリンピックとか観戦していて思うのですが、そもそも国別に競い合うということが不健全なのではないか、ということです。朝日新聞の記者もこう書いています。
パリ五輪で、日本は20の金メダルを目指すというが、大事なのは数ではあるまい。国別対抗の意識も煽るようで、心配だ
(朝日新聞 7月26日『天声人語』より)
そう、オリンピックを観戦していると、どうしても自分の中のナショナリズムが増大するのを感じます。「これはスポーツだからいいんだ」と言って良いものでしょうか?
ところが朝日新聞は、この記事の最後の方で、次のようにまとめています。
でも、それでも、私は五輪が嫌いではない。なぜなら、その理念に共感をするからだ。戦争を否定し、平和を希求する。多様性を重んじ、差別を排し、人権を尊ぶ。目の前の現実とかけ離れているからこそ、崇高なる意義にこだわり、大切にしたい
(朝日新聞 7月26日『天声人語』より)
うーん、本当にそうでしょうか。
オリンピックの「崇高なる意義」は、今やかなり怪しい、と思わざるを得ません。とにかくあらゆることが肥大化し、選手の素晴らしいパフォーマンスを純粋に楽しめなくなっていることは否めません。もう、初心に戻ることは不可能でしょう。だったら、一度解体してみてはどうか、と考えてしまいます。
さて、岸本さんですが、このエッセイの後半で、「逆立ち競争」とか「パン食い競争」とかの新競技を設置した上で、メダルの代わりに「どんぐり」や「煮干し」を賞品にしてはどうか、と提案しています。楽しい発想ですが、結論は苦いです。しかし、どんなに工夫しても、結局は同じことになるのだろう・・・、「だから私はオリンピックが嫌いだ」という文章で、岸本さんはこのエッセイを結んでいます。
あなたは、『天声人語』と岸本さんと、どちらに共感しますか?
そして今回、取り上げたい本は、ドイツの哲学者、マルクス・ガブリエル(Markus Gabriel, 1980 - )さんの『倫理資本主義の時代』です。
今回のガブリエルさんの本は、人間が倫理的に健全な行動を取れば、それが互いを幸福にすることにつながるし、資本主義経済も良い方向に向かうはずだ、という提言です。このメッセージはどこかで戦争や紛争のない平和な世界と、スポーツや芸術の健全なあり方とも結び付いているような気がしています。つまりここまでの話と繋がっているのです。
先ほどまでの話で、私の現状認識はかなり悲観的で、厳しいものです。それに対して、ガブリエルさんはこれまでの著作でも、どちらかといえば楽観的で、そのことが彼の魅力でもあります。思想家といえば、眉間に皺を寄せて難しいことを語り、さらにその言葉は厳しい現状認識ばかり・・・、という私たちのイメージを改めたのが、ガブリエルさんでした。
しかし、今回は哲学や思想が、現実の経済とどうリンクするのか、という話なので、その成り行きはどうなるのでしょうか。
それでは、書店の紹介文を読んでみましょう。
本記事では、その刊行を記念して本書の序文を全文公開します。資本主義が行き詰まりとなり、「入れ子構造の危機」に瀕している現代の世界。その打開の鍵は資本主義の放棄ではなく、道徳的価値と経済的価値を再統合し、「善」の組み込みによってアップデートを施した「倫理資本主義」の実装であると説く本書。こうした発想は、いったいどこから生まれたのか? そして、なぜ彼は世界に先駆けて日本で倫理資本主義の価値を表明しようと考えたのか? その秘密の一端が、明快に語られます。
https://www.hayakawabooks.com/n/n3fa24e13e077?gs=6fd030abd07f
上に書いてある通り、なんとこのサイトで「序文」をすべて読むことができます。それに目次の項目も細かく書かれています。そこで、ここではざっくりと目次を見て、上の紹介文にある内容が、どのように展開しているのか、見ておきましょう。
第1部 哲学者、経済を考える
第1章 「倫理」「資本主義」「社会」を定義する
第2章 入れ子構造の危機ー現場の複雑性
第2部 経済学の危機
第3章 経済学の危機
第4章 道徳的価値と経済的価値をリカップリングさせるー新しい啓蒙への道
第5章 ヒトという動物ー協力を最優先する
第6章 道徳的進歩と持続可能性
追伸 物象化としての「資本主義」
第3部 応用篇
第7章 CPOと倫理部門
第8章 子どもたちに選挙権を!
第9章 パンデミックー欲望をコントロールする
第10章 次世代のAI倫理
結論
謝辞
以上ですが、「第1部」では「倫理」「資本主義」などの定義が語られ、その中で「倫理資本主義」について、次のように語られています。
倫理資本主義とは、倫理と資本主義を融合させられるという考え方だ。道徳的に正しい行動から利益を得ることは可能であり、またそうすべきである。資本主義のプラットフォームは人間性を向上させるため、道徳的進歩を遂げるために活用できる。今日の資本主義がサクセスストーリーとしてこれほど広範に受け入れられるようになった要因の一つがここにある。歴史の発展とそれに伴う社会政治闘争を経て、資本主義は途方もない科学技術的進歩をもたらし、そこから生じる剰余価値の一部は産業、政治、市民社会で好ましい用途に使われる。国家が道徳的に優れたサービス(医療、機会均等、あるいは無償教育)を提供するためには税収が必要で、その税収は経済活動の副作用として生み出される。要するに、道徳的に正しいことをするために利益を得ることの両方が存在する。そして両方を組み合わせ、道徳的に正しい行動によって得た利益を使い、道徳的に正しい行動をすることもできる。
(『倫理資本主義の時代』「第1部 第1章」マルクス・ガブリエル著、土方奈美訳)
読めば読むほど、正論だと思います。「道徳的に正しい行動から利益を得ることは可能であり、またそうすべきである」という一文は、すべての企業人、経済関係者に読んでもらいたいものです。この本の中で、ガブリエルさんは利己的な利益を求めることがどれほど愚かなことか、哲学的に語っています。
「序文」の中でも、ガブリエルさんは次のように書いています。
本書を通じて、イマヌエル・カントが「最高善」と呼んだ概念を使いながらこれを説明していく。最高善によると、人々が幸せになるのにふさわしいから幸せであるほうが、邪悪な行動によって幸せになるより好ましい。これは時代や文化を超えて見られる人間の基本的直観だ。それを、より良い制度をつくり、社会を改善していく基本的指針として使うことができる。
(『倫理資本主義の時代』「序文」マルクス・ガブリエル著、土方奈美訳)
かんたんに言えば、良い行いによって幸せになる方が、その人にとっても、社会全体にとっても好ましいということです。だからみんながそう考えれば、資本主義もうまく回っていく、というものです。
第2部では、そのように経済と倫理が結びつくとはどういうことかを説明していきます。
例えば、第1部の「倫理資本主義」の解説を読んで、そんなにうまくいくのか、と考える人もいると思います。資本主義の現状の格差社会を考えれば、それを是正するには社会主義のように国家が経済をコントロールする必要があるのではないか、という意見もあるでしょう。しかし、ガブリエルさんは、そういうコントロールは経済の力を削ぐばかりで良くない、と言います。それよりも、現在の資本主義の良い点をしっかりと見ることが重要だ、とガブリエルさんは言います。
「序文」でもガブリエルさんは次のように書いています。
意外なことだが、現行システムで取り組むべき最初の大胆な改革とは、その長所を認めることだ。資本主義、民主主義、さらには地球から逃げようとするのではなく、批判勢力がシステムのアキレス腱として正当に批判している条件を変える必要がある。言い方を変えれば、風呂水と一緒に赤ん坊まで捨ててはならないのだ。資本主義を改革し、生態学的危機、社会を蝕むしばむような格差、テクノロジーや戦争の脅威を解決しなければならない。だがそのためにはまず、過去200年の間に人類が実現したものの価値をしっかり認めることが必要だ。数百万人が極度の貧困を抜け出した。豊かな社会での生活はかつてなかったほど心地よい。これまでの産業革命の過ちや、その巻き添え被害として発生した地政学的悲劇や戦争について、道徳的に進歩的洞察を得ることもできる。今日資本主義が引き起こした生態学的弊害、労働者の搾取、その植民地的起源、ジェンダー格差をはじめとするさまざまな差別を批判できるのは、近代の文明化のおかげである。それを見限るのではなく、大胆な改革の機会をつかむべきだ。
(『倫理資本主義の時代』「序文」マルクス・ガブリエル著、土方奈美訳)
うーん、難しいですね。
現在の資本主義の評価ですが、「数百万人が極度の貧困を抜け出した。豊かな社会での生活はかつてなかったほど心地よい。」というのは、ドイツや日本の中流以上の生活ができている人たちならば頷けるのでしょうが、世界中にはそうでない人たちもたくさんいると思います。ですから、この結論は確かにガブリエルさんが文頭で言っているように「意外なこと」なのです。
そして第3部では、各企業が倫理的な行動をするように、倫理部門の最高哲学責任者(CPO)を設置する、とか、子どもたちの方が大人より正しい判断をすることもあるのだから、子どもにも選挙権を与えれば良い、とか、具体的な提言が書かれています。
これも正直に言って、話としては素晴らしいけれども、現実にはうまくいくのかな・・、という疑問が付いてしまいます。CPOが一部の金持ちに買収されないかな、とか、子どもたちが良くない大人の影響を受けないかな、などと心配してしまいます。
いずれにしても、ガブリエルさんの提言は、資本主義を改革せずに倫理的に運用していくことの難しさをかえって浮き彫りにしているような気がします。かつてガブリエルさんは、ベーシック・インカムを導入せよ、と言っていましたから、もっとそういう提言があると思ったのですが、ざっと読んだところ、そのような提言は見当たらないようです。
さて、最後に気になった点を一つ挙げておきます。
それはイスラエルによるパレスチナ市民の殺戮行為に関することです。ガブリエルさんは次のように書いています。
二〇二三年一〇月七日にハマスのテロリストが犯した、バイデン米大統領の言葉を借りれば「悪の所業」というべき残虐行為を受けて、罪のないパレスチナ市民とイスラエル兵が目下直面させられている恐ろしい悲劇も同じであることは言うまでもない。テロ攻撃への報復として今も進行中の軍事行動のなかで、一部のイスラエル兵が戦争犯罪を疑われている事実は無視できない。またイスラエル軍による全体的な軍事行動が、きわめて問題のあるものになってきた事実も看過できない。民間人の死者が多すぎるのは明らかで、その多くが避けられたものであり、なかには意図的なものも含まれている可能性があることから、一部のイスラエル軍の行為は邪悪である。国際法に従って事件を評価し、分類するのは国際機関の役割だ。このケースでは完全な倫理的解決策はない。ただ現時点で、イスラエルは今も自由民主主義陣営のメンバーであり、民間人に対する戦争犯罪は絶対に正当化できないものの、ハマスに対する何らかの軍事行動を正当化できるだけの存亡の脅威に直面していることを理解するのは重要である。
<中略>
平和があるべき姿であり、戦争──それが自衛のための戦争、あるいは(そんなものが存在するかはわからないが)「正当な戦争」であるかにかかわらず──は罪であるという道徳的事実は、イスラエルには残虐な大規模テロ行為に対して軍事行動を起こす権利がないことを意味してはいない。今回の軍事行動の規模や詳細は、国際法、民主的な批判と意思決定の対象となる
(『倫理資本主義の時代』「第2部 第6章」マルクス・ガブリエル著、土方奈美訳)
ここには「一部のイスラエル兵」という言葉によって事件の矮小化が図られ、「イスラエルは今も自由民主主義陣営のメンバーであり、民間人に対する戦争犯罪は絶対に正当化できないものの、ハマスに対する何らかの軍事行動を正当化できるだけの存亡の脅威に直面していることを理解するのは重要である」という一文には同意できません。この文章が、かなり前に書かれたもので、状況が今ほど悪くなかったとしても・・・、です。
ここで気になるのは、ガブリエルさんがドイツ人だということです。ドイツの人が、イスラエルに対して厳しい態度を取りにくい、ということは理解します。しかしガブリエルさんがこの本で問題としているのは、「倫理」や「道徳」の普遍性です。その普遍性は担保できるのでしょうか?普遍性がなければ、「倫理資本主義」は一部の人たち、例えば欧米のエリートの人たちに有利な経済制度になってしまって、現在の世界の格差は是正されなくなってしまいます。
さて、この本には「わかりにくい哲学用語や技術用語は使わないようにした」と書いてありますが、私には十分に難しかったです。研究者の方々には、ガブリエルさんの提言の妥当性を、その文章とデータの緻密さから推しはかるのでしょうが、それは素人には無理な相談です。私は、いろいろと直観的な批判を書いてしまいましたが、皆さんはぜひ原著を読んでご判断ください。
個人的には、この「倫理」主義が世界のあらゆる面で働くと、芸術の分野はちょっと窮屈になるかもしれない、と心配になります。ここで言うところの「倫理」や「道徳」は、芸術的な「自由」と矛盾しないことを願っています。
とはいえ、いずれにしても、このような社会が実現するのには、幾重にもハードルがありそうです。これからも、ガブリエルさんの動向に注目していきましょう。
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